小さな幽霊編28 鬼成り
「こンの……!」
頭を振って衝撃から立ち直ろうとする鬼女だが、当然俺の方が早い。
背後に手を回してベルトのホルスターをまさぐり、異能具を握って構える。
ハウルで大きな隙を作ったのはいいが、牙として異能具を振るえば鬼女を殺してしまう。
まあはっきり言って大日異能軍の女など死んだところで何とも思わないが、この女からはまだまだ情報が取れるし、死ぬのと殺すのでは全然意味が違う。少なくとも俺は人殺しなんて寝覚めの悪いことは御免だ。
だから、これも女相手に気は進まないが、ぶん殴る。
異能具は牙としてではなくメリケンサックとして握り、相手の体勢が整う前に右ストレートを繰り出す。
「っ……!」
大振りのテレフォンパンチ。普通に撃てば間違いなく躱されるガキのケンカみたいなパンチだが、隙だらけの相手にはこれで十分だ。
しかし、鬼女はふらつきながらもボクシングのスウェーバックのように体を反らし、
「舐めんなぁ!」
「ッ⁉︎」
そのまま、異能具を握っている俺の手に頭突きをした。
「大地くん⁉︎」
額の角と異能具のぶつかり合いで火花が散り、八雲の声を掻き消すような轟音が響く。
「こっの……!」
「クソが、コスいマネしやがって!」
ケンカにクソもコスいもあるか、とは思うが、今の一撃はマズい。
頭突きとは殴るや蹴るよりも使い勝手が悪い攻撃に思えるが、実際は違う。
人間の頭部は拳に比べて遥かに重く、ボウリング玉と同じくらいの重量があるという。しかも頭突きに使う筋肉は頭の重量を支える首に、人体最大級の筋肉である腹筋と背筋。オマケに額の骨は人体で一番頑丈な上、鬼女には角まである。
ケンカでは殴りかかって来た相手に上手く合わせて額をぶつければ、それだけで相手を悶絶させるほどに拳にダメージを与えられる。
俺はといえば、相手が仮にも女であることが災いし、拳に重さが乗っていなかった。不幸中の幸いというか、おかげで骨が折れている様子は無いが、右腕全体が痺れてしばらくはまともに動かせそうにない。
ハウルを使った奇襲は、失敗した。
「邪魔するってんなら仕方ねえ。ぶっ殺す!」
「やってみろよ。こっちはテメェの手足バキバキにして、洗いざらい知ってること吐いてもらうからな!」
結局戦うことになってしまったが、状況は良くない。
この鬼女の力は未知数だし、八雲には遠野さんを守ってもらう必要がある。実質一対一だ。
しかもこいつには仲間がいる。
目的がたたりもっけの回収であるなら、恐らく仲間はたたりもっけを仕留めようとしている伊勢田さんとネコメの邪魔をするはずだ。
となると、今一番危険なのは、今もたたりもっけから逃げ続けている真彩だ。
真彩は既に川を渡り切り、上空に逃げている。遠野さんの攻撃が無かったことから俺たちに何かあったのは察してくれていると思うが、助けに行こうにも人を向かわせる余裕は無いし、そもそも俺たちの中に空を飛べる奴はいない。
「真彩ッ!」
だから俺は、呼びかける。
天空にも届くように、あらん限りに声を張る。
「ーーお前が倒せぇ!」
真彩へのメッセージ。通じたかどうかは分からない。
でも、これでやれることは全部やった。
あとは、真彩が勝ち取ってくれることを信じるだけだ。
真彩自身の手で、真彩の存在を勝ち取ってくれると。
「……たたりもっけが追ってた幽霊、あれ知り合いか?」
突然叫んだ俺に、鬼女は首を傾げながら問いかけてくる。
「俺たちのこと全部調べてるわけじゃねえんだな。あいつは俺の妹だよ」
正確には妹のように思っている子なのだが、どうでもいい。
これからぶっ飛ばすやつに、いちいち説明してやる気もないしな。
「待たせたな、鬼女。今から改めてぶっ飛ばしてやるよ」
牙としての構え、諸手と逆手を合わせた独特の持ち方に異能具を持ち替え、鬼女を見据えて腰を落とす。
命は取らないにしても、場合によってはバイツで手足を切り落とすことも覚悟しながら、ジリジリと間合いを確かめる。
鬼女との距離は目測でおよそ二メートル。ひと息に詰められる距離だが、問題は鬼女の射程距離だ。
見たところ武器になりそうなものを持っている様子は無いが、異能者を見かけで判断するのは愚行だろう。
極端なことを言えばあの異形の腕がロケットパンチのように飛んでくるかもしれないのだ。
『いや、それはないだろ』
「うるせ」
頭の中からリルのツッコミが飛ぶ。
「狼の、それも生きた異能生物との異能混じり、大神大地。実を言うと邪魔してくれて嬉しいよ……」
鬼女は間合いを保ったまま、構えることもせずにギラリと凶悪な笑みを浮かべ、
「ヤってみたかったからな、アタシも」
「え?」
直後、二メートルの距離を詰めて鬼女は目の前にいた。
瞬間移動、なんてトンデモ能力じゃない。その証拠にさっきまで鬼女がいた場所は、地面がえぐれてクレーターのようになっている。
馬鹿げた脚力で、地面を蹴って移動したんだ。
呆然と間抜けな声を漏らす俺に向け、鬼女は拳を振りかぶる。なんの小細工もない、ただの大振りだ。
「あいさつ代わりだ!」
しかし、その粗雑なフォームからは、明確な『死』を予感させるものがあった。
『守れ!』
「っ!」
咄嗟のリルの声に、俺はほぼ反射的に異能具で腹部を守る。
トゲに覆われた拳が異能具に阻まれ、周囲には再び轟音が響く。
異能具によるガードだけではパンチの勢いを殺し切れず、俺はぶっ飛ばされる形で川の中に叩き込まれた。
着水し、川底に背中を打ち付ける。水が緩衝材になってくれたが、今のブローはとてつもない威力だったぞ。
冷たい水をかき分けて川から這い上がり、耳を跳ねさせて水を飛ばす。
ダメージは、幸い軽い。
「妙な手応えだ。今の凌いだの?」
振り抜いた拳を不思議そうに開閉し、鬼女は首を傾げる。
「ああ。油断したぜ。お前相当強いな」
へばりたく髪や服が不快だが、そんなことを言っていられる相手ではない。
体を浮かせて後ろに吹っ飛ぶことでダメージを軽減したが、まともに受けていたら腕どころか腹を貫通しててもおかしくない威力だった。
見た目はほとんど人間だが、『鬼成り』というのは本物の鬼を相手にしているつもりでかからなければならない相手らしい。
「ふーん、多少は心得があるみたいだな。なら、改めて行くぜ!」
鬼女は再び地面を蹴り肉迫する。今度はギリギリ目で追えた。
「ッ!」
さっきの大振りとは違う。キチンとした構えを経たパンチだ。
異能具の曲部を滑らせるようにし、拳の衝撃を受け流す。まともに受ければ防御の意味がないほどの馬鹿力だ。受け止めるのではなく、受け流す。
「いいね! いいね!」
拳が異能具の表面で火花を散らす度に、鬼女は笑みを深める。
まるで削岩機のように絶え間なく必殺の拳を繰り出す鬼女。しかし、その動きは先程とはまるで違う。
大きく腕を引くことはせず、体の前面を腕でガードしながら次々と腕を伸ばす。狙ってくる場所も顔や腹。威力は凄まじいが、防御自体はそこまで難しくない。
この動きは、見覚えがある。
「……お前、ボクサーか?」
攻撃を流すのにも慣れたころ、頭をよぎった疑念を問いかける。
こっちのパンチを防いだスウェーもそうだし、今のこいつの攻撃はいわばジャブ。何より殴るばかりで蹴りの類を一切使ってこない。町でチンピラとケンカしていた頃の経験だが、これはボクシング経験者によく見られる特徴の一つだ。
習っていた格闘技を町のケンカで悪用する輩は多いが、蹴り技や関節技の無いボクシングは主に殴ることしかしない。
「それが分かるってことは、アンタもなんかやってたの?」
ジャブの手は一切緩めることなく、鬼女は肯定と取れる質問返しをしてきた。
「経験則だよ!」
「⁉︎」
左右の腕が縮んだ瞬間、屈伸運動の要領で膝を曲げ、体を縮こまらせる。体が縮み切る前に眼前に迫って来た拳は異能具で受け、頭上に流す形で腕を伸ばしてやり過ごす。
ボクサーとは、実は強くない。
こんなことを言うと格闘技のファンに思いっきり叩かれるだろうが、ボクシングとは格闘技というよりはスポーツであり、そこには当然多くのルールがある。
足技、投げ技、関節技、絞め技、武器の使用。得意とするパンチでも、後頭部への攻撃や倒れた者への攻撃を禁止する。紳士のスポーツとして多くを制限したボクシングは、スポーツとしては優秀でもケンカの技術としては二流だ。
その中でも際たるものが、足技。
ボクシングにおいての足の技術とは、フットワーク。素早く移動し、体を支えるもの。これははっきり言って舐めている。
いかに素早く移動しようと、強く踏み込んで拳に重さをのせようと、腕と足の筋力の違いは今更語るまでもない。
ボクシングというスポーツのルールに囚われていると分からないが、早い話殴るより蹴る方が強いのだ。
ボクシングの世界で優秀な成績を納めた者も、他の格闘技に転向して活躍できる例は珍しい。これはボクシングには無い足技や関節技などに対応できないためだ。
何より、足技を警戒する必要のないボクサーは、下半身への攻撃に弱い。
「シッ!」
頭上に伸ばしていた腕を素早く地面に付き、両腕を支えにして曲げていた右足を伸ばし、半回転。
地面を滑らせ、半円を描くコンパスのように、鬼女の足に回し蹴りを見舞う。
腕と比べて遥かに筋力の高い足だが、その分足とは不器用だ。マンガのような派手なハイキックなど実際のケンカではまず使わない。使ってもすきができるだけで、大きな効果は得られないからだ。
実戦において有効な蹴りとは、足を狙うローキック。相手がボクサーなら、尚のこと有効な攻撃だ。
一連の動きは普通の人間だった頃には到底不可能な挙動だが、異能者としての身体能力を発揮できる今ならば容易な動きだ。
「甘えよ」
「⁉︎」
しかし、俺の動きは読まれた。
鬼女は俺がパンチを回避したのとほぼ同時に自身も回避行動をとっており、弾かれるようにバックステップで後退する。当然、俺の回し蹴りは空振った。
「なるほどな。異能だけじゃなくて多少はやれるみたいだが、お前半端者しか相手にしてこなかったろ?」
「半端者?」
「ボクシングをかじった程度のやつしか相手にしてなかったってことだよ」
「…………」
今の鬼女の読みは、正解だ。
俺が町のケンカで相手にしてきたのは、経験者とはいえ確かに半端者。
ジムに通って覚えた技術をケンカで悪用する、タチの悪いにわかボクサーばかりだ。
「こちとら箸の持ち方より先にミット打ち叩き込まれたんだ。本物とにわかの違い、見せてやるよ!」
「っ⁉︎」
ガキン、と両拳を打ち合わせて火花を散らし、鬼女は再び距離を詰めて例の変則ジャブを繰り出す。二度同じ手が通用するとは思えないので、俺もローキック以外の対抗策を考えなければならない。
ここまでのやりとりで確信したが、鬼女には特別な能力は無い。あっても使ってこない。
鬼成り、この鬼女の異能は、単純な力。
単純な腕力だけでも異能を発現した俺よりかなり上。人間の常識を遥かに超越した筋力に、硬い防具となった拳と角。異形となった己の肉体を武器にして戦う異能者なんだ。
使う技術はボクシングのみ。どんなに桁外れの力だとしても、きっとそこに付け入る隙がある。
(思い出せ……本物のボクサーと相対したときは……)
記憶を手繰り、中学時代のことを思い出そうとする。
町でのケンカの記憶ではなく、俺に戦い方の基礎を叩き込んでくれた人の記憶。あの人は様々な格闘技者にその技術を教わっており、当時その技術や対策を俺に教えてくれた。
「……やってみるか」
ボクサーを相手にしたら、一度はやってみろと言われた構え。
半端者のにわかボクサーにはこんなもの通用する気がしなかったが、鬼女が本物のボクサーなら、或いはこっちの方が有効かもしれない。
鬼女のジャブを受け流しながら、俺はわずかに後退する。
足を後ろに伸ばして地面の状態を確かめ、そのまま素早く地面に腰を下ろした。
「な……⁉︎」
俺の取った行動に、鬼女は目を見開いた。
この反応は、知ってるんだな。この構えの意味を。
「どうした? 来ないのか?」
鬼女より遥か下から、俺は挑発的な笑みを向ける。
ボクサーにとってのタブー。伝説の泥試合の再現に、鬼女はわなわなと震えた。
俺は地面に腰と手をつき、片足を伸ばして上体を起こす。
つまり、地面に寝っ転がった。
「テメェ……!」
怒りに震え、俺を睨む鬼女。しかし、あの嵐のような猛攻は来ない。
「来ないのか?」




