編入編8 嵐の前の
午後十二時三十分。三限目終了のチャイムが鳴った。土曜日は半日なので、これで今日の授業は終了だ。
白井先生が退室すると同時に、教室内は喧騒に包まれる。ざわめきに応えるように椅子の下で丸くなっていたリルが目を覚まし、グイっと体を伸ばして欠伸した。
俺も長いこと椅子に座っていて身体が固くなった。久しぶりに授業を受けると結構しんどいものだ。
「あの、大神君」
「あ?」
コキコキと背中を鳴らしていると、声をかけられた。猫柳でも東雲でもない女子だ。黒髪を短いボブに切り揃えており、日本人らしい顔立ちを申し訳なさそうに俯かせている。
「えっと、さっきは……」
「え? ああ」
誰かと思えば一限目が始まる前、鎌倉たちに拉致られそうになっていた時に庇おうとしてくれた子だ。
「さっきはその、ごめんなさい。私……」
鎌倉たちから庇えなかったことを言っているのだろう、黒髪ボブは申し訳なさそうに言葉を紡ぎ、目には涙まで溜めている。
「あーいや、何も気にすることねぇだろ。俺も何となく事情は察してるつもりだし」
鎌倉たちは異能と脅しでクラスを仕切っている。その鎌倉の行動に面と向かって反抗すれば今度は自分がその標的になってしまいかねない。
彼女の自衛は当然のことだ。
「うん。その……ありがとう、庇ってくれたよね?」
そういって少女は遠慮がちに笑みを浮かべた。彼女が鎌倉に睨まれて萎縮していた時のことを言っているんだろう。
「別に、そんな大層なことじゃねえよ」
あの時俺が庇わなければ鎌倉はこの子に手を上げていたかもしれない。俺の事情で無関係な女子を巻き込むわけにはいかないと思っただけのことだ。
「大神くーん、ご飯食べにいこー」
「あれ、里立さん?」
俺が彼女、里立さんとやらと話していると、猫柳と東雲が近寄ってきた。
「あ、あの、大神君!」
里立さんは俯いていた顔を上げ、意を決したように声を張り上げた。
「は、はい?」
いきなり大声を出されて俺がたじろいでいると、里立さんは胸に手を当て、頬を高揚させて深く息を吸い込んだ。
「あ、あの……私……私!」
高揚させた頬で、潤んだ瞳で、里立さんは思いの丈を吐露した。
・・・
「可ぁ愛いぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ‼」
中庭の一角に少女の絶叫が響き渡る。
ここは校舎の中庭に併設されたカフェで、お昼はここで食べる生徒と寮に戻って食堂で食べる生徒とで半々になるらしい。
今日は土曜で半日授業な事もあり、カフェにいる生徒は少ない。
そのカフェのテラス席で、手の中にモフモフの毛玉を抱え、少女は頬ずりを繰り返す。
「…………」
里立四季。クラス委員長にして、大の犬好きらしい。
今朝俺がクラスに入った時から一目で心奪われたということだ。
リルに。
「食べないの?」
斜め前に座って大量の料理を貪っていた東雲が骨付きのフライドチキンを掴みながらそう聞いてくる。
「いや、大丈夫なのか、リルのやつ」
リルは対面に座る里立に頬ずりされ、ぐったりしている。
「これは里立さんの病気みたいなもので、犬を見るとこうなっちゃうんです」
隣に座るネコメは苦笑いを浮かべ、リル用のドッグフードを深皿に盛り付けてテーブルの下に置いてやっている。
「病気って……」
確かにさっきから食事にも目もくれず、一心不乱にリルを撫で回している。一種の病気だ。
目も血走って涙まで浮かべているし、鼻水も……。女子としてどうかと思う姿だ。
「それにそろそろ……」
「はっくしゅん!」
猫柳が何か言おうとした瞬間、リルを撫で回していた里立が大きなくしゃみをした。
「はっくしゅん! はっくしゅん!」
涙をにじませ、鼻水を垂らし、それでもリルを撫でる手を止めない。
「えっぐ……。うじゅ……。えくしゅん!」
いや、これはちょっと様子がおかしくないか?
「里立さん、犬好きではあるんですけどアレルギーなんです」
「可哀想な話だな! いや、そもそも異能生物にもアレルギーとか出るの?」
「出るよ。異能ではあっても、毛とかは普通の狼と大差ないから」
そういって東雲は顔がぐずぐずになった里立からリルを引っぺがす。ようやく解放されたリルはゆっくりとテーブルの下を移動し、猫柳が盛ってくれたドッグフードを食べ始めた。
俺も昼食に選んだカツ丼に箸をつけながら、二人に今後のことを聞く。
「それで、これからどうするんだ? 俺は何すればいい?」
「うーん、とりあえずこれ食べたらお昼寝かな」
「昼寝?」
そりゃまた随分呑気な話だな。
「体調は万全の状態で臨まないと、何が起きるか分からないですから。特に大神君は今日が初めてのお仕事ですし」
俺たちが今夜の事について話し合っていると、里立がズビーと鼻をかみながら疑問を呈してきた。
「霊官の、研修員だっけ? 大神君、霊官になるの?」
「まぁ、のっぴきならない事情があってな。深くは聞かないでくれ……」
俺が言葉を濁すと里立は「ふーん?」と曖昧な納得の仕方をした。
実はこう見えて八千万円って莫大な負債抱えてまーす、とは流石に言えない。
「あ、そうだ! しっきー、大神くんにアレやってあげてよ!」
ようやくお昼のパスタに手をつけた里立に東雲がそう言った。しっきーって、里立のニックネームかな?
「アレってなんだ?」
「里立さんの『おまじない』です。よく効くって評判なんですよ」
おまじない?
おまじないとは、お呪いと書く。
要は呪いと同類の迷信だが、異能専科で呪いだ何だっていうのは信憑性があるな。
「え、でも、いいのかな?」
里立はあまり乗り気で無い様子で猫柳に確認を取る。
猫柳はコクと頷き、「ぜひお願いします」と笑った。
「おまじないとやらに確認がいるのか?」
「悪用すれば異能の不正使用になり得ますから、慎重に使わなきゃいけない力なんです」
たかがおまじないがそんなに強力なものなのか?
首をひねる俺に、里立は手を出すように促してきた。
「それじゃ、行くよ」
ぎゅっと、差し出した右手を両手で捕まれ、里立の雰囲気が変わる。
猫柳の耳や目のような分かりやすい変化は無いが、異能を使っているのだと確信する。
里立が握る両手に力を込めると、その手が薄く光り始めた。
光は一秒毎にどんどん強くなり、目が絡むほどの光量になったところで急激に収束する。
光は握られた俺の右手に吸い込まれるように収まっていき、やがて完全に消え失せた。
「これがおまじない?」
特に変わった様子も無いし、俺がイメージする呪文とかも無かった。
「私は『座敷童』の異能混じりなの。相手に幸運を与える力で、何か運が関係することが起こったら、一回だけ幸運に恵まれるよ」
座敷童、日本の有名な妖怪だ。
怖い話ばっかりの妖怪の話の中で、数少ない人間に有益な妖怪。
家に居着いて、その家に幸福をもたらし、出て行くと不幸に見舞われる。
「あたしも一回だけやってもらったけど、すごかったよ! 十連引いたらSSレア三枚も出たんだから‼」
東雲が興奮気味にケータイを見せてくる。そこには有名ソーシャルゲームのガチャのスクリーンショットらしき画像が写っており、東雲の言う通り十枚のカードの内三枚が金色に輝いている。
確かに凄いけど、人の異能をソシャゲのガチャに利用しやがったのか、コイツ。
そんなことしていいのかよ、と俺が言う前に猫柳が東雲のケータイを取り上げた。
「異能の不正使用ですね。八雲ちゃん、あとで始末書です」
「これは自力で引いたやつでした!」
慌てて言い訳する東雲だが、猫柳は厳しい顔で首を横に振っている。
不正使用発覚で始末書とか、ホントに霊官かよコイツ。
アプリのアンインストールまで強行しようとする猫柳を泣きながら東雲が制止するのを横目に、俺はカツ丼を平らげる。
多少なりとも異能を使ったせいか、大盛りにしたのにちょっと物足りなかった。あとでパンでも買うかな。
「さてと、みんな食べ終わったし、そろそろ行きましょうか」
食後のお茶を飲み終えた猫柳がそんなことを切り出し、俺は首をひねる。
「行くって、どこへ? この後は昼寝しとけって……」
「保健室ですよ。藤宮先生に呼ばれているじゃないですか」
ああ、そういえば後で来るようにとか言われてたっけ。
「それじゃあ里立さん、さようなら」
猫柳が里立に会釈して席を立ったのに続き、俺とリル、涙目の東雲も席を立つ。アンインストールは勘弁して貰えたようだが不正に引いた三枚はアプリ内の売却機能で消失させられたようだ。
「あ、うん。大神君、頑張ってね」
「ああ、ありがとう。また月曜」
軽く手を振って里立と別れる。最後までリルを名残惜しそうに見ていたし、また機会があれば撫でさせてやろう。
・・・
保健室に入ると、信じられない光景が広がっていた。
「ん? ああ、来たわね」
部屋の隅のデスクの椅子に、半裸の藤宮先生がもたれかかっていた。
上半身は豊満な胸を隠す黒いレースの下着のみで、下半身はスカートを脱ぎ、上と同じデザインのガーターベルトを着用している。
「何してるんですか先生! 服を着てください!」
猫柳が顔を真っ赤にしてベッドの周りのカーテンレールに吊るされたワイシャツとスカートを投げつける。
「あー、別に気にしないのに」
藤宮先生は放られた衣服を手に取り、めんどくさそうにそう言った。
「俺も別に気にしないですよ」
俺はグッと親指を上げ、できる限り爽やかな顔で先生を見る。
しかし赤面した猫柳が背伸びして俺の前に立ち塞がり、肩を押して保健室から追い出してしまう。
「しばらく入ってこないでください!」
そう言ってピシャっと保健室のドアは閉じられた。
「……あ、幸運使い切っちまったのか?」
今夜のために使ってもらった異能なのに、全然関係無い所で一回の幸運を消費してしまった気がする。
なんてことを考えながらしばらくぼんやりしていると、保健室のドアが開かれて東雲に招き入れられた。
「最近暑いんだし、こんなかたっ苦しい格好しなくても」
「ダメです。先生は生徒の模範になる行動をとらないと」
室内では気だるそうにワイシャツと白衣を身に纏った藤宮先生が猫柳に説教を受けていた。
先生の言う通り、最近ちょっと暑い。
そろそろ六月、梅雨の足音が聞こえてきそうな時期だし、猫柳のようにブレザーまできっちり着こなすのは少々しんどい。
「真面目ねー、ネコメは。まあいいけど。大神、上脱いでそこ座って」
「あ、はい」
藤宮先生に促され、俺はブレザーとワイシャツを脱いでTシャツ一枚になり、椅子に座る。
先生は俺の左腕に触れ、感嘆の声を漏らした。
「はぁー、ホントに流石よね、諏訪の腕前は。縫合の跡がほとんど分からない」
「あ、やっぱりこの腕、先生が付けてくれたんじゃないんですか?」
俺の言葉に先生は「違うわよ」と首を振った。
この義手と義足を作ってくれたのは諏訪先輩だが、取り付けてくれたのもやはり諏訪先輩だったらしい。これで莫大な治療費を請求されていなければ素直に尊敬できたのだが。
しかし先生の言う通り、首を捻って膝の辺りを注視してみても、縫い目も肌の色の違和感も見受けられない。
諏訪先輩の腕前が確かなものだって証拠なのだろうが、俺と一歳しか違わないのに霊官で医者とは、本当に恐れ入る。
「足の方も問題なさそうね。細胞自体はまだ馴染んでないけど、神経はほぼ完全に繋がってる。よほどの無理をしなければ千切れたりしないわよ」
つまりまだ千切れる可能性があるって事か……。
「今夜、大丈夫かな?」
不安丸出しで二人に視線を向けると、猫柳は涼しい顔で「大丈夫てすよ」と言い、東雲もうんうんと頷いている。
「とりあえず今夜は大神君には私達のことを見ていてもらうだけになりますので、異能を使って戦ったりはしなくていいですよ」
猫柳の言葉に俺は心底安堵した。
先送りにしかならないが、とりあえず心の準備なしにいきなりトラウマと向き合わなくてもいいようだ。
「今夜、なにかあるの?」
事情を知らない藤宮先生が首を傾げる。
猫柳と東雲が事のあらましを説明している間に、俺はワイシャツとブレザーを身につける。
一通り説明を聞いた藤宮先生は、深刻そうな顔で何かを考えるように顎に手を当てた。
「……それって、諏訪が言っていたのよね?」
「はい。やっぱり先生も聞いたことありませんか?」
猫柳と藤宮先生は、霊官の研修員のことを話している。やっぱり先生も知らないみたいだ。
「聞いたことっていうか、そんな制度無いわよ?」
「え?」
先生の言葉に、俺たち三人は目を見開く。
霊官の二人が聞いたこないと言っていた制度だが、大人の霊官である藤宮先生がその存在を否定してしまった。
「私も霊官になって結構経つけど、そんな制度聞いたことない……。何よりあり得ないのは、あの諏訪がそんな馬鹿げた治療費を請求するなんて……」
藤宮先生は「どうしたんだろう……」と思案しているが、正直言ってどうでもいい。というより、ここで考えても仕方のないことだ。
諏訪先輩はかなり手の込んだ茶番劇を組んで、俺を霊官の研修員に仕立て上げた。
制度の有無について追求したところで、満足のいく答えは貰えないだろう。
「まあ私の方からもそれとなく聞いてみることにするわ」
そう言って先生は薬品の保管された棚に手を伸ばし、錠剤のシートを手渡してきた。
「これは?」
「鎮痛剤よ。必要ないとは思うけど、一応渡しておくわ。手足が痛むようならそれ飲んでもう一回来なさい」
独断で薬を処方するとは、医者というだけでなく薬剤師でもあるのか。
俺は簡単に礼を言い、これで診察は終わりとのことだったので三人で保健室を後にした。
・・・
校舎を出て寮に戻る。寝泊まりする場所が近いと通学は楽でいいな。
「それでは大神君、六時くらいにご飯食べに行きましょうね」
寮のエントランスで別れる寸前、猫柳がそう言った。
「なあ猫柳、別にそこまで俺に構う必要はなくないか?」
昨日から猫柳と東雲はずっと俺につきっきりだ。編入したてで他に知り合いもいないし、面倒を見てくれるのは有難いが、あまり拘束するのも悪い気がする。
「あ、ご迷惑でしたか……?」
猫柳は途端に顔を暗くし、申し訳なさそうに一歩後ずさった。
「あ、いや、迷惑とかじゃないんだが、二人にも友達付き合いとかあるだろ? 俺にずっと付いてたら……」
言いかけたところで「そんな事ないです!」と猫柳が声を張った。
「大神君は私たちの部下になったんですから、上司として、先輩として面倒を見るのは当然のことです! それに……」
そこで猫柳は声を落とし、申し訳なさそうに続けた。
「それに、大神君が異能混じりになった責任は、私にもあるんですから……」
そう言って猫柳は俯いた。自責の念に囚われたように、暗く表情を落として。
「せ、責任って……」
どういう意味だ、と問いかける前に猫柳は「そ、それじゃあ夕方に!」と言って頭を下げ、女子寮の方に早足で行ってしまった。
「あ、ちょっと、ネコメちゃん!」
置いてけぼりを食らった東雲が「じゃあそういうことで!」と慌てて猫柳の後を追い、俺は首を捻った。
寮の自室に戻る傍ら、俺は先ほどの猫柳の言葉について考える。
俺が異能混じりになった責任。
言葉の意味は、分からない訳じゃない。
猫柳と東雲はあの夜、霊官の仕事としてリルの捜索を行っていた。
二人がリルを見つけるより先に俺とリルは河川敷で出会い、そして混ざった。
もし俺と出会うより先に二人がリルを保護していれば、俺とリルは混ざらず、俺は異能者にならなかったかも知れない。
(でも、それは結果論だ)
確かにそれならば俺が異能混じりになることは無かっただろうが、異能の資質を持つ俺がリルを追っていた妖蟲に襲われなかった保証はない。
それに、リルと混ざらなければ俺は宙ぶらりんなフリーターのままだった。
異能や霊官は危険ではあるが、半端者だった頃より悪い状態と言い切ることはできない。
何より猫柳や東雲に会えた事が、俺にとってマイナスだとは思えない。
だから猫柳が責任を感じることなど無いと思うのだが、しかしそれを本人に言ったところで無意味だろう。
猫柳はあの性格だし、本人の中で折り合いをつけるしかない。
(難儀なやつだよな……)
そんなことをボンヤリ考えながら、俺は自室に戻った。
「あ、おいリル、そのまま部屋に入るな」
ドアを開けた途端先んじて部屋に入ろうとするリルを、繋がった首を引っ張って制止する。すっかりリード扱いだな、この首輪も。
「足拭くから、大人しくしろ」
俺は靴を脱ぎ、私物の中からあらかじめ見繕っておいた古いタオルを濡らしてリルの足を拭いてやる。
潔癖症を気取る訳ではないが、外を歩いた足で部屋の中やベッドにまで入られたくないからな。
リルに触るのもだいぶ慣れてきた。というより、犬に対する恐怖心そのものがドンドン薄れていっている。
トラウマを克服できているのか、それともリルと繋がったことによる影響なのかは分からないが、ともかくいい傾向だ。
「よし、綺麗になったな」
足の裏を拭き終えて解放してやるとリルはフローリングの床を駆け回った。硬い床と爪が滑るらしく、時折ぺちゃっと床に突っ伏すのがなんとも愛らしい。
足を拭いたタオルを丸めて玄関に放り投げ、リルの駆け回る部屋を見渡す。
実家から運び込まれた私物は少量で、部屋に備え付けられていた家具は最低限の物しかない。ここでの生活に慣れたら日用品を買いに行かなければならないな。
ケータイで時間を確認すると、午後二時を少し回ったところだった。
猫柳たちとの約束は六時、今から四時間弱の余裕がある。
昼寝の時間には長いと思い、俺はケータイで調べておいたある事を試してみる事にした。
「リル、ちょっと来い」
俺が呼ぶとリルはてちてちと足元に駆け寄ってきて、何をするのかと待ち構えるように尻尾を振る。
俺は腰を落とし、リルの腰の辺りを軽く押しながら「おすわり」と言う。
試してみたかった事というのは、要はリルのしつけだ。
俺とリルは繋がっており、三メートル以上離れられない。必然的にどこに行くにもリルと一緒という事になり、そうなると公共の場では大人してもらう必要がある。
「ほらリル、おすわりだ」
しつけの基本、おすわりを覚えさせる為に俺は根気よくリルの腰を押す。
やがてリルが腰を落とすと、顎を撫でて褒めてやる。
この体勢が『おすわり』で、これをすると褒められる。それをリルに覚えさせるのだ。
「よし、次はお手」
一通りおすわりを覚えさせると、次は芸の一つであるお手をやってみる。
これはすんなりと成功し、リルのぷにぷにの肉球が差し出した手の上にチョコンと乗せられる。
「お前賢いなー」
異能生物、それも犬より頭がいいと言われるオオカミだけあって、リルは物覚えがいい。
なんだか楽しくなってきた俺は、夢中でリルに芸を覚えさせた。
・・・
「それで、すっかりお昼寝を忘れていたと?」
別れた時とは打って変わって、呆れたような猫柳の視線に晒される。
「サーセン……」
外では陽が落ちかけ、オレンジ色の夕日が今にも夜の闇に飲まれようとしているのが窓から見て取れる。
寮の食堂で猫柳、東雲と同じテーブルに着き、例によって大量の料理を前に、俺は頭を下げた。
あの後俺はリルのしつけを続け、それだけでは飽き足らず古い靴下を丸めて作った簡易的なボールを持って外に繰り出した。
寮の庭で靴下ボールを投げ、それをリルが追いかけて咥えて持ってくるという遊びだ。
ちなみに三メートル以上離れられない事を失念しており、駆け出したリルに引っ張られて顔面から地面にすっ転ぶという醜態も晒した。
遊んで満足したらしいリルは、テーブルの下でドッグフードと茹でた豚肉を幸せそうに頬張っている。そういえばリルは普通に食事を三食も食べているが、普通犬は朝と夜だけだったはずだ。太ったりしないだろうな?
「全く……」
猫柳は呆れ顔でため息をつき、東雲は愉快そうにケラケラと笑った。
「それで、リルちゃんはどんな芸覚えたの?」
チキンカツを食べながら東雲がそう聞いてきた。コイツは朝から鶏肉の揚げ物ばっかり食べているが、好物なのかな?
「基本的なことは大体覚えたぞ。お手、おすわり、伏せ、ステイ……」
リルは本当に物覚えが良く、教えた事をすんなり覚えてくれるので楽しくなってしまった。そのせいもあって時間が経つのを忘れたのだ。
「なんでステイだけ英語なんですか?」
「『待て』って言葉は割と日常的に使う言葉だから、混乱しないように使い分けるやり方があるんだと」
お手とかおすわりなんて普段は言わないから混乱する心配がないって事らしい。俺は諏訪先輩に言われそうな気もするけど。
そんな会話をしながら食事を食べ進める。これから異能を使うかもしれないし、食べられるだけ食べておこう。
「しかし、人少なくないか?」
ふと辺りを見回すと、朝に比べて食堂の席の埋まり具合がまばらだ。朝と違って夕方以降は六時から八時半まで食堂が開いているらしいので時間がバラけるのは分かるが、それにしても少ない気がする。
「明日は休みですから、食堂は十時まで開いていますよ。軽食の自販機なんかはいつでも買えますし」
「へー。そりゃ便利だな」
休みの前の日は公然と夜更かしできるようになってるってわけか。
「家近いやつとか、実家帰ったりはしないのか?」
俺も私物はほとんど寮の部屋に持ち込まれていたが、原付とか、実家に置きっぱなしの物も結構ある。
明日は無理でも、近い内に一度帰りたいな。
「……それは、出来ません。異能専科の生徒は、原則的に長期休暇以外は寮と学校以外の場所に行ってはいけないんです」
「そ、そうなのか?」
こくりと頷く猫柳を見て、俺は自分の認識が甘かったことを痛感した。
ここは国立の、異能の学校。
情報の漏洩を防ぐためには、生徒を学校から出さないなんて当然なのかもしれない。
「あ、そういや二人の実家ってどこなんだ?」
俺が市内の出身だということは周知の事実だが、二人の出身は知らない。言葉に訛りがあるわけではないし、異能の学校は全国にあるそうだからそこまで遠くはないと思うが。
「……私は、関東の方で……」
「……猫柳?」
俺の質問に猫柳はピクリと表情を強張らせ、気まずそうに視線を逸らしながら言葉を濁した。
急にどうした、と口を開こうとした瞬間、横から東雲が飛び出して会話を遮る。
「でたー、大神くんのストーカー‼ 言っちゃだめだよネコメちゃん!」
「だ、誰がストーカーだ⁉」
「ネコメちゃんの実家の場所聞いてどうするつもり~?」
「や、八雲ちゃん!」
茶化してくる東雲を見て、猫柳はどこか安心したように表情を緩めた。
「…………」
その顔を見て、俺は自分の軽率な質問を恥じた。
ここにいる生徒の中には鎌倉のような経歴を持つ者もいる。
もし二人にも、思い出したくない過去があるのだとすれば、そうでなくても俺のように実家に対して悪い思い出があるのだとすれば、今の俺の質問はその傷を思い出させるものだったはずだ。
それに二人は、何かしらの理由があって霊官という危険な仕事についている。それが家庭の事情に由来するものだという可能性もある。
(ありがとう、東雲)
有耶無耶にしてくれた東雲に心の中で礼を言い、俺は窓の外に目を向けた。
「……陽が」
太陽は完全に姿を消し、外は静かな闇に包まれていた。
異能の起きる、夜に。