夏休み編31 帰省
「や、やっと帰ってこれた……」
夏休み二日目の午後、俺はようやく実家の前に立った。
ここまで補習、生徒会、修行、お泊まり会と密度の高い二日間だったが、ようやく安息の地にたどり着くことが出来た。
『ここがダイチの家?』
「ああ、そうだよ。正確にはオヤジの家だけど」
『寮より小さいんだな』
「ありゃみんなで生活する家なんだから当たり前だろ。ここに住んでるのは俺とオヤジだけだから、むしろ寮よりかなり広いぞ」
寮の生活スペースはトシとの相部屋である一部屋だけ。それに比べればこの一軒家はかなり広い。
『広いんだ!』
「ああ。風呂も寮のシャワーより広いから、お前が暴れても大丈夫だ」
『……お風呂イヤ‼︎』
「イヤじゃねえ! 昨日入りたがらなかったんだから、今日は入れるぞ」
昨夜ネコメのマンションで風呂を借りたときは、リルはバスルームの前から一歩も動かなかった。
炎天下の中駅前から歩いて来たせいで汗びっしょりだし、このまま風呂に直行だ。
「ただいまーって、誰もいないんだけど」
鍵を開けて家に入ると、当然中は静かだった。
オヤジは仕事だし、帰ってくるまでは気楽に羽を伸ばさせてもらおう。
そういえば補習がなくなったことを伝えていなかったが、まあ些細な問題だ。
『ここがダイチの家かー』
「俺の部屋は二階だ」
階段を上がって自室に入り、荷物を置いてすぐに下に戻る。
「さてと、まずは風呂掃除だな」
普段はハウスクリーニングを頼むか、オヤジが帰ってきてから掃除をするので、この時間は昨夜のままになっているはずだ。
「お前は浴槽と一緒に洗ってやる」
『ぎゃー‼︎』
「こら逃げるな!」
嫌がるリルを抱えてズボンの裾をまくり、シャツを脱いでからバスルームに入る。どうせ暴れてビショビショになるからな。
「さーてリル、楽しい楽しいお風呂ター……」
風呂場の扉を開けると、
「…………」
見知らぬ全裸の女の子と目が合った。
「イム?」
女の子はキョトンとした顔で俺を見返し、泡だらけの体でシャワーヘッドに手をかけたまま首を傾げる。
黒髪のショートヘアの女の子で、歳は恐らく俺と大差ない。泡まみれの体は華奢でほっそりとしており、プラスチックの椅子に乗るお尻も小さい。
「……なんで裸?」
口から出たのはそんな問いだった。
「え、お風呂だから? むしろなんで上は脱いでて下は履いてるの?」
「あー、風呂掃除のついでにこいつを洗おうと思って」
小脇に抱えたリルを指差す。
「可愛いね」
「ああ、よく言われる」
「えっと、お風呂は私が掃除した」
「そうか、ありがとう」
「なので、一番風呂をいただいてます。もう体を洗っちゃったし、このまま入っていてもいい?」
「うん、いいと思う」
「……一緒に入る?」
「またの機会にしとくよ」
ここでようやく俺は一歩下がり、風呂場のドアを閉めてリビングに戻る。
床にリルを置き、ソファに深く腰を沈め、ありったけの声で叫ぶ。
「いや、誰ッ⁉︎」
え、なに、誰なの今の女の子⁉︎
久しぶりに実家に帰って風呂に入ろうとしたら、見知らぬ女の子が先に入っていましたってどういう状況⁉︎
『今の人、知らない人?』
「知らない。全然知らない」
異能専科では見たことないし、見たことあったとしても顔を覚えるような間柄ではないと断言できる。
当然五月に家を出るより前の知り合いでもないし、親戚付き合い皆無の大神家では従姉妹とかそういう人間との交流もない。
したがって、今の女の子と俺は顔見知りではない。
「……知り合いでも何でもない女の子が、俺の家で風呂に入っていた」
しかも慌てた様子も戸惑う様子もなく、まるで自宅の風呂でも入るかのような自然さで。
こうなると考えられる可能性は三つ。
一つ、今見たのは幻覚。何者かによる異能攻撃。
二つ、この二ヶ月の間にこの家は人手に渡っていた。彼女はこの家の住人。
三つ、風呂場のドアはどこでもドアになっていた。
「三は無いな。うん、無い」
そんなあり得ない可能性が浮かんでしまうくらいには混乱しているらしい。
二は、選択肢の中では一番現実的ではあるが、それにしたってオヤジが何の相談もなくそんなことをするとは思わない。
となると一、幻覚や異能による攻撃の可能性だが、わずかに開いているバスルームのドアからはシャワーの音が聞こえる。幻覚ってことはない。
「…………」
久しぶりの実家で鼻が麻痺していたが、改めて家の匂いを確かめると、染み付いた俺やオヤジの匂いに混じって風呂場にいた女の子の匂いも家から匂う。少なくともここ数日彼女が家に滞在しているのは間違いない。
そうなると、まさかとは思うが、これは……‼︎
「パパ活ってやつかッ……⁉︎」
オヤジは自宅に女の子を招き入れ、現金と引き換えに良からぬことをしているのか?
そんな考えが頭をよぎった瞬間、家の外の駐車場に車が止まる音を聞き取った。まだ早い時間だが、あれは間違いなくオヤジの車。
数秒後には玄関のドアが開き、オヤジの匂いも漂ってくる。
「ん? 大地、帰ってるのか?」
買い物袋を持ってリビングに現れたオヤジに、俺は詰め寄る。
「オヤジィィィ‼︎」
「早かったな。帰るなら連絡くらい……」
「大人しく自首しろテメェ‼︎」
「な、なにを言っている⁉︎」
「見損なったぜこの野郎、まさか未成年への淫行に手を染めるとは‼︎」
「何の話だ⁉︎」
オヤジの胸ぐらを掴んでガクガク揺すっていると、バスルームのドアが開かれて例の女の子が現れた。
「お帰りお父さん……何の騒ぎ?」
湯上りで赤く染まった顔に困惑の色を浮かべ、俺とオヤジの取っ組み合いを眺める。
「お、お父さんって……⁉︎」
今彼女は、確かにお父さんと言った。俺のオヤジのことを、お父さんと。
「オヤジ、再婚したのか?」
「何でそうなる⁉︎」
いや、だってお父さんってことは、お父さんってことだろ?
この子は相手の連れ子で、俺はしばらく実家を開けている間にお兄ちゃん?
「……兄さん、分からないの?」
「え?」
兄さん?
そりゃこの子が歳下なら、確かに俺は兄さんになるのかも知れないが、こんなすんなり呼ばれるものか?
もっとこう、葛藤とかあるもんじゃないの?
「分からないのも無理はない。何年も会っていなかったし、大地には何も話さなかったからな」
ため息混じりに襟を正すオヤジを見て、女の子はそっと手を伸ばす。
俺のシャツをそっと引っ張った。
「兄さん、私だよ?」
「お、お前、もしかして……‼︎」
アイツは確か、いつもこうやって俺の服を引っ張った。
どこに行くときも俺の後ろをついて回り、置いていかれないように服を掴んでいた。
なのにその手は、ある日突然離れた。
大人の理不尽に翻弄され、離れ離れになった。
「お前、小月……?」
両親が離婚し、小学生の頃に生き別れた、父親の違う妹。
「久しぶりだね、兄さん」
七年振りに再会した妹は、そこで初めて俺に、笑顔を見せてくれた。




