夏休み編13 白い世界
途切れていた意識がゆっくりと形を成す。
地下施設にいたのがついさっきのことなのか、遠い過去のことなのかも曖昧な、虚無の意識。
海の底から水面に浮上するように意識が、一拍遅れて全身の感覚が確かなものになる。
どうやら自分は手足を投げ出して地面に寝転んでいるようで、肌に触れる地面の感触は温かくも冷たくもない。コンクリートの床とは違う質感だ。
「俺は……確か……」
感覚の戻った手足を確認する。
手も動く。足も動く。頭は、微妙に働いていない。
確か俺は今日、補習を受けてから鎌倉たちに連れられて暗部の闇市へ行って、それから生徒会室で仕事をして、それから……。
「やっと会えたね、マイボーイ」
ぼんやりと靄がかかった頭を整理していると、そんな声をかけられて思考が中断される。
「はあ?」
パッと目を開くと、大の字になって寝転ぶ俺の顔を覗き込む、見慣れた顔と目が合った。
「お、オヤジ……?」
ニンマリと笑う灰色のスーツ姿の男は、俺の父親である大神進一郎だ。
「オヤジ、何して……。いや、つーかここどこだ?」
体を起こして辺りを見渡すと、広い。
ただただ広く、ただただ白い世界が、そこには広がっていた。
空か天井かも分からない頭上は吸い込まれそうな高い白で、寝転んでいた地面も白い。
先が見通せないほど遠くまで空と地面の白が続いており、それ以外には何もない。
「俺、なんでこんなところに? オヤジ、ここどこ……⁉︎」
ゆっくりと体を起こすと、その違和感に気付く。
目の前のオヤジからは、異様な臭いが漂ってきていた。
嗅いだことのある臭いのような気もするし、初めて嗅ぐ匂いのような気もする。これ以上なく安心できる香りのようでもあり、鼻を摘みたくなる激臭にも感じる。
異臭などという言葉では説明できない、鳥肌の立つような違和感の塊の臭いだ。
当然、以前病院で覚えたオヤジの匂いとは違う。
「お、お前、誰だ……⁉︎」
異臭の発生源、目の前のオヤジの顔をした何かは、俺の問い掛けにわざとらしく首を傾げてみせた。
「誰って、パパンだよ。今自分でそう言ったじゃないか、マイボーイ?」
「オヤジはそんな喋り方しねえよ‼︎」
地面を蹴って距離を取り、腰に手を回す。が、手は何もない空を切っただけだ。
(異能具が……って、はあ⁉︎)
そう、手は何もない空を切った。
そこでようやく俺は、自分が一矢纏わぬ姿、すなわち全裸であることに気が付いた。
「な、なんだこれ⁉︎」
おかしい。いくらなんでもこれはおかしい。
異能具を持ってないだけならともかく、こんな何もない空間に全裸で寝っ転がっているとか、どう考えてもおかしい。
「ゆ、夢か……?」
自分の置かれたあまりにも現実離れした状況に頭の正気を疑い始める。
一応頬をつねってみるが、わずかに痛いだけで何も変わらない。そもそも頬をつねって夢から覚めるなんて誰が言ったのか。効果の程は疑わしい民間療法だ。
「当たらずとも遠からず、かな。確かにここは現実じゃないよ、マイボーイ」
「その変な呼び方やめろ‼︎ なんだよこれ⁉︎ 誰なんだよテメェ⁉︎ どこなんだよここは⁉︎」
全力の警戒心を剥き出しにしながら、オヤジの姿をした何かに食ってかかる。
「質問ばかりだね、マイボーイ」
俺が何かしらの理由で気を失っている間に、このオヤジの格好をした誰かに拉致監禁された。そう考えるしかないこの状況だが、今一つ解せない。
何しろ目の前のこの男からは、異能者の気配が一切しないからだ。
異能者を知覚するのは異能者の基本のようなもので、混ざったばかりでまだ異能者の自覚がないトシを目の前にしたときでさえ、俺にはトシが異能混じりであることが分かった。
異能者特有の気配、異能の気とでもいうようなものが、この男からは感じられない。
この真っ白な状況はどう考えても異能の産物だと思うのだが、その当事者と思しき男から異能を感じないのはどういうわけだ?
「誰だ、なら君のパパン。どこだ、ならここは君たちの中。なんだこれ、なら……ふむ、何と言うべきかな?」
先程の質問に順繰りに答え、男は最後に首を傾げた。聞きたいのはこっちだってのに、俺に聞くんじゃねえよ。
「お前からはオヤジの匂いがしねえし、俺たちの中ってどういうことだよ⁉︎」
「そんな捲し立てないで、ゆっくり話そうじゃないか。私にとっても今君たちに会えたのは嬉しい誤算なんだ。予定では、もっとずっと先になると思っていたからね」
芝居がかった仕草で両手を広げ、男はゆっくりと椅子を引いた。
「ッ⁉︎」
椅子。椅子だ。
今の今まで何も無かったはずの空間に、突如豪奢な装飾の施されたアンティーク調の椅子が二脚と、セットものと思しき同様の意匠の丸いテーブルが現れた。
「お前の、異能か?」
何も無いところから椅子やテーブルを出す。そんな規格外の異能があるとは思えないが、目の前の現象は異能以外で説明できない。
「違うよ。ここではイメージが全てだ。この世界に何も無いのは、君が何もイメージしていないからだよ、マイボーイ」
「幻覚の類か? 一日に二度も食らうとは思わなかったぜ……」
「少しは話を聞きたまえよ‼︎」
眼前の男への警戒を解かないまま、俺はこの謎の空間から抜け出す術を考える。
(幻覚系の異能術を食らったときは……)
学校の授業で教わった幻覚の解き方は、まず自分が幻覚の中にいることを強く確信すること。これ幻覚じゃね? といった程度の疑いでは効果がない。
次に幻覚の象徴、違和感の元を目視して、幻覚を食らう以前との比較を持つ。
とりあえず急に現れた椅子とテーブルを見て違和感を捉えようとするが、どうにも俺はまだ頭がはっきりしていない。
幻覚を食らう以前の状態が知覚できないのでは、この方法で幻覚から抜けることはできない。
「筋は悪くないが、そもそもこれは幻覚ではないんだ。抜け出すことなんてできないよ」
肩をすくめながら諭すような言い方をされ、俺は歯噛みする。
「ここではイメージが全てだと言ったろう? まずは普段の自分の衣服をイメージしたまえ。その姿ではまともに話もできない」
「格好なんざ今はどうだって……!」
「やってごらん?」
「…………」
有無を言わさない男の言動に、俺は戸惑いながらも従ってしまう。
自分の今の格好を確認し、普段の自分の衣服、とりあえず異能専科の夏服を着ている自分をイメージする。すると、
「っ⁉︎」
普段の服装をイメージしただけなのに、俺は全裸から半袖のワイシャツとスラックスという格好に着替えていた。
まばたきもしていない一瞬のうちに。
「なんだよ、これ……?」
触って確かめてみるが、これは着慣れた俺の制服だ。
スラックスのシワや襟のヨレ具合まで、間違いなく自分の物だと断言できる。
「他には?」
「え?」
「まだ普段の君ではないだろう? その姿が本当に、いつもの君かい、マイボーイ?」
「いつもの、俺……⁉︎」
言われて気付き、ハッと首に触れる。
そこには、いつもあるはずのものが無かった。
そして、いつも傍にいる相棒の姿も。
「リル……? おいどこだ、リル⁉︎」
リルがいない。
いつも俺のそばにいるはずのリルの姿が見えない。
その現状以上に俺を困惑させたのは、リルがいないことに今の今まで気付かなかったということだ。
リルと俺は繋がっていて、片時も離れることはできない。
にもかかわらず、俺はグレイプニールが無いことを意識するまでリルの存在そのものを失念していた。
頭がハッキリしていないとはいえ、どんな冗談だ。
『ダイチ』
「リルッ‼︎」
そして、リルの存在を意識した瞬間、足元にリルが現れた。
「お前、どこいってたんだよ⁉︎」
『分からない。気付いたら、ここにいた……』
慌てて抱え上げると、いつものリルだ。
もふもふの灰色がかった毛並みとあどけない面立ち。最近少し重くなってきて、顔もほんのちょっとだけ凛々しくなってきたような気がする。
「うんうん。それがきっと、いつもの君たちだね」
男は満足そうに笑みを浮かべ、先程現れた椅子の片方に腰掛けた。
そっと首に触れると、そこには当たり前のようにグレイプニールがある。
『ダイチ、アイツは……』
「分からない。俺も気付いたらここにいて、目の前にアイツが……」
『あの人、パパだ』
「は?」
『パパだ。間違いないよ』
パパとは、父親のことか?
アイツが、リルの父親?
「パパって、何言ってんだ⁉︎」
戸惑ったように瞳を震わせ、喜ぶように尻尾を揺らすリル。
そんなリルの様子にスッと目を細め、男は椅子を手で示した。
「これで揃った。座りたまえよマイボーイ。ゆっくり話そうじゃないか」




