夏休み編37 頼れる先輩
結局その日は気温三十五度を超える猛暑日になった。
なるべくなら涼しい午前中のうちに出かけようと思い、朝食を済ませてすぐに家を出たのにこの暑さ。標高が低いだけあってクーラー要らずの鬼無里とは大違いだ。
『ダイチ、暑い……』
「俺だってあちぃよ……」
手に下げたケージの中からリルのか細い訴えが聞こえるが、日陰な分お前はまだマシだろうと思うことにする。
家から原付きのスクーターで十分ほどかけて、俺とリルは駅前の繁華街にやって来た。
地方都市だけあって無料で停められるだだっ広い駐輪場にスクーターを停め、リル入りのケージを手にそこそこ広い駅の構内を突っ切って反対側の通りに出る。ネコメと待ち合わせている店はここから歩いて五分ほどのところだ。
夏休み中というだけあって、駅前の繁華街は俺と同じくらいの年頃の人間が多く遊び歩いている。そんな人波を抜けて目当ての店を見つけ、ドアを開ける。
カラン、というベルの音が響き、冷房の効いた空気と共にコーヒーの香りが通り抜ける。汗で火照った体に心地いいひんやりとした空気だ。
「どうも、お久しぶりっす」
「おお、ボウズか」
軽く手をあげて挨拶すると、カウンターの奥でサイフォンでコーヒーを淹れていたマスターが挨拶を返してくれる。どうやら俺のことを覚えていてくれたらしい。
ここは繁華街のメインストリートから少し裏通りに入った喫茶店。このマスターさんは霊官で、この店も中部支部の下部組織に当たる。霊官が会議に使ったりできる喫茶店だ。
そして何より、ここは我らが生徒会書記、マシュマロこと雪村ましろの実家でもある。
「話は猫柳の嬢ちゃんから聞いてるよ。嬢ちゃんは先に来てるから、ボウズも下で待っててくれ。ましろを呼んでくる」
そう言ってマスターは奥の扉を通って自宅だという二階へ向かって行く。
「すいません、お願いします」
俺は言われた通りに、掃除用具入れのようなロッカーを開けて隠し階段を下って地下へ向かう。
地下の部屋のドアをノックしてから開けると、そこにはすでにネコメが待っていた。
ネコメはTシャツの上に薄手のチェック柄のシャツを羽織り、下はデニムのショートパンツに黒のストッキング。テーブルの上には外で被っていたと思われるハンチングが乗っている。どうでもいいが、ネコメは結構お洒落なやつだな。どこへ行くにも夏場はTシャツと短パンだけの俺とは大違いだ。
「悪い、待たせたか?」
「いいえ、私もついさっき来たばかりです」
テーブルの上のアイスラテはほとんど減っていないし、氷も溶けていない。気を使って嘘をついている感じじゃなさそうだ。
「……マシュマロとは、会えたか?」
「いいえ。マスターさんの雰囲気だと、体調が悪いようではなかったですけど。私がお会いしたいと言ったら、なんだか気まずそうにされていました」
「そうか……」
そうなのだ。諏訪先輩から仕事の斡旋を受けられなくなった俺は、次にマシュマロに頼ろうと思った。烏丸先輩はトシに付いているらしいので、一番頼み易かったのがマシュマロだったのだ。
しかし、マシュマロにメッセージを送っても既読にならず、電話をしてみるとケータイの電源さえ入っていないようだった。
なんだか心配になってきた俺とネコメで、こうして実家である喫茶店まで足を運んだという訳だ。
「まあ、マスターさんが連れてきてくれるらしいから、別に何かあった訳じゃないだろ。そういや八雲はどうしてるんだ?」
俺の質問にネコメはムッと顔をしかめ、苛立つようにアイスラテに口をつけた。
「八雲ちゃんはまだ寝ていますよ。昼間は暑いから活動に不向きなの、とか言って昼夜逆転してます。本当に不健康です」
「あいつらしいな……」
八雲は夏休みに合わせてかなりの数のゲームを買ったと言っていたし、八月には東京に遊びに行くとも言っていた。本当に夏休みを満喫している。
「しかし、八雲を見習う訳じゃないけど、仕事だけじゃなくて俺たちも何か夏休みらしいこともしたいよな。霊官の資格取れたら、みんなでどっか遊びに行くか」
八雲とも少しそんな話をしていたし、やはり学生の夏休みである以上遊びは絶対に必要だ。そうに決まっている。
俺の提案にネコメは頬を緩め、ちょっといたずらっぽい笑みを浮かべる。
「実は、こっそり計画してるんですよ。夏休みの旅行」
「え、そうなの?」
初耳だ。まあ俺は夏休みのスタートダッシュに躓いたから、聞いてないのも仕方ないが。
「はい。もう旅館も予約してあるので、楽しみにしておいてくださいね」
「旅館⁉︎ おいおい、泊まりなら日程教えてくれよ。一応予定入れないようにしねえと」
まあ特に何の予定も無い夏休みだ。いつからでも問題無いが、いきなり前日に言われても準備とか困る。サプライズのつもりか知らないが、何日からなのかくらいは教えてもらわないと。
「えっとですね……」
日程の確認のためにネコメがケータイを取り出した瞬間、ケータイではなく地下室に備え付けの受話器から着信音が響く。この受話器は地下室からの注文などに使うため内線で、一階のカウンターと繋がっていたはずだ。
「も、もしもし……」
『お、ボウズか』
慌てて受話器を取ると、相手はマスターだった。
『悪いな、ましろは今は誰にも会いたくないと言うんだ』
マスターの言葉に、俺は耳を疑った。
「あ、会いたくないって……⁉︎」
そんな、どういうことだ?
マシュマロは知り合って以降、ずっと面倒見のいい先輩でいてくれた。
先輩後輩の上下関係に無頓着で、友達として近しい距離感で接してくれた。一見ホンワカしていながら、それでいて仕事のできる生徒会の頼れる先輩。
そして何より、苛烈なまでに強い。
強く、優しく、誰からも好かれる人だ。
そんな人が、理由も無く困っている俺たちを見放すとは思えない。
「やっぱり、体調が悪いんすか? 何か雪女特有の……」
『いや、そういうのじゃないんだ。体調だって、まあ万全とは言えないが問題ある訳じゃない』
「だったらどうして⁉︎」
思わず声を荒げる俺に、マスターは言い辛そうにゆっくり口を開いた。
『それは……そうだな、直接交渉してくれ。ましろの部屋に案内する』
そう言ってマスターは内線を切った。
「大地君……」
「ああ、やっぱり様子がおかしい」
一体何があったんだよ、マシュマロ。




