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異能専科の猫妖精(ケット・シー)  作者: 風見真中
編入編
12/246

編入編11 傷痕

 時計の秒針が動く音が耳朶を打つ。

 すでに日付が変わろうかという時間で、二時間ほど前に一度烏丸先輩が戻って、またすぐに出て行ってから俺たちはずっと無言だった。

 藤宮先生は名医で、東雲の怪我は心配ない。何度そう説明されても、俺たちは保健室から出られないでいた。

 頭では大丈夫だと理解していても、鬼に殴られて倒れ臥す東雲の姿が、口から吐き出した赤黒い血の臭いが、俺を保健室に縛り付けている。

 足元のリルは不安そうに耳と尻尾を垂れ下がらせ、東雲のいるカーテンの方をずっと見ている。

 土曜日が終わりを迎えようという瞬間、ザッとカーテンが引かれ、額に汗を浮かべた藤宮先生が現れた。

「ふー、やっと終わったわ。肋骨に胃に肺、まるで交通事故よ」

 先生は見るからに疲弊しているが、深刻そうな面持ちではない。

「せ、先生、八雲ちゃんは?」

「心配ないわ。もうすぐ目を覚ますだろうし」

 先生の言葉に「よかった……」と猫柳と俺が安堵し、保健室の中には弛緩した空気が流れる。

 藤宮先生は白衣の袖で汗を拭い、続いて俺に向き直る。

「さ、次はあんたよ大神。手ェ見せて」

「あ、はい」

 先生に言われ、俺は椅子に座ったまま両手の甲を先生に向ける。

「うん、大したことないわね。皮膚が裂けてるのと、妖蟲の体液の影響で血が固まりにくくなってるだけ。これならすぐ治るわ」

 先生は「異能、使ったままにしときなさい」と言って俺の手の上に自分の両手を重ね、じっと集中するように視線を向ける。

 すると数秒で傷口がじんわりと熱を帯び始め、先生がグッと手を握るとあっという間に傷が塞がった。

「す、すげぇ……」

 若干の傷痕は残っているが、血は完全に止まっている。まるで手品だ。

「異能術の治療よ。傷痕も数日で消えるわ」

 先生はふぅ、と息を吐き、デスクの椅子に深く腰を下ろした。俺は東雲のついでみたいなものとはいえ、二人連続の治療で随分疲れている様子だ。

「手をかざしただけで傷が治るなんて、どういう理屈なんだ?」

 あっという間に治療された傷を見つめ、隣の猫柳に問いかける。

「片手で傷口の細胞を活性化させる異能術をかけて、そこにもう片方の手で異能の力を流し込むんです。異能生物が異能を取り込むと強くなるのと似た原理で、あとは体内の異能が勝手に傷を治してくれるんです」

「異能混じり用の治療法よ。だから異能を発現させたままでいろって言ったの。その方がこっちは異能の消費抑えて治療出来るから」

 なるほど、怪我の軽重だけじゃなくて、意識を失っていて異能を使えない東雲の治療はそれだけ大変だったって事か。

「つーか彩芽が治してあげればよかったじゃない?」

「ダメですよ。私の治療は高いですから」

 この期に及んでまだ金を毟り取る気かよ、この銭ゲバ会長。耳で遊ぶの有料にしようかな。

「ともかくこれでひと段落ね。この時間だと寮の浴場閉まってるし生徒会室のシャワー貸してあげたら?」

 先生にそう促され、諏訪先輩は「いいですよ」と快く頷いた。

「確かに臭いますしね、この駄犬」

 そう言って先輩は俺の首輪をグイッと引っ張った。苦しい。昼間石崎に胸ぐらを掴まれた時より遥かに苦しい。

「散々人の耳で遊んどいて何言ってんだよアンタ⁉」

 隙あらば俺を罵倒したがる諏訪先輩のイカレ具合はさて置き、有難い話だ。全身に妖蟲の体液を浴びたし、血も固まってしまっている。シャワーくらい浴びないと気持ち悪くて眠れそうにない。

「それじゃ、行きましょうか」

 先輩の合図で俺と猫柳は立ち上がる。

「先生、八雲ちゃんをよろしくお願いします」

 そう言って猫柳が頭を下げ、俺も倣って礼をする。

 はいはーい、と手を振る藤宮先生にもう一度頭を下げ、俺たちは保健室を後にした。


 ・・・


 妖蟲の体液まみれで上履きも履いていなかった俺と猫柳は一度寮に戻って着替えを用意し、再び校舎に集まった。

 猫柳の手には自分の分の他にもう一組着替えが用意してある。そういえばルームメイトだとか言っていたし、恐らく目が覚めて合流するかもしれない東雲の分だろう。

 例のエレベーターを猫柳が操作し、諏訪先輩とリルの三人と一匹で所在不明の生徒会室のある階へ向かう。

 シャワールームはなんと生徒会室の中にあるらしく、俺たちは昼間も訪れた豪華な生徒会室に再び訪れた。

「って、シャワーなんてどこにあるんだ?」

 部屋の中は豪華な造りだが、昼間に訪れたときも他の部屋へ通じる扉の様なものは無かったはずだ。

 改めて室内を見回してみても、掛けられた油絵の他には食器棚と殺風景な壁があるだけだ。

 俺の質問に諏訪先輩は不敵に笑い、車椅子のタイヤを回して一枚の絵の前に進んだ。

「これよ」

 そう言って先輩が絵の額縁に手を伸ばし、ガコン、と九十度回転させた。

「は?」

 俺がキョトンとしていると、壁の中からゴゴゴゴ、と重低音が鳴り響き、壁の一部がシャッターのように上部へと消失した。

 壁が消え、奥行き数メートルの隠し通路が出現した。その先には、恐らく間仕切りと思われる白いカーテンが垂れ下がっている。

「隠し部屋になってるのよ」

 諏訪先輩はドヤァ、と自慢げな顔でシャワールームを指差す。

「いや、すごいけど……」

 見取り図に載っていない部屋に、さらにスパイ映画のような隠し部屋。確かにすごいし、カッコいいと思ってしまう。

 しかし、

「何よ、反応悪いわね」

 ぷく、と可愛らしく頰を膨らませて拗ねる諏訪先輩。俺の反応がお気に召さなかったみたいだが、はっきり言って今日はもういいリアクションなんてする気分にならない。

「なんでわざわざこんな風に造ったんだ? シャワーなんて生徒会室の中にある必要無いし、そもそも隠す必要だって……」

「私の趣味よ!」

 左様ですか。

「まあ、有り難く使わせてもらいますけど……」

 俺はジャージの上を脱ぎ、リルを連れてシャワールームに向かって歩みを進める。

 踏み出した一歩目を諏訪先輩の足に引っ掛けられ、盛大にすっ転んだ。

「何しやがる⁉」

 床に顔面を叩きつけられ、ズキズキと痛む鼻っ面を抑えて抗議の声を上げる。

 諏訪先輩は氷のように冷たい視線で這いつくばる俺を見下ろしていた。

「レディーファーストって言葉を知らないの? ネコメが先に決まってるでしょ?」

 首輪をグイッと引っ張られ、上下にぐらぐらと頭を揺らされる。

 猫柳は「私は別に……」と遠慮気味なことを言ってくれているが、確かに浅慮だったな。ここは女子の猫柳に譲るべきだ。足なんて引っ掛けないで口で言えとは思うが。

「あー、シャワー先にいいぞ、猫柳。俺は後でいい」

 痛む鼻先を抑えて立ち上がり、猫柳にシャワールームへの道を譲る。

「なんか今の言い方、イヤらしいわね」

「どう言ったら正解なんですかね⁉」

 俺と諏訪先輩のやりとりを見て笑いながら、猫柳はシャワールームへ向かっていった。

 チラリと見えたカーテンの奥は簡単な脱衣所になっているようで、その先にシャワールームの扉があるようだ。

 俺と諏訪先輩とリルが残された生徒会室でソファーに体を預けていると、先輩がおもむろに口を開いた。

「大地」

「なんすか?」

「お茶」

 は?

「お茶」

「淹れたことないっす」

「いいから早く」

 有無を言わさないという雰囲気で、先輩はお茶を要求してきた。

「早く」

 俺は急かされ、しぶしぶ立ち上がって食器棚の方へ歩み寄る。

 勝手は分からないが、昼間に烏丸先輩が紅茶を入れるのを見ていたので何とかなりそうだ。まず食器棚から適当なカップを見繕い、水道は無いので電気ケトルには戸棚にあったミネラルウォーターの水を注いでスイッチを入れる。

 茶葉は、高価そうな紅茶の缶が何個も並んでいたので目に付いたやつを適当にチョイスする。

 お湯が沸くのを待つ傍ら、俺は先輩に気になっていたことを聞いてみることにした。

「なぁ先輩、あの鬼って結局なんだったんすか?」

 この鬼無里に居るはずのない、かつて滅びたはずの異能生物。

 霊官の猫柳も見たことがないと言っていたあの未知の鬼は、結局のところなぜ俺たちの前に現れたのだろうか?

「まだ分からないわ。叶に運ばせたけど、どうやら叶も見たこと無い鬼だったみたいだし」

 烏丸先輩も知らない鬼なのか。これはいよいよ訳がわからないな。

「そもそも鬼って種類があるものなんすか?」

「昔話にも赤鬼とか青鬼とかいるでしょ?」

 いや、そりゃいるけど。

 考えてみりゃ昔話の鬼だって、色によって何が違うのかサッパリだ。

「人間だって肌の色で区別したりするでしょ。それと一緒よ」

 じゃあ違いなんて無い様なもんじゃねぇか。若干体質が違うくらいだろう。

「なんか鬼って、人間みたいだな……」

 体のパーツなんかは人間と同じだし、体格と角の有無くらいしか見た目の違いなんて無い。

 昔話でも『人のフリをする鬼』というのは聞いたことあるが、そもそも鬼は人間に似ている異能ではないだろうか。

「……大地」

「なんすか?」

「遅い。お茶、早く」

「へいへい……」

 鬼の話もそこそこに、俺は湧き上がったお湯をケトルからティーポットに注ぐ。茶葉もまあ、適当に。

 紅茶なんてペットボトルのやつを買うか、せいぜいティーバッグにお湯を注ぐくらいしかやったことがない割には頑張った方だろう。

 出来上がった紅茶をソーサーに乗せて諏訪先輩の座るデスクに置くと、先輩は見るからに不機嫌そうになりながらもカップを持って一口啜った。

「まずい」

 そしてこの反応である。

 人が分からないながらも何とか淹れたというのに、コンチクショウ。

「何これ、紅茶一つマトモに淹れられないの?」

「だからやったことねぇっての! つーか紅茶なんてどう淹れたって大差ねぇだろ⁉」

 もう一つ用意しておいたカップに自分の分を注いで一口啜ってみるが、紅茶なんてこんなもんだろという感想しか出てこない。

「大差ないですって⁉ あなたは紅茶のことを何も分かってないのね‼」

 そんな口論をしていると、隠し通路の奥でガチャ、とドアが開くような音がした。猫柳がシャワーを終えたのだろう。

「猫柳出たみたいだし、俺もシャワー浴びさせてもらいますんで」

 無意味な口論を切り上げてソファーの上に置いておいた着替えを手にする。

「待ちなさい。あなたに紅茶の何たるかをじっくり六時間かけて教えてあげるわ!」

「朝になっちまうだろ!」

 紅茶の話をしたがる先輩を無視して猫柳が戻ってくるのを待っていると、部屋の中に電子音が鳴り響いた。

 どうやら音源は先輩のケータイらしく、ポケットの中から取り出して「ちょっと失礼」と画面を確認している。

「あら、八雲がエレベーターを使ったわ。目が覚めたのね」

「お、そりゃよかった!」

 どうやらエレベーターの使用は先輩のケータイに通知が行くようになっているらしい。

 しかし、東雲の目が覚めたのは喜ばしいことだが、この状況はあまりよろしくない。

 東雲がこの部屋に来れば、再びレディーファーストを強要されて俺のシャワーは後回しになってしまうだろう。

 そうなれば俺は先輩の紅茶の話を聞かなくてはならないかもしれない。

 どうやら先輩は紅茶マニアの様だし、マニアというのは自分の好きなものの話は永遠に語れるものだ。冗談抜きで六時間拘束されるかもしれない。

 俺は東雲が来ないうちにシャワーに入ってしまおうと、隠し通路のそばでこっそりと猫柳が出てくるのを待つ。

(っ⁉)

 通路に寄った途端、俺は目眩を起こした。

 カーテンの向こうから、この世のものとは思えないほどのいい匂いがしているのだ。

 これは恐らく、シャンプーの香料と猫柳の柑橘っぽい体臭が合わさったもの。普段は体臭の薄い猫柳だが、シャワーで温まったせいで発汗し、異能を使っていない素の俺でも分かるくらいにいい匂いがしてしまっている。

(これは、マズい‼)

 この距離でもこんなにはっきり匂いが分かるということは、シャワールームの中は恐らく匂いの洪水になっていることだろう。

 そんな中に放り込まれては、匂いに当てられてどうなってしまうか分からない。

 いっそシャワーの順番を東雲に譲ってしまおうかとも思ったが、アイツはアイツで甘ったるいいい匂いがする。問題の解決になっていない。

 人の匂いに興奮する様な変な癖は無いと思っていたが、これは自己認識を改める必要があるかもしれない。

 そんな風に俺が一人で勝手に戦慄していると、カーテンの奥でカシャーンと、何かが落下するような音がした。

 猫柳が何か落としたのかな、と考えるより先に、体が引っ張られる。

 完全な不意打ちで体を牽引する力に、俺は足をもつれさせた。

「ちょ、おい、リル⁉」

 俺を引っ張る張本人、リルは、一目散にカーテンの奥を目指す。

 シャワーから出たばかりの猫柳がいる脱衣所と、そこに向かって駆けるリル。引っ張られる俺。

 マズい。これはマズい。

 嫌なというか嬉しいというか、ともかく数秒後の俺がトラブルに巻き込まれる予感しかしない。

「まてまてまて‼ ステイ‼ リル、ステイ‼」

 慌ててリルを止めようとするが、遅かった。

 リルはカーテンの下を抜けて、脱衣所の中に入ってしまう。

「り、リルさん⁉」

 カーテンの奥で、驚愕する猫柳の声が聞こえた。

 俺はなんとか踏み止まったが、リルは脱衣所の奥の方に行ってしまったらしく、限界まで離れてもカーテンの目の前だ。

「お、大神君、そこに居るんですか?」

 猫柳がカーテンの向こうから戸惑ったように声を掛けてくる。

「す、すまん、猫柳! リルが急に走り出して……」

 マズい。非常にマズい!

 この薄い布一枚の向こうに、風呂上がりの猫柳が居るのが気配で分かる。先ほどより匂いも強烈に感じる。

 一刻も早くここを離れなければと、俺は必至に首を引き、リルを脱衣所から引っ張り出そうとする。

 それがいけなかった。

「ちょ、オイ⁉」

 大人しく引っ張られてくれるかと思ったが、リルは予想外の抵抗を見せた。

 意地でもここを動かないぞ、とでも言うように、逆に俺が引っ張られてしまう。

 バランスを崩した俺は咄嗟にカーテンを掴むが、留め具が俺の体重を支えきれずにカーテンが外れてしまった。

 俺はそのまま前傾に倒れ、仕切りが無くなった脱衣所に倒れこんでしまう。

 倒れた俺の眼前では、リルが床に散らばったビスケットのようなものを貪るように食べている。側には見覚えのあるケースも落ちているし、間違いなく先ほど猫柳がリルに与えていた異能のおやつだ。さっきの物音はこのケースが落ちた音で、衝撃で床に散らばったおやつを食べようとリルは走り出したのだろう。

 そしてわずかに視線を上げると、そこには当然猫柳がいた。

 猫柳はシャワーで温まったようで、白い肌がほんのりと桜色に染まっているのが見て取れる。

 下半身は、男の物と比べて遥かに布面積が少ない水色の下着一枚で、慎ましやかな双丘を有する上半身には何も纏っていない。バスマットに立つ足には靴下すら履いていない。

 倒れ込む俺の姿を目にした瞳に涙が溜まっていき、ポカンと開いた口がわなわなと震える。温まってわずかに赤みを帯びていて頰が、瞬時に真っ赤に染まった。

 そして、悲鳴。

「きゃあぁぁぁぁぁ⁉」

 猫柳は何も纏っていない胸元を両手で覆い、バッとこちらに背を向けた。

「うおぉ⁉ す、すま……⁉」

 俺は慌てて立ち上がり、目を瞑って生徒会室に戻ろうとした。

 しかし、視界に捉えた猫柳の背中に、閉じかけていた目を見開いた。

 謝罪の言葉は途中で止まり、開いた口を閉じることが出来ない。

 あまりの衝撃に目を逸らすことができず、『それ』を凝視してしまう。

「……⁉」

 猫柳はハッとした表情で、再びこちらに向き直った。

 本来なら隠すべき胸元をこちらに向け、それ以上に背中を隠すように後ずさってシャワールームのドアに背を押し付ける。

「ね、こやなぎ……?」

 呆然と口から出た呟きに、猫柳は俺に『それ』を見られたことを悟ったのだろう。

 瞳から一筋の涙を流し、嗚咽を漏らさないために手で口を覆った。

 そんな猫柳の様子を見ながらも、俺は先ほどの猫柳の背中が目に焼き付いて離れなかった。

 白い肌は所々が赤く変色し、至る所に直径一センチほどの丸い跡があった。


 猫柳の小さな背中は、おびただしい数の『傷痕』で溢れかえっていた。



 ・・・


 ほぼ全裸の猫柳と、驚愕に硬直する俺の間に流れる地獄のような空気。

 己の裸身以上に猫柳が隠したかったはずの傷だらけの背中を事故とはいえ見てしまったことに、俺は何を言えばいいのか分からなかった。

 猫柳も俺に背中を見られた衝撃が抜けきらない様子で、瞳からはポタポタと涙を流し、手で覆った口からは僅かに嗚咽が漏れているのが聞こえた。

 そんな沈黙は、俺の頰に走る痛みと衝撃、それに伴う鈍い音で打ち破られた。

「ぐっ⁉」

 俺は左肩を掴まれ、後方に引かれ、そのまま左頬を殴られた。

 俺を殴った女、東雲八雲はその瞳を深い憎悪に染め、拳を振り抜いた姿で俺を鋭く睨みつけていた。

 生徒会室に入ってきたばかりであろう東雲は、床に落ちていたカーテンを拾い、素早く猫柳の肩に掛けてその体を覆い隠す。

 そして再び俺の前に立ち、低い声でこう言った。

「……覗き? いくら何でも、趣味悪いんじゃない?」

 普段の東雲からは想像もつかない、寒気を感じるほどの怒気を孕んだ声で東雲は俺に敵意を向けてきた。

「東雲、俺は……⁉」

 弁解の言葉を口にするより早く、俺の首に東雲の『糸』が巻きつけられ、一瞬で気道を圧迫される。

「言い訳してんじゃねえよ‼ ネコメちゃんに……なにしやがる‼」

 激昂する東雲は左手の袖から伸びる糸をギリギリと引き絞り、俺の首を絞め上げる。

「……っが⁉ あ……!」

 絞られる糸に呼吸が出来ず、視界が白んで意識を手放しそうになる。

「っ‼」

 追い打ちとばかりに右手を掌底の形に構え、俺の頬を殴打する。

「っの‼ こんのぉ‼」

 二度、三度、俺の首を絞め上げながら歯を食いしばり、東雲は幾度となく俺を殴りつけた。

「助けてもらったクセに! この子はあんたを助けたのに‼」

 恨み言を口にしながら東雲は右手の袖に指を入れ、抜いたときには五指の間に無数の糸が備えられていた。

「死ね、この恩知らず‼」

 酸欠で朦朧とする意識の中で口内に血の味を感じながら、無数の糸を構えた東雲の手が俺の眼前に迫る。

 その手を、猫柳が止めた。

「ね、ネコメちゃ……」

 動きを止めた東雲をグイっと押しのけ、猫柳は俺の首に回された糸を引っ張り、手に握った銀の爪でそれを切断した。

「がはっ……! はあ、はあ……」

 流れ込んでくる新鮮な空気に喘ぎ、俺は荒い呼吸を繰り返す。

「何で止めるの? コイツは……!」

「やり過ぎです、八雲ちゃん」

 猫柳はカーテンで体を覆い隠しながらふるふると首を振る。

 その様子を見て東雲は怒気を収め、構えていた手から力を抜いた。切断されて垂れ下がっていた糸を袖の中に仕舞い、俺に向かって呟くように小さく「ごめん、やりすぎた」と謝った。

 俺は呼吸を整えながら「いや……」とぎこちなく返事をする。

「ね、猫柳、その……」

 背中の傷を見てしまったことについて、俺は何を言えばいいのか分からなかった。

 俺がその傷を見てしまったことに、猫柳が隠したかった秘密を暴いたことに、東雲は激怒したのだ。

 友達を思って感情を爆発させた東雲のことを、殺されそうになりながらも俺は、責め立てようなどとは微塵も思わなかった。

 悪いのは、俺だ。

 事故の一言で片付けることなどできない。

 リルのせいになど、する気もない。

 全ては結果だ。

 猫柳の、女の子の身体の傷。

 それに、俺の直感が正しければ、あの傷は普通の傷じゃない。

(やめろ……)

 もし異能との戦いの中で負った傷なら、背中にだけ傷があるのはおかしい。

(考えるな……)

 例えば、無抵抗で蹲り、

(これ以上考えるな……)

 その背中を容赦なく痛めつけられなければ、あんな傷つき方はしない。

(もう考えるのをやめろ……)

 赤く変色した肌は、その部分だけを高温で爛れさせらたようで、

(それはあり得ない……)

 それに、あの丸い傷は、同じものを見たことがある気がする。

(そんな訳ない……)

 町でケンカに明け暮れていた時、ああいう傷をまるで勲章のように誇示する者がいた。

(そんな傷を負う訳がない……)

 タバコの火を押し付け、その火種を燃やした傷痕に酷似していた。

(これ以上、暴くな……‼)

 俺の脳裏に、あってはいけない光景が浮かんだ。

 蹲り、両手で頭を守る猫柳。

 無抵抗の猫柳の背に、熱湯を浴びせ肌を焼き、タバコを押し付け丸い痕をつける。

 そんな、あってはならない光景が浮かんだ。

「忘れて」

 俺の思い描いた地獄絵図を掻き消す東雲の声に、ハッと息をのむ。

「全部忘れて。なにも見なかったことにして」

「し、東雲……おれは、」

「黙って。これ以上ネコメちゃんを……」

 余計なことを口走れば、猫柳が止めても容赦はしない、そういった覚悟が伺える東雲の言葉を止めたのは、猫柳当人だった。

「八雲ちゃん」

 猫柳は体を覆うカーテンをぎゅっと握った。

 その下にある、傷を包むように。

「自分で、話します」

 猫柳の言葉を聞き、東雲は激しく狼狽した。

「な、何言ってるの⁉ そんな簡単に‼」

「八雲ちゃん」

 猫柳の語を掴んで語気を強める東雲に、猫柳はゆっくりと首を振って応えた。

「大神君なら、きっと大丈夫ですよ」

 静かにそう告げる猫柳に、東雲は諦めたように体の力を緩めた。

「……猫柳」

 気の利いた言葉なんて言えない俺に、猫柳は薄い笑みを向けてきた。

 諦めたような、物悲しい微笑みを。

「大神君、シャワーを浴びてきてください」

 握ったカーテンに力を込め、猫柳はそういった。

「そうしたら全部、お話ししますから」

 動揺し呆気にとられる俺の気持ちも知らず、脱衣所の隅でおやつを食べ尽くしたリルが欠伸をした。


 ・・・


 その後のことは、正直よく覚えていない。

 何も考えず熱いシャワーを浴び、嫌がるリルも無理やり洗ってやる。

 シャワーを終え、ティーシャツとハーフパンツに着替えて生徒会室に戻ると、そこには静かに瞑目する諏訪先輩と物言いたげな顔の東雲だけがいた。

 渋々といった様子の東雲に促され、俺は生徒会室の隣にあるという生徒会役員用の私室、諏訪先輩の部屋のドアを開いた。

 部屋に一歩足を踏み入れると、淹れたての紅茶の香りに出迎えられた。

「すまん、待たせた」

「いいえ」

 部屋には電気が点いておらず、猫柳は暗い部屋の窓際に置かれた椅子に座って俺を待っていた。手にはソーサーとカップを持っており、中には琥珀色の液体が満たされている。

 諏訪先輩の部屋は寮の部屋と違い寝具の類は無く、簡素なデスクと湯沸かし用の電気ケトル、巨大な棚に並ぶ大量のティーセットと生徒会室にあったものとは桁違いに多い種類の紅茶の缶が置いてある。ケトルには使用された形跡がないので、どうやら紅茶は諏訪先輩が生徒会室で淹れてきてくれたものだろう。

 デスクの上にはもう一杯、俺の分と思われる紅茶があったので、カップを手に取り一口啜ってみる。

(……美味い)

 その紅茶は先ほど俺が淹れたものより遥かに香りが強く、舌の上にはほのかな甘味さえ感じさせた。紅茶とはここまで味が違うものなのかと、先ほどの自分の失言を恥じる。

 猫柳は部屋着と思しき薄手のセーターとハーフパンツ姿で、デスクから移動させた椅子に腰かけていた。

 月明りに照らされたその横顔は酷く儚げで、そして同時にとても神秘的でもあった。

 異能を使っていないというのに、その姿はまるで妖精だ。

「……となり、いいか?」

「どうぞ」

 シャワーが不快だったようで不機嫌そうに眠ってしまったリルを膝の上に乗せ、カーペットの敷かれた床に胡坐をかく。

「…………」

「…………」

 二人の間に沈黙が流れ、何かを言おうと口を開くたびに、猫柳は躊躇うように口を閉ざした。

「……なあ、無理に」

「大丈夫。大丈夫、です……」

 無理に言わなくても、と言いかけた言葉を遮られた。

 猫柳は一度深呼吸し、両手で包むように持っていたカップを傾けて紅茶を一口啜る。

「……何から、話しましょうか」

「何からでも。猫柳の話易いところからでいい」

 話さなくてもいい。そう言ってやりたかった。

 どう考えても、風呂上がりの楽しい会談になる気がしなかったからだ。

「……私の背中の傷は、母に付けられたものです」

「‼」

 戦いの中で負った傷でないことはある程度は予想できていたこととはいえ、いざ口にされてみるとそれは途轍もない衝撃だった。

 母親が、自分の娘にあんな傷をつける。

 一体どんな理由があれば、そんなことをするんだ?

「……父の顔は知りません。何でも、どこかのお金持ちだったらしくて、母はその人の……愛人、だったらしいです」

 金持ちの愛人、ドラマや映画なんかでは時折描かれるものだが、実在するものだとは思わなかった。俺としては異能なんかよりよっぽどフィクションの中の存在だ。

「母はその人と縁を切るときに、多額のお金を受け取ったらしくて、そのお金でお酒を飲んだり、賭け事をするのに出かけていました」

 だから、親子らしい会話や交流はほとんど無かった。猫柳はそう言って紅茶を一口啜る。

「どうやら私が生まれたこと自体、社会的には無かったことになっていたらしくて、私には戸籍もありませんでした」

 出生届すらも提出されていなかったってことだ。

 猫柳瞳という人間は、この世に生まれてすらいなかった。

「……子どもが居ると、何かと都合が悪かったみたいで、当時住んでいたアパートに男の人が来るときは、冬でもベランダに出て過ごしていました。そして母は、機嫌が悪くなると、よく私のことを叩きました」

 叩いた、という次元の話ではないことは、背中の傷を見れば明白だ。

 人は叩かれたくらいで、あんな傷つき方をしない。

 しかし、猫柳があえてボカしたところをほじくり返すような真似はしない。俺はそのまま猫柳の言葉を聞く。

「服も食事も、満足に与えられたことはありません。母の食べ残しを食べたり、たまに缶詰を貰ったりはしました。猫のご飯のやつですけど」

 ちょっと皮肉ですよね、そう言って猫柳は薄い笑みを浮かべた。

「…………」

 悪いが、全く笑えない。微塵も冗談になっていない。

 俺は改めて、猫柳の体に目を向ける。

 小柄で痩せていて、強く握れば折れてしまいそうにか細い体。

 幼少期に満足な食事を与えられなかったから、彼女はこんなに小さいのかもしれない。

「それでも、何日も母が帰ってこない日が続いて、外にも出られなかった私は倒れてしまいました。窓を開けて助けを呼ぼうともしたけど、声も出なくて、そもそも当時の私は言葉も満足に喋れませんでした」

「こ、言葉も……」

 普通読みか書きが出来なくても、会話は出来るものだ。教育を受けられない貧困の国でも、喋ることは出来る。

 それは赤ん坊の頃から、耳で言葉を聞くから。

 その言葉の意味を徐々に理解し、同じように発声する。

 しかしそれも出来なかったということは、本当に猫柳の母親は、猫柳に何も言わなかったんだ。

 親子の触れ合いどころか会話も無い生活。

 アパートの一室という狭い空間が、世界の全てだった幼少期の猫柳。

 それは一体、どんな地獄だ?

「お腹が空いたっていう感覚も希薄になって、死んじゃうのかな、って、死ぬことの意味もよく分からないまま、漠然とそんな風に思いました。……そんなとき、私は猫と混ざったんです」

 猫とは、猫柳の異能、ケット・シーのことだろう。

 猫の柔軟な身体能力と、動物に類するモノへの命令権を持つ異能。

「唐突に異能と混じった私の周りには、近所の野良猫が集まってきました。ケット・シーは猫の王様で、野良猫たちは私を助けようとしてくれたんです。どこからか食べるものを運んで来てくれて、私は生き永らえました」

 自分たちの王である猫柳を助けるために、アパートの一室にどこからともなく食べ物を運ぶ野良猫たち。それは何とも、異常な光景だな。

 猫柳は、異能に生かされたんだ。

「その様子が異能による現象だと調査されて、私は霊官に保護されました。五年前のことになります」

「ご、五年前⁉」

 ほんの五年、たった五年だって?

 つまり猫柳は、生まれてから約十年間もの長い間、そんな生活を送っていたってことか?

 それから五年で猫柳は読み書きや言葉を覚え、霊官の資格まで取ったということになる。

 きっとそれは、途轍もない努力だ。

 猫柳がどこか世間知らずだったことも、これで納得がいった。たった五年前まで外界とは隔絶された生活をしていたのだから当然のことだ。

「保護されたときに、『猫』の異能と『瞳』に強く特徴が出たこと、それと保護の際に立ち会って、私の後継人になってくれた人の名前から一文字取って、『猫柳瞳』という名前を貰いました」

「名前を、貰った?」

「……母は、名前を付けてくれなかったんです。私を呼ぶときは、『おい』とか『ねえ』で事足りていましたし」

「…………」

 猫柳の告白に、俺はさすがに眩暈を起こしそうになった。

 生まれて十年間、名前すら無かった猫柳。

 空腹で衰弱するほど放置されるってことは、一日や二日の話じゃない。もっと何週間も、猫柳の母親は家に戻らなかったってことだ。

 自分の娘が死のうが、どうでもいいと思っている人間だったってことなのか。

「それから私は、その人に言葉や文字を教わって、学校にも通わせてもらいました。二年前には霊官の資格も取って、いずれはあの人の元で働こうと思っています」

 そう言う猫柳の顔は、少しだけ誇らしそうなものだった。

 きっと自分を助けてくれたその人に恩を感じ、心から尊敬しているのだろう。

 多分俺にとっての猫柳や東雲が、猫柳にとってのその人なんだ。

「……俺は」

 自分の過去を語り終えた猫柳に、俺はポツリと言葉を漏らす。

 言ったって大した意味のない、ただの独白を。

「調べて知ってるとは思うけど、俺の両親は離婚してて、父親とは上手くいってなかった。だから俺は、自分より不幸な目に遭ってるやつなんて、そうそう居ないと思っていた」

 でもそれは違う。少し考えれば分かることだ。

 ニュースなんかでも、連日のように報道を目にする。

 虐待やネグレクトなんかで、命を落とす幼い子供。

 それに比べて俺は、衣食住に困らず、ケンカばかりとはいえオヤジとも多少の会話はあった。学校に行けだの口うるさかったが、それでもオヤジは俺を養ってくれていた。

 チンピラになったことなんて、俺の自己責任。俺なんて、微塵も不幸じゃなかったんだ。

「…………同情しますか?」

 フッと小さく笑い、猫柳はそう言った。

 自分の過去を知って、憐れに思うかと。

「……違う。そんな安っぽい感情じゃない」

 俺なんかの心持で、猫柳に同情なんてできるはずがない。

 今俺が思うのは、猫柳の過去を憐れむことでも、自分の過去と比べることでもない。

 つらい過去を経験した猫柳に思うのは、もっと先、未来に向けてのことだ。

「俺は……俺はお前と……その、仲良くなりたいと思った!」

「え?」

 俺の反応が予想外だったのか、猫柳はキョトンと目を見開く。

「辛いことがあったってのは分かった。でも、今のお前の周りには東雲みたいに明るいバカとか、諏訪先輩みたいに頼れそうな人とかもいるだろ」

 特に東雲は、猫柳の過去を知っていたのだろう。

 それを事故とはいえ暴いてしまった俺に、激しい怒りをぶつけてきた。

 アイツは、友達思いのいいやつだ。

 そんな東雲という友達を持つ猫柳は、今は不幸なんかじゃない。俺はそう思う。

「だから俺も、お前にとってそういう感じになれたらいいなって、えっと、上手く言えねえんだけど……」

 辛いことがあった猫柳には、これからを明るく過ごしてほしい。

 霊官という危険な仕事についていても、それ以外のときには楽しくいてほしい。

 俺も不幸だ、お前も不幸だなんて下らない比較をするのではなく。

 暗い過去より、明るい未来を思ってほしい。

 そんな未来の一員に、俺もなりたいと思った。

「ネコメって呼んでください」

「え?」

 感情を上手く言葉にできないでいる俺に、猫柳はそう言って椅子から立ち上がった。

「ネコメ、猫の瞳で、ネコメ。八雲ちゃんがつけてくれたニックネームです」

 猫柳という苗字ではなく、ニックネームで呼べと。

 それが、『仲良し』の第一歩とでもいうように、猫柳は微笑んだ。

 先ほどまでの寂しいモノとは違う、どこか暖かな微笑みを。

「お世話役とか、お目付け役じゃなくて……」

 すっかり冷めてしまった紅茶の琥珀色の水面に一度視線を落とし、そっと顔を上げる猫柳。

「『お友達』に、なってくれますか、だ、大地君……」

 不器用に、ぎこちなく手を差し伸べる猫柳、いや、ネコメは、気恥ずかしそうだ。

 俺は差し出されたネコメの手を握り返し、何とか笑ってみせた。

「よろしく、ネコメ」

 上手く笑えている自信なんてない。

 怖気のする過去を知って、すぐに飲み込むことなんてできない。

 でも、それでも。

 俺たちはこの時、なし崩しの世話係の関係から、『友達』に、なった。


エライ長くなってしまいました。


本当に区切りが下手です。

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