旧友編5 執務室
ネコメから霊官の話を聞いていると、エレベーターが停止して目的の階に到着した。随分と長く感じたが、また何階かは分からないみたいだな。
エレベーターを降りた俺とネコメは絨毯の敷かれた廊下を進み、『執務室』というプレートを掲げた部屋のドアをノックする。
「どうぞー」
間延びした声が部屋の中から響き、俺たちに入室を促す。どうにも諏訪先輩の声ではないっぽい。
「失礼します」
「っします」
ネコメに続いて部屋のドアを抜けると、中は思ったよりも簡素な部屋だった。
小学校の給食時間のようにくっつけられたデスクが五つと、壁一面にファイルの詰まった棚がある。床にはそこかしこにダンボールが置かれており、五つのデスクの上には何かの資料らしき紙が山積みだ。
はっきり言って、散らかり放題で酷い有様の部屋だった。
「汚ったねえ……」
部屋の惨状に思わずそんな感想が口から溢れる。
ネコメは「失礼ですよ」と言ってくるが、あの豪奢な生徒会室とは比べ物にならないほど乱雑な部屋のレイアウトだ。言ってやりたくもなる。
しかも地下で換気が上手くいっていないのか、埃っぽい臭いがやけに鼻に付く。
「いらっしゃーい」
書類の山の向こうで、真っ白な手がふるふると振られる。
ひょこっと顔を出したのは、病的なまでに白い肌と異常に色素の薄い髪、真っ赤な瞳の女生徒。生徒会役員の一人、雪村ましろ先輩だ。
「彩芽、ネコちゃんと、ワンちゃん、来たよー」
雪村先輩は気怠るそうな様子で書類のさらに向こうにいるらしい諏訪先輩に呼び掛ける。ところでワンちゃんって俺のこと? それともリルのこと?
「ああ、来たわね」
車椅子のタイヤを回し、デスクから離れて現れた諏訪先輩は、食堂で会ったときは気にならなかったが、何やら疲れている様子だ。
少し顔色が悪いし、デスク上の書類の隙間にはストローをさしたエナジードリンクの缶がいくつも置いてある。
それに、匂いが普段と違った。
人間は汗をかくとき、どういった理由でかくのかで汗の成分が異なる。
放熱のための汗、痛みを感じた時の脂汗、緊張による冷や汗、全て成分が違い、最近俺は異能を発現していないときでもその違いを嗅ぎ分けられるようになってきた。
汗の匂いが変われば、当然体臭も微妙に異なる。
(ストレス……いや、疲労か?)
それにエナジードリンクの缶からは、まだ乾いていない甘ったるい匂いがしてくる。何本もあるが、おそらく飲んだのは全てここ数時間以内のことだろう。
「先輩、こんなモノ何本も飲むもんじゃないですよ」
「うっさいわね。眠くてしょうがないのよ」
その言葉通り、諏訪先輩は睡眠不足によるストレスが溜まっているようだ。
普段あまりしない化粧品の匂いもするし、目元にはファンデーションで隠した隈があるのだろう。
「あやめ、最近、マトモに、寝てないんだよ。無理しないで、少し、休めばいいのに」
はぁ、と嘆息する雪村先輩に、諏訪先輩は「ダメよ」と毅然と胸を張った。
「体育祭まであと二週間切ってるのよ。この時期は部活同士のイザコザも多いし、最近ましろには仕事任せてばっかりだったから」
面倒くさがりっぽい雪村先輩だが、生徒会の書記として、また霊官としても実はかなり優秀らしい。
現に諏訪先輩と会話をしながらも、資料に目を通したりサインをしたりといった作業の手は一切止まっていない。
「それで、悪いんだけど二人にもちょっと仕事を手伝って欲しいの」
諏訪先輩は俺たちに向き直り、そう切り出した。
「はい」
「イヤっす」
ノータイムで頷くネコメと、拒否する俺。
当たり前のように先輩は俺のチョーカーに手を伸ばすが、俺だっていつまでも同じパターンでやられたりしない。
ボクシングでいうスウェーイングのように胸を反らせることで先輩の掴みを回避し、半歩後退してやり過ごす。先輩は車椅子で手が届く範囲が狭いからな。
してやったり、と気を緩めた瞬間、先輩が車椅子の右タイヤを前に、左タイヤを後ろに高速で回し、その場でクルッとターンする。
そしてそのまま高速でバックし、車椅子を押すための取っ手が俺のみぞおちに突き刺さった。
「うごっ⁉」
呼吸困難になりうずくまる俺から眠りこけているリルを奪い、再びターンした先輩のつま先が俺の顎を蹴り抜く。
「がっ……⁉」
バレエでも踊るように華麗な動きで、俺は一瞬でノックアウトされた。
「この私が頭を下げているのに、その言い方は何?」
いや下げてねえじゃん、と思うが、顎とみぞおちが痛くて声が出ない。
「大地君、会長は沢山の仕事を抱えていて、大変なんですよ? 私は霊官で、大地君はその研修員。でも学生の間は仕事の多くを免除されているんです。だからその分、私たちにできる仕事はお手伝いしないと」
優しく諭すネコメと、
「やらなきゃその腕、この間回収した藤宮の鬼の手とすげ替えるわよ?」
シンプルに脅迫する先輩。見事な飴と鞭ですね。
「どこの地獄先生だよ……」
俺はボヤキながら痛みを堪えて起き上がり、渋々頷いた。
「とりあえず、どんな仕事っすか?」




