夏休み編22 仕置き
床に転がった寸胴の鍋からは、まだ温かい湯気の上がるカレーが中身の七割ほどを撒き散らしてしまっている。
取手を持っていたポーズのまま放心したように固まる八雲と、鬼のような形相で手を振り抜いた諏訪妹。
俺たちのために八雲が作ってくれた夜食が、台無しにされていた。
「ふ、ふざけてるんですか? 混ざりものの、それもよりによってあなたみたいな虫が作ったものを、お姉さまの口に入れようとするなんて……‼︎」
興奮した様子で荒い呼吸をする諏訪妹は、俺のデスクに置かれていた炊飯器とラップの掛かった唐揚げ入りの深皿にも手を伸ばそうとする。
「ッ‼︎」
駆け寄り、左手で諏訪妹の手をグッと掴んだ。
「痛っ!」
身をよじる諏訪妹の腕を掴み上げ、自分でも驚くくらい低い声で問い詰める。
「……お前、何してんだ?」
「イヤ、汚い……離してっ‼︎」
「何してんだって聞いてんだよっ‼︎」
振り上げた右の平手を、後ろから止められる。
止めたのは誰あろう、よりによって八雲である。
「離せよ、八雲」
「ダメだよ。暴力は、絶対ダメ」
八雲の手も声も、震えていた。
せっかく作った食事が台無しにされて、傷つかないはずがない。
「…………」
なんで、なんでよりによってお前が止めるんだ?
お前が一番怒っていいはずだろ。
お前が一番、こいつを殴りたいんじゃねえのかよ。
「手を離すんだ、大神」
諭すように烏丸先輩が促すが、俺は離す気になれなかった。
「離してよ! もう触らないで……!」
「黙れッ‼︎」
部屋中に響き渡る怒声で、諏訪妹を一喝する。
「……黙れよ」
低く、冷徹な声に、今度こそ諏訪妹は黙った。
目を見開き、呆然と口を開けて、言葉を失った。
「混ざりものってなんだよ、異能混じりのことか? 異能混じりだからなんだってんだよ? 異能者の中じゃ一番多いはずだろ?」
八雲の手を払い除け、半ば宙吊りになっている諏訪妹のワイシャツの襟を掴む。
「諏訪だの、烏丸だの、生まれた家がなんだってんだ? テメェはお姫様か何かか? 生まれた家がご立派だったら何してもいいってのか?」
「その手を離すんだ、大神‼︎」
「テメェがどれほど偉えんだ⁉︎ 相手のこと舐め腐ったただのガキじゃねえか⁉︎ あぁ⁉︎」
「ひっ‼︎」
諏訪妹は短い悲鳴を上げ、ブルっと身を震わせて気圧された。
怯える顔を至近距離から睨みつけてやると、今度は肩を掴まれた。
「離せといっているんだ、大神」
険しい顔でそう促す烏丸先輩だが、掴む手にはそれほど力が入っていない。
烏丸先輩にも分かるんだ。俺が怒っているのは八雲のためだけじゃないということが。
烏丸先輩が烏丸って名前だけでコイツに不当な扱いを受けているのは、見てるだけで分かった。
立場上俺を止めなきゃいけないという気持ちと、自分のために怒っている俺に強く出れない気持ちが混在しているんだ。
それでも、
「頼む、大神。その人から手を離してくれ……」
こんな不安そうな顔で懇願されては、俺もこれ以上のことはできない。
「…………」
仕方なく、突き放すようにして俺は諏訪妹の手と襟を離す。
放心したようにその場にへたり込む諏訪妹を放置して、俺は床にぶち撒けられたカレーに目を落とす。
食欲を刺激する芳しい香りに、トロトロに煮込まれた野菜と肉。この短時間でここまで煮込めるとは思えないから、あらかじめ下ごしらえをしてあったか、圧力鍋でも使ったのだろう。
「…………」
しゃがんで、床のカレーに手を伸ばす。
「ちょっと、大地くん⁉︎」
驚く八雲の声を聞きながら、俺はカレーの海に手を突っ込んで、すくい上げたそれを口に運ぶ。
「ひっ⁉︎」
後ろで諏訪妹の引きつった声が聞こえたが、無視だそんなもん。
「ちょっとやめてよ、大地くん‼︎ ばっちいよ、作り直すから‼︎」
制止する八雲の声も聞かず、俺は取り憑かれたように次々とカレーを口に運ぶ。
甘口ベースのルウは市販のものとはコクの深さが一味も二味も違い、甘さの奥に程よい刺激が感じられる。スパイスの調合まで自作とは思わないが、大量のタマネギとカレー粉で下地になるルウを作ったのだろう。
肉を選んで食べてみると、ヨーグルトの酸味がほのかに香る鶏肉だ。別に作ってから投入したのだろう、無駄な肉汁は一切漏れておらず、噛むと程よい弾力とともに旨味が溢れてくる。
八雲の作ってくれたカレーは、俺の今までの人生でも三本指に入るほどの絶品だった。
「大地くん、そんなの食べないで!」
困ったように顔を曇らせる八雲だが、俺は黙々と食べ続ける。
そんな俺に倣うように、まずトシが、次いでマシュマロもしゃがみ込んでカレーに手をつけた。烏丸先輩まで食べ始めたよ。
「……美味え」
「え?」
俺が一言そう言ってやると、八雲はキョトンと目を見開く。
「ああ、美味いな」
「うん、おいしいよ、やくもん」
俺の感想にトシとマシュマロも同調し、烏丸先輩までも「確かに、これは美味い」と頷いた。
「……ばか。知らない」
口ではそう言う八雲だが、少し心が軽くなったのか、その顔はどこか嬉しそうだ。
「…………」
揃って床に落ちたものを食べる俺たちを信じられないものを見る目で眺める諏訪妹に、諏訪先輩がスッと近づいた。
「お姉さ……」
パァンッ!
生徒会室に、乾いた音が鳴り響く。
それが諏訪先輩の平手打ちだと気付いたとき、諏訪妹は口をぱくぱくさせながら、信じられないといった様子で打たれた頬に触れる。
「……少しは考えを改めるかと思ったけど、ダメのようね」
「お姉、さま?」
底冷えするほどの冷たい声と視線で、諏訪先輩は妹を見下ろし、そっと告げる。
「八雲に謝れ、とは言わないわ。あなたがそんなふうに育ってしまった原因は私にもあるから。だから、この一発だけでいい」
怒鳴るでも、問い詰めるでもなく、諏訪先輩は淡々とした様子で言葉を紡ぐ。
「隣に私の私室がある。私が呼ぶまでそこにいなさい」
クルッと車椅子を反転させ、俺たちの方に寄り、床のカレーを指で掬い取って口に運ぶ。
「出て行きなさい花梨。貴女はここにいていい人間じゃないわ」




