夏休み編33 親子
夕飯は小月が作ってくれた。三年も一人暮らしをしていただけあってその腕前は結構なもので、俺もリルも大満足だった。何よりこの家で再び家族の手料理を食べることがあるとは思っていなかったので、妹が作ってくれたというだけで味以上に感無量だ。
夕飯を食い終えた俺は嫌がるリルを風呂に連行し、寮から持ってきた犬用シャンプーで丸洗いして、自分も体を洗ってリビングに戻る。
風呂上りに牛乳でも飲もうかとキッチンに行ったところで、リビングにオヤジの姿がないことに気付いた。
「小月、オヤジは?」
「外だよ。タバコ吸ってる」
オヤジが、外でタバコ?
リビングでも自室でも普通に吸っていたのに、わざわざ外に出てタバコだと?
そういえば以前はリビングに置いてあった灰皿がなくなっているし、家の中のヤニの臭いもかなり薄い。
小月に気を使って外で吸うようにしてるのか?
「兄さん、リルちゃん構っていい?」
「ん、ああ、好きにしていいぞ。俺はちょっと外に出てる」
「……兄さんもタバコ?」
変な勘違いで睨まれてしまった。
「吸わねえよ」
荒れていた頃からタバコなど一度も吸ったことがない。健康第一大地君だ。
「リル、小月と遊んでろ」
『そうするよ。サツキはダイチより優しそうだし』
この野郎、風呂入れる度に不機嫌になりやがって。いい加減慣れろ。
こっちに尻を向けて不機嫌そうに小月の方に向かって行くリルをひと睨みし、俺は玄関のドアを開けて外に出る。夏とはいえ夜の空気はわずかにひんやりとしていて、湯上りの火照った体には何とも心地いい。
「大地、どうした? お前も吸うのか?」
紫煙の匂いと不快な言葉に迎えられた。
「何で皆んなして俺を喫煙者にしてえんだよ」
玄関先に立ってタバコを吸うオヤジの足元には数本の吸い殻が落ちていて、今ちょうど新しいものに火をつけたばかりのようだ。
「ホタル族になったのか?」
「小月が家に来た日にリビングで吸おうとしたら睨まれてな。娘に『お父さん、臭い』と言われるのがあれほどショックだとは思わなかったよ……」
その時の様子を思い出して肩を落とすオヤジの背中には、どことなく哀愁めいたものが漂っている。
娘に煙たがられて寂しく思う、どこにでもいる父親のような姿だ。
「……小月のこと、ちゃんと娘だって思ってくれてるんだな」
「……血が繋がっていなくとも、あの子は私の娘だ。だから仕送りだってするし、長い休みには家にいて欲しいと思う」
照れ隠しのように紫煙を吹かすオヤジ。その姿が俺の中のオヤジのイメージと違って、俺は思わず吹き出してしまう。
「なんか、らしくないな」
「どういう意味だ?」
俺の笑い顔が気に障ったのか、オヤジは僅かに眉間にシワを寄せる。
「オヤジも、親父だったんだなって。今更だけど、俺オヤジのこと誤解してたよ。五月の入院のときも……」
「…………」
俺にとってオヤジは、話の通じない嫌な父親だった。
俺たちがまだ幼い頃に離婚し、家にいる俺のことを顧みようとしない。仕事ばかりで子どものことになんて興味ない人だと思っていた。
でも、五月に俺が入院していたときにはオヤジは毎日見舞いに来てくれていたらしい。
俺の好物を枕元に置き、俺のことを心配してくれていた。
「そんなに不思議でもないだろう。父親が息子のことを慮るなど、当然だ」
「その当然が伝わってこなかったんだよ……」
いや、それは違うと、口にしてから思い直す。
俺だってオヤジのことを一方的に忌避して、話をしようともしなかった。
家族がバラバラになったのはオヤジのせいだと決め付けて、勝手に嫌っていた。
「……悪いのは私だ。母親が居なくなって一番寂しい思いをしたのは他でもないお前だったのに、私は仕事をこなして金を得ることばかりにかまけていた。家に金を入れるのが父親の務めだと、そう思っていた。しかし、あのとき仕事など辞めてしまうべきだったんだ。仕事を捨てて、お前とだけ向き合っていれば、少なくともお前はあそこまで荒れることはなかった」
紫煙と共にオヤジの口から溢れる言葉。静かな夜の住宅街に響く、ずっと聞きたかった言葉。
「中学の時のことは、俺の自己責任だよ。自分で勝手にああなったんだ」
「それを正してやるのが、本来の親の役目だ。本当に、辛い思いをさせた」
短くなったタバコを落として踏み消し、玄関先に置いてあった空き缶に足元の吸い殻をまとめて捨てる。
「五月にお前が家を出て、初めて気づかされたよ。私が仕事をするのも、金を得るのも、全てはお前の、子どものためだったんだな、と。学校の人から入院したと連絡を受けたときには、死ぬほど心配した」
「……悪い」
オヤジの独白には自責の念があって、それでもやはり少しだけ、俺を咎めているようだった。
子を心配しない親はいない。そんな当たり前のことを、今更気付かされた。
「……まだ危ないことをしているのか?」
「そりゃまあ、それなりに……」
「そうか……」
異能、霊官の孕む危険。
常に超常の中に身を置く今の俺は、中学時代よりも格段に危険に晒されている。現にこの数ヶ月の出来事は、どれも一歩間違えば命を落としてもおかしくない事件だった。
「大地、無理を承知で聞くが、家に戻って普通に過ごすことはできないのか?」
「え?」
「小月もお前が危険な目に遭えば悲しむだろう。私も父親として、お前にはこれ以上危険な目に遭ってほしくはない」
真っ直ぐに、オヤジが俺の目を見てそう言ってくる。
至近距離で向き合う俺とオヤジ。考えてみれば、こんなに真っ正面からオヤジと向き合うなんて、久しぶりのことだ。
親として、俺の身を案じてくれている。今ここで俺が家に帰りたいと言えば、オヤジは全力でそれを手助けしてくれるだろう。
「それは、できない」
それが分かったから、俺は真剣に返す。曖昧な言葉や含みを持たせる回答ではなく、はっきりと、できないと言う。
「決まりだからか?」
「……それもある。でも、それだけじゃない」
異能の漏洩防止や、若い異能者が異能を悪用しないためにも異能者は異能専科で管理される。オヤジもそれは聞いているはずで、だから無理を承知と前置きしたんだ。
そんなことは分かっているから、俺は今はそういった建前の話を忘れる。
異能のルールも、諏訪先輩への負債も、俺が抱えるどうしようもない理由を全て抜きにして、自分の意思だけを伝える。
「友達ができたんだ。今の学校で」
「友達?」
「ああ、結構沢山できた。んで、その中の一人が、ちょっとシンドイ事情抱えててさ。まあ、あの学校じゃあそんなに珍しくもないんだけど」
異能専科には複雑な事情を抱えたやつも多い。異能に家族を奪われた鎌倉。家族に愛されなかったネコメ。家のしがらみに囚われた烏丸先輩。不自由な体になった諏訪先輩。そして、異能の謀略で姉を失った八雲。
「……そいつの姉貴が、この前死んだ。異能を悪用しようとした二人の母親に、使い潰されるみたいに」
俺の言葉に、オヤジは瞠目した。
異能の危険は聞いていても、それを悪用する人間によって人が死ぬなんてのは、ショックだろうな。息子がそんな事件に関わったとなれば、尚のこと。
「そんな……そんな話を聞いたら尚更だ! もう異能なんてものに関わるな! 家に帰って……」
「何も出来なかったんだよ!」
オヤジの心配は、正直言って嬉しい。
俺のことを心配して、俺のためならそれこそ相手が霊官だろうが国だろうが相手取ってくれそうだ。
でも、ダメなんだ。
「そいつ、バカみたいに明るいやつでさ。友達思いで、スッゲーいい奴なんだよ」
東雲八雲。俺の友達。
明るくて可愛くて、そこにいるだけで周りまで楽しい気分にしてくれる、そんなやつ。
今もネコメのマンションで、きっと二人で遊んでいるのだろう。ゲームをしたり、話したり、いつもの調子で笑っているのだろう。
今朝マンションを出るときにも、俺とトシのことを明るく見送ってくれた。
でも、離れない。消えてくれない。
奈雲さんの葬儀の後の、ネコメに縋り付いて泣きじゃくる八雲の背中が、ずっと頭の中に残っている。
「……何もしてやれなかったんだ。俺にもっと力があれば、あいつは泣かずに済んだかもしれないのに」
きっと生涯忘れない、あのときの無力感。
あの姿を見て、俺は決めたんだ。
もう泣かせたくない。そのために強くなると。
「……お前がやらなきゃいけないことなのか?」
「俺がやりたいことなんだよ。漠然としてて、なにしたらいいのかもまだ分かんねえけど、それでも……」
精一杯の虚勢を張る。
俺を心配してくれるオヤジに、精一杯の強がりを込めて。
「友達が泣いてたんだ。男が命掛ける理由には、充分だろ?」
オヤジは驚いたように目を見開き、呆れるように笑い、最後に、寂しそうに目を細めた。
「男子三日会わざれば、と言うが、本当だな。いつの間にと思うよ」
メガネを外し、眉間を抑えて、オヤジは破顔した。
こうして見ると、成る程、俺とオヤジの笑った顔はよく似ている。
「大きくなったな、大地」




