行楽編37 変化
「うぅ、痛いぃ……」
「バチが当たったな」
ビニールシートに座り、涙目になりながら露出した太ももをさする八雲を、俺は嘲笑しながら見下ろす。世界には神も仏も無いが、因果応報はあるんだな。
「だったらどうして私たちまで……」
「痛いです……」
里立とネコメ、それに小月もそれぞれ体をさすりながら恨み言を漏らす。
「まあ、盆過ぎたら泳げないってのはよく聞くよな」
「知らなかったよ……」
この時期になると海水浴客が減る一因、それは、クラゲだ。
よく目を凝らして見ると、薄茶色い海面にはぷかぷかと無数の白い丸、クラゲが浮いている。海に飛び込んだ四人は、こいつらに刺されたのだ。
「兄さん、ここ腫れてない?」
「ああ、ちょっと赤くなってるな。って、痛いのは分かるが、隠しなさい」
スク水をずらして自分では確認できないお尻を見せてくる小月。俺だけならいいが、他の男子もいるんだ。自重して欲しい。
「クラゲに刺されたら真水で洗うのよ。四人とも、こっちに来なさい」
「はーい」
医者の出番というほどの事態ではないが、四人は揃って諏訪先輩の治療を受ける。
「水無かったろ? 旅館で貰ってくるか?」
「大丈夫」
ミネラルウォーターは持ってきていなかったと思ったが、中身を飲み終えて空になったペットボトルにマシュマロの手から手品のように水が注がれる。冷気で空気中の水分から水を作ってるんだろうが、ここだと海が近いから塩分含んでそうだな。微妙に真水とは言えないだろ。
「小月ちゃん、水着ずらして。悟志、覗いたら大地に沈められるわよ」
「覗かないすよ……」
シートの上にうつ伏せになり、尻を洗われる小月。恥ずかしそうに。
「しばらくは痛むけど、手早く処置すれば痕もすぐに消えるわ。八雲と四季は自分でできるわね」
「はーい」
「大丈夫です」
八雲は太もも、里立は腕を刺された。どっちも自分で洗えるが、問題はネコメだ。
「ネコメは?」
「はい、首筋から背中を……」
ネコメはTシャツの隙間から触手を伸ばされ、背中を刺された。患部を洗うには、シャツを脱がなければならない。
「……ネコメ、旅館に戻った方がいいだろ?」
シャツの下には、クラゲに刺された痕などよりもっと酷い傷がある。事情を知らない者の前で肌を晒すわけにはいかない。
「大袈裟ですよ、大地君。少し恥ずかしいですけど」
そう言ってネコメは、当たり前のようにシャツをたくし上げた。
「え?」
その光景に、思わず目を見張る。
ネコメが背中を晒したことにではない。
忘れもしない、俺が初めて異能を使い、妖蟲や鬼と戦ったあの夜。事故とはいえ覗いてしまった、ネコメの背中に刻まれた虐待の痕跡。
そして、ネコメ自身が消すことを拒否していた、歪みの象徴。
その傷が、無かった。
ネコメの背中には、熱湯を浴びせられて色が変わってしまった肌も、タバコの火種を押し付けられた痕も無い。
クラゲに刺された赤い腫れがあるだけの、綺麗な背中だったからだ。
「ネコメ、お前……」
「あ、あまり見ないでください、大地君。この水着は八雲ちゃんが選んだもので、私はもっと布の多い物の方が……」
確かにネコメのセパレートタイプの水着は、結構露出が多い。色も普段のネコメのイメージには無い黒で、恥ずかしそうに手で覆う胸元の中央は猫の形に布が無い。コスプレ衣装のような水着だ。
しかし、そんなことはどうでもいい。
「どうどう? 似合ってるでしょ、ネコメちゃんの水着! 二時間かけて選んだやくもんセレクトだよ」
まるで自分のことのように自慢する八雲。この様子だと、知っていたのか。
チラリと諏訪先輩の方を見ると、先輩は俺に笑みを返した。
通常の医療では、背中の肌を丸ごと張り替えるような治療はできない。肌の移植そのものは難しくないが、移植元となる肌は体の他の部分から持ってくるか、他人から移植するしかない。どうしたって施術痕が無いはずがない。
ここまで完璧に傷を消せるのは、諏訪先輩だけだ。
思い出されるのは、昨夜の会話。そして、いつかの生徒会室での会話。
先輩は言った。変化を見逃すなと。そして、ネコメは母親から虐待された傷を消せない程度には、歪んでいると。
変化と、歪み。
ネコメの中で、傷を、昔の記憶を消すに足る変化があったってことなのか。
「い、いい加減にしてください!」
「ふぁえ?」
拒絶するような声と、胸に感じる衝撃。
顔を真っ赤にしたネコメに突き飛ばされ、俺は砂浜に尻餅をついた。
「だ、大地君、人の水着姿をジロジロ見るなんて、悟志君じゃあるまいし……!」
「俺氏、流れ弾に被弾⁉︎」
恥ずかしさそうにTシャツで体を隠し、ネコメは少し潤んだ目で俺を睨みつけてくる。トシは知らん。なんかショックを受けてるが、知らん。
「いや、悪かった。その、なんつうか、驚いて。トシじゃあるまいし、いやらしい意味で見てた訳では……」
正直水着姿なんて頭に入らないほどの衝撃なのだが。無意味に砂浜のゴミを観察してしまうくらいに、俺は混乱している。
「お前、俺になら何言ってもいいと思ってないか?」
トシ、うっさい。
「に、兄さん、手が!」
「え?」
小月の声に顔を上げ、次いで自分の手を見る。突き飛ばされた衝撃で砂の上についた手は、パックリと裂けて血が滲んでいた。
「うっわ、切れてる……。マジでゴミ多いな……」
手の下の砂の中には、鋭いガラスの破片が埋まっていた。
「大丈夫かよ、大地?」
「ああ。こんなもの落ちてちゃ怪我する……って、今したんだった」
ガラスをつまみ上げ、放っとく訳にもいかないのでとりあえずクーラーボックスの上に置いておく。ここならうっかり踏むこともないし、後でちゃんと捨てよう。
「諏訪先輩、この手治して……」
「だ、大地、君…………!」
「……あ?」
震える、怯えるような声。
次の瞬間、ネコメが怪我した俺の手を取り、叫んだ。
「ごめんなさいっ!」
砂の上に膝をつき、取った手に額を擦り付けるようにして、ネコメは謝罪の言葉を口にした。
鬼気迫る、という様子で。
「ごめんなさい! ごめんなさい! 血が……わ、私のせいで……!」
「ど、どうしたんだよネコメ⁉︎ こんなのかすり傷だぞ?」
様子が、おかしい。
今の今まで普通にしていたのに、うっかり俺が怪我をしただけで、ネコメは発狂したように取り乱した。
「ひっ……! ごめ、ひっ……ごめんな、さっ……!」
過呼吸のように息を詰まらせ、ネコメはそのまま、意識を失った。




