夏休み編15 奮戦
想定外。予想外。計算違い。誤算。イレギュラー。
どれだけ言葉を並べても、現状を正しく表現するには到底足らないと諏訪彩芽は歯噛みした。
「こんのぉ‼︎」
彩芽の最も得意とする異能術、力場操作。有視界内の力の向きを自在に変換して操作する、超高等異能術である。
今彩芽が使ったのは、視界内の一定の空間に球体型の力場の膜を作り、膜の内側から外側に向けて力場を花火のように広げ、外側からは拮抗するだけの力を球体に掛けるというもの。
任意のタイミングで拮抗を崩し、膜を破って力を解放すれば、その威力は目に見えない爆弾となる。
三発、四発と同時に力場の爆弾を作り、相手の足元で爆散させると、相手はその態勢を大きく崩して膝をつく。
「八雲‼︎」
名前を呼ばれ、応えるように八雲は口から大量の糸を吐き出した。
強い粘着性と強度を兼ね備えたそれを、態勢を崩した相手の背中に吐き付け、即座に離れる。
「ぶっ飛べっ‼︎」
八雲が離脱したことを確認すると、彩芽は相手の周囲に強力な力場を形成した。
先程の爆弾のような膜を作らなかった力そのものの奔流は、相手の体をコンクリートの壁に叩きつける。
背中の糸の粘着力により、その相手はコンクリートの壁に貼り付けられた。
「ましろ、大丈夫⁉︎」
彩芽は広い地下施設の隅でうずくまる水着姿のましろに呼びかける。
「ごめん、ちょっと、キツい……」
床に手をついて応えたましろの足元に、極厚の氷がバラバラと落ちる。今の異能の応酬の一瞬前に攻撃を防ぐために形成した氷の盾だったが、相手の蹴りのあまりの威力に文字通り薄氷程度の効果しかなかった。
「少し休んで‼︎ すぐに来るわよ‼︎」
ましろの負傷を案じながら、彩芽はコンクリートから逃れようともがく相手を見据える。
ピンと立った耳に、鋭い爪に獰猛な牙。肥大した筋肉によって上半身に纏っていたワイシャツは破れ、スラックスもパンパンに張っている。
そして、人のものとは似ても似つかない狼の顔。肌着の黒いタンクトップから覗く肌は、その全てが黒い体毛に覆われている。
二足歩行の狼。伝承にあるウェアウルフそのものの姿になったこの相手こそ、異能を暴走させた大神大地である。
(なんで……なんで止まらないのよ⁉︎)
今の大地の暴走は、彩芽が意図的に生み出した状態である。
成長したリルの異能に適応するため、一度暴走させてからコントロールを万全のものにする。
それは決して、難しいことではなかった。
大地自身の成長とリルとの関係性を鑑みるに、暴走は即時収束、ともすれば暴走自体が起こらない可能性もあると、彩芽は目論んでいた。
しかし、蓋を開けてみればそれは大きな間違いだった。
全くの制御不能、完全な暴走に加え、今まで予兆も無かった肉体の変質まで起こってしまった。
ましろと八雲という戦力は、こうなる可能性もほんの僅かに考慮していたための万全の布陣。大地が制御に手間取ったときに抑えておくためのものだった。
しかし今や、彩芽を含めて三人がジリ貧。一手でも選択を誤れば致命的な穴になりかねないほどにギリギリの戦いになっていた。
「ああ、また⁉︎」
八雲の悲痛な叫びが響き、大地の体が炎に覆われる。
「なんなのよもう⁉︎」
これが彩芽にとっての最大のイレギュラー。
暴走した大地は、炎を操っていた。
大地の体とコンクリートの壁を繋いでいた糸が溶け、再び大地は自由の身になる。
「どうしよかいちょー、これじゃあ……」
自分の異能が完全に無効化され、八雲は沈痛な面持ちですがるように彩芽を見る。
八雲の操る蜘蛛の糸は強力な異能。銃弾を通さない強度と、同じ太さのワイヤーを超える張力を兼ね備えた汎用性の高い異能である。
しかし、唯一無二の弱点が火に弱いこと。
脂質とタンパク質でできている蜘蛛の糸は、墜落するジェット機を受け止めることはできても、ライターの火に耐えることさえできない。
加えて、冷気を操るましろにとっても火は最も相性の悪い異能だった。
密室と言える地下施設内では、空調を調節して大量の加湿器を使えばサウナ並みの湿度を保つこともできる。これはましろが最も異能のポテンシャルを発揮できる環境だが、火はその全てを台無しにする。
そもそも温度というのは常温以上に上げるよりも常温以下に下げる方が難易度が高く、また一度上がった温度を再び下げるには倍の労力がいる。
熱を溜め込む性質を持つコンクリートに囲まれた地下施設の温度は、彩芽の体感ですでに五十度を超えていた。
この環境下ではいくらましろの異能でも、冷気を操って氷を形成したところで、すぐに溶け始めて脆くなってしまう。
八雲とましろ、万全にと思って采配した布陣が、ことごとく弱体化させられている。
(有り得ない……。フェンリルが火を使うなんて、聞いたことない……‼︎)
フェンリルという神狼は、強く巨大な狼。ただそれだけのはずである。
決して火を吹いたり、炎を操ったりする異能ではない。
ウェアウルフにも火を使うという伝承は無く、したがって大地が火を使うという現状は最初から考慮に入る余地のないものだった。
しかし、暴走が始まって間もなく大地は炎を操り始めた。
そんなわけあるか。最初っからやり直させろ。
ちゃぶ台をひっくり返すように喚き散らしたい衝動に駆られながらも、彩芽は思考を巡らせて常に最善手を編み出し続けた。
そうしなければ、死人が出る。
自分が一手間違えば、ましろと八雲が死ぬ。
自分の采配のせいで目の前で人を死なせるなど、絶対にあってはならない。
強迫観念にも似た焦りが、彩芽の集中力を極限まで高めていた。
(落ち着け……考えろ……)
暴れ回る大地を力場の壁に閉じ込めながら、彩芽は現状を打破する逆転手を考える。
救援を呼ぶという手段は、早い段階で排除していた。
この地下室はコンクリートに囲まれていて、ケータイの電波は届かない。
誰か一人をここから派遣して助けを呼ぶことも考えたが、三対一でギリギリの均衡を保っている状態では悪手以外の何物でもない。
(ウェアウルフやフェンリルが火を使う可能性があるとすれば、使えるように誰かが介入している?)
巡る思考は、大地を閉じ込めていた力場の壁の崩壊と共に中断される。
「大人しく、して‼︎」
僅かな休息時間の間に再び冷気を纏ったましろが空気中の水分から氷の蔦を形成し、大地の体を縛ろうと伸ばす。
捕らえたと思ったのも束の間、氷の蔦は炎ではなく、純粋な腕力のみで砕かれる。
「ましろ⁉︎」
熱に弱いましろの体力は、すでに限界に近かった。
赤い目を細めながら大地に対して接近戦を演じる八雲も、明らかに糸を節約しようとしている。
異能は無限に使えるわけではない。
糸を吐くなら体内に元になる成分が必要だし、体力が底を尽きれば身体能力さえ維持できない。
高等であるが故に燃費の悪い力場操作を使う彩芽にとっても例外ではなく、今のコンディションは万全時の二割程度。
紅蓮の炎と、それに伴う灼熱の熱波。
サウナのロウリュのように汗が吹き出し、脱水症状が始まったのか視界が霞む。
(フェンリル……火……まさかっ⁉︎)
陽炎揺らめく地下施設に、悪魔の体現のような獣人の猛襲。
限界の時は、確実に近づいていた。




