小さな幽霊編5 試行錯誤
小月の説得は成功し、残るは家主であるオヤジ。
幽霊を連れ込むなんて珍事にどう対処するのかと思ったが、
「勝手にすればいい。見えなくて触れないのなら、いないのと同じだ」
帰宅したオヤジに幽霊がいると伝えると、この回答である。
ドライというか無関心というか、自分の目で見たものしか信じないタチなのもあり、本当にいてもいなくても同じだとか思ってそうだ。
まあ腹を見せて床に転がるリルの様子から、戯れている相手がいることは何となく認識してくれていそうだが。
「ところで、外にいたというならその子はどんな格好をしているんだ?」
「どんなって、長袖のTシャツにピンクのベスト、ホットパンツとニーソックスに、右足に靴を……」
「家の中で靴というのはよくない。脱げないのか?」
無茶言うなや。
オヤジの言葉を聞いてチラリと真彩を見ると、驚いたことに真彩は片足だけだった靴を脱いだ。
「脱げるのか?」
「脱げた。やってみるものだね」
試してみたらできたらしい。脱いだ靴は玄関にでも置くのかと思ったが、なんと霧散するように消えてしまった。自由度高いんだな、幽霊って。
「脱げたけど、別に床が汚れる訳じゃないしいいんじゃないか?」
「気分の問題だ。ここは日本なのだから、屋内では靴を脱ぐものだろう」
まあ俺も海外の土足で部屋に入る感じは受け入れ難いが。
「それで、幽霊とは何を食べるんだ?」
「……さあ?」
考えてもみなかった。
昼は普通に俺たちだけで食べてしまったし、そもそも何か食べるのだろうか?
「真彩、腹減ってるか?」
「ううん、お腹は空かないよ。幽霊になってからは何も食べてない」
そりゃそうだよな。幽霊が何か食べるなんて聞いたことないし、お供え物とかも要は気分の問題だし。
「リルが食べているものを食べたりはできないのか? 我々が食事をしているときに、大地の後ろでそれを見ているだけというのは忍びないだろう」
「そりゃ確かにそうだけど、リルと真彩は異能とはいえ根本的に別物だし、リルは普通にもの食うし……」
と、そこまで言って思い当たった。
真彩は幽霊で、普通の人には見えないし、リルのような異能生物でないと触れない。そして、ネコメと八雲が以前出会った幽霊は、妖蟲に食われたと言っていた。
つまり、幽霊に干渉できる度合いは、干渉する側の異能の純度と比例する。
「もしかして、あれなら……」
俺は心当たりのあるもの、寮から持ってきた荷物を求めて二階の自室へ上がる。
目的のものはすぐに見つかり、リビングに戻って見せびらかすようにテーブルに置いた。
「兄さん、これって?」
「ただのクッキーに見えるが?」
小月とオヤジは揃って首を傾げ、床でリルがピンと尻尾を立てる。
『ダイチ、それボクの!』
「分かってるよ。また分けて貰うから我慢しろ」
荷物から取り出してきたのは、ビニールで包装されたクッキー。一見オヤジの言う通りただのクッキーだが、中身は少し普通じゃない。
リルが『ボクの』と言った通り、これは本来リルのオヤツ。ただのクッキーではなく、ふんだんに異能が込められた異能クッキーだ。
「真彩、これなら食べられるんじゃないか?」
ドッグフード食わせるみたいで若干気が引けるが、猫缶やカブトムシのゼリーだって人間が食って問題あるものじゃないし大丈夫だろう。
「あ、あたし大丈夫だよ? リルちゃんのなんでしょ?」
「そうだけど、何も食えないってのはなんか寂しいだろ。食えるものがあるかどうかは重要だ」
俺は食事はただの栄養補給なんかではなく娯楽の一種だと考える。
ネコメみたいにバランス栄養食だけで食事を済ませるような感覚は持ち合わせていない。
ビニールを破いて一つ手に取り、そっと差し出す。
「…………」
手を皿のようにして待ち構える真彩に向けて落とすと、クッキーは床に落ちることなく真彩の手の中に収まった。
「っし!」
期待通りの結果に思わずガッツポーズをしてしまう。
手に取れるということは、食べられるはずだ。
「おお」
「浮いてる……」
当然だがオヤジと小月にはクッキーが宙に浮いているように見えているらしい。
「ふむ、本当にそこにいるんだな。大地の虚言ではなく」
そんなこと思ってやがったのかこの野郎。
「食べてみろよ真彩」
「い、いただきます……」
おっかなびっくりといった様子で手にしたクッキーを口元に運び、一枚の半分ほどをかじった。
「美味いか?」
実験の成功に笑みを浮かべながら問うと、真彩はもぐもぐと咀嚼しながら首を傾げた。
「うーん、あんまり味しないかな?」
「なに?」
俺も一つ取って食べてみるが、確かにこりゃ味が薄い。
甘いといえば甘い気もするが、本来クッキーというものは小麦粉と同等量の砂糖を使うはずだ。これではどう考えても足りていない。
「まあ、リル用だしな……」
リルがあまりにも普通にものを食うので忘れていたが、本来なら犬に人間の食べ物を食べさせてはいけない。
塩分にしても糖分にしても脂質にしても、犬と人間では健康的に摂取できる量が違いすぎるのだから。
「食えるものがあるって分かっただけでも良しとするか。その内真彩用の食べ物調達するよ」
異能を込めた犬用のクッキーがあるのだから、味を調整すれば人間の好む味にすることも可能なはずだ。
暇を見つけて諏訪先輩に掛け合ってみよう。
「うん、ありがとう。これはリルちゃんにあげるね」
半分になったクッキーを差し出され、リルは尻尾を振りながら真彩の手を舐める勢いで食べ尽くした。
「それじゃあ、私たちもご飯にしようか」
「ん、そうだな。今日はなんだ?」
「天ぷらと素麺。お昼に材料分けといたの。兄さん、昼と同じだけどいいかな?」
食事の用意をしてもらっておいて文句を言う筋合いは無いし、その程度のことを手抜きだなんて思わない。
「ああ、それはいいんだけど……」
しかし、その前にもう一つ試してみたいことがあった。
「どうしたの?」
「いや、もう一個実験だ。リル」
『ん?』
口の周りを舐めとったリルに向き直り、異能を発現する。
体に力が漲り、感覚が異能のそれに切り替わる。
「なんだ、大地?」
「兄さん?」
きょとんとする二人に笑みを向け、俺は呆然とする真彩に向き直る。
「だ、大地お兄さん、それ……」
「昼間は漠然と『魔法使い』だなんて言ったけど、正確には俺は『狼男』なんだよ。怖いか?」
なるべく怖がらせないように言ってやると、驚きはしたようだが真彩はふるふると首を振って笑みを浮かべる。
「かっこいいよ。でも、どうしたの?」
俺の意図が分からないらしい真彩に歯を見せて笑い、俺はそっと手を伸ばす。
「え?」
真彩、幽霊への干渉は異能の純度による。
リルは異能生物だが、その産まれは神狼フェンリルと普通の狼の間に産まれたものの子孫。つまり、マシュマロのような半異能に近い。
そのリルが真彩に触れるということは、半異能であるマシュマロも幽霊に触れる可能性が高い。
そして、俺のような異能混じりは自分の意思で異能の純度をある程度コントロールできる。
しかも俺は特異な例で、普通の異能混じりよりも更に異能の純度を上げることが可能だ。
つまり、耳や尻尾が出て脳内物質が過剰分泌されるまでウェアウルフの異能を高めれば、俺の異能の純度は普段のそれよりも遥かに高まる。
「……やっぱりな」
やっぱり、触れた。
真彩の頬に触れた俺の手は、その感触を確かに感じ取っていた。
柔らかく、温かい。
いてもいなくても同じなんて嘘だ。いずれ消える幻なんかじゃなく、真彩は今、確かにここにいる。
「あっ」
声を漏らした真彩の瞳から一筋の涙が溢れ、頬に触れたてを濡らした。
「あ、うぅ……」
漏れた声は次第に嗚咽に変わり、真彩は俺の手に両手で触れて泣き始める。
「お、おい、真彩?」
次の瞬間、真彩が俺の胸に飛び込んだ。比喩表現ではなく、マジで浮遊しながら飛んできた。
突然の体当たりに加え、フワフワ浮かんでいた様子からは想像もつかないリアルな重さに俺はよろめき、思いっきり床に後頭部を打ち付けてしまう。
明滅する視界の端でオヤジと小月が目を見開いているのが見えた。
「痛っ⁉︎ どうしたんだよ真彩?」
抱き留めた肩は小さく震えていて、真彩は俺のシャツに顔を埋めて泣き続ける。
「だって……だって……幽霊になってから、触ってもらったの、はじめてで……」
「真彩……」
その涙に、実態は無い。
瞳から溢れても、俺のシャツに染み一つ作ることはない。
でも、熱い。
真彩の体温も、涙の熱さも、俺にはしっかりと感じ取れる。
「誰にも見えなくて……声も聞こえなくて……。もう誰も、あたしのこと……!」
突然命を落とし、その魂が幽霊として残留した。
誰にも見向きもされず、触れず、声も聞こえない。
きっと最初の頃は、真彩はずっと叫んでいたはずだ。
誰か見て。
誰か聞いて。
誰か触れてと。
やがてその叫びが無為だと悟り、あの駐車場で一人膝を抱えて座り込んでしまった。
ずっと長い間。話しかけられても自分のことだと気付かないほどに、真彩は一人に慣れてしまった。
まだ十歳の子どもにとって、それは世界から拒絶されたにも等しいことだったろう。
「……お兄さん、あたし……」
抱き留めていた震える背中を、しっかりと抱いてやる。
消えないように。
なくならないように。
真彩の熱を、ここにいる証を刻み込む。
「あたし、ここにいるよ?」
「ああ……!」
いるよ。
お前はここにいる。
オヤジと小月には分からなくても、俺には見えるし、声も聞こえる。そして、こうして触れ合える。
いずれ消えてしまうとしても、少なくとも、今この瞬間、真彩は確かに俺の腕の中にいる。
「お兄さん……」
泣いていた顔を上げ、真彩は笑顔を浮かべる。
子どもらしい屈託のない笑顔。見ている側まで笑顔にしてしまうほどの晴れ晴れとした顔だ。
「あたしを、見つけてくれて、ありがとう……!」
そう言って真彩は笑みを深める。
ようやくこの子を、ちゃんと救えた気がした。




