編入編 プロローグ
晩春の夜、街灯の少ない地方都市の県道を原付のスクーターで走る。
やり場のない憤りを発散するようにアクセルを捻り、速く流れる景色に煮えくり返るような怒りを置き去りにしようとする。
(チクショウ……)
目の前の信号が赤に変わり、スクーターを停車させると同時に置き去りにしようとしていた感情が戻ってくる。
(たった三日なのに、またクビになった……)
三日前に始めたばかりのコンビニのバイト、たかがコンビニと侮っていた。
客が来たらレジを打つだけの簡単な仕事かと思っていたら、弁当を並べたりチキンを上げたり、とにかく思った以上にやることが多かった。
慣れない業務に辟易していたところで理不尽なクレームに遭い、つい客を怒鳴りつけてしまった。
すぐさま俺はクビになり、こうして予定より何時間も早く帰路についている。
理不尽な客への怒り、自分の話をまともに聞こうともせずクビにした店長への怒り、そして、バイトの一つもまともにこなせない不甲斐ない自分への怒り。
せめて少しでもこの怒りを忘れられるようにとスピードを上げる。
俺は大神大地、無職の十六歳だ。
・・・
遠くのコンビニをバイト先に選ぶ訳もなく、憂さ晴らしのツーリングもほどほどに俺は帰宅した。今後はあの店を利用できないな、と思いながらスクーターのスピードを落とす。
二階建ての家屋に車二台分の駐車場、この辺りでは珍しくもないごく普通の一戸建てが俺の家だ。
駐車場に停まっている乗用車の横にスクーターを停め、鍵を抜いてヘルメットを外す。
玄関のドアを無言で開き、リビングを通らず二階の自室に上がろうとする、と、
「大地、帰ったのか」
リビングから俺を呼び止める声が聞こえた。
無視して階段を登ろうと思ったが、リビングと廊下を繋ぐドアが開かれ、長身の中年男性が現れる。
「……何の用だよ、オヤジ」
俺の父親、大神進一郎。市内にある大手企業の支社に勤める会社員だ。
「今日は十時までバイトじゃなかったのか?」
「……辞めた」
「クビになった、の間違いじゃないだろうな?」
「…………」
俺の沈黙を肯定と取ったらしく、進一郎はわざとらしく溜め息をつく。
「今度はたったの三日か……最短記録更新じゃないのか?」
「うるせぇな! 関係無えだろテメェには‼」
「関係無い訳がない。学校にも行かず、満足に自分の生活費すら稼げない脛齧り息子よ、お前は今誰の庇護下にあると思っているんだ?」
「…………ッ!」
何も言えない。
確かに俺は学校に行っていないし、今までのバイトで得た給料のほとんどは中古の原付とその免許を取る為に使ってしまい、家には一円も金を入れていない。完全に進一郎に養われている身だ。
「……悪いことは言わん。大地、来年には定時制でも何でもいいから高校に行け。そこで社会に出られるよう勉強しろ」
「誰が今更学校なんか……」
「だったら自分の生活費くらい自分で稼いでみせろ。一人では何も出来ないクズが、一丁前の口を利くな‼」
声を荒げる進一郎にカッと頭に血が上り、ネクタイを外した胸ぐらに摑みかかる、が、
ガシッ、右手がワイシャツに触れる寸前、進一郎の右手が俺の手首を掴み、ギリギリと締め上げる。
「っの野郎……!」
腕を振り回して拘束を解こうとするが、進一郎はビクともしない。
「ロクに口喧嘩も出来ず、気に入らないことがあればすぐに手を出す。大方バイトもこんな具合でクビになったのだろう?」
見透かしたような物言いにグッと奥歯を噛み、眉間に皺を寄せて更に腕に力を込める。しかし進一郎は眉一つ動かさない。
「感情的でまるで動物だな、お前は。あのクズに似たのか知らないが……」
「ッ……‼」
咄嗟に、ほぼ無意識のうちに左の拳を握り、進一郎の頬を殴り飛ばしていた。
進一郎は少しよろめき、ようやく離した右手の甲で切れた唇から垂れる血を拭う。
「……気は済んだか?」
「ッ……クソが‼」
感情のままに手を出したことと進一郎の冷静な言葉に、猛烈に恥ずかしくなった。これでは進一郎の言葉通り、感情のコントロールのできない獣だ。
俺はこれ以上進一郎の顔を見ることに耐えられず、入ってきたばかりの玄関をくぐり外に飛び出した。
「バカが。ケンカの一つもまともに出来んガキが」
落胆したような進一郎の言葉が耳に残り、俺は逃げるようにスクーターに跨りエンジンをかけて走り出す。あてもなく、夜の街に逃げ出した。
・・・
ごくごくありふれた、どこにでもあるような家庭に生まれた。
サラリーマンの進一郎と専業主婦の母、そして一つ違いの妹。進一郎は外資系の企業に勤めるビジネスマンで、それなりに裕福で母が働きに出るようなことはなかった。
家に帰ればいつも母がいて、妹と三人で帰りの遅い進一郎を待つ。そんな何気ない毎日だった。
しかしその日々は唐突に、何の前触れもなく終わり告げた。
小学四年生とき、俺は虫垂炎、いわゆる盲腸炎で入院した。幸い大事には至らず、数日の入院の後に普通の生活に戻ったが、その時俺は初めて自分の血液型がAB型であることを知った。それまで俺も妹も、自分の血液型というものを調べたことがなかったのだ。幸か不幸か今まで大きな怪我や病気もなく、血液型を調べる必要がなかったから。
しかし俺の入院をきっかけに、今後のためにと妹も血液検査をすることになった。
母はA型で、進一郎はAB型。しかし妹は、O型だった。
A型とAB型の両親からは絶対に生まれることのない血液型の妹を、母は医療機関のミス、取り違えではないかと言った。
しかし進一郎はそうは思わなかった。妹は母によく似ており、二人に血縁関係があるのは明らかだったからだ。
結局進一郎が決断したのは、DNA鑑定だった。
その結果分かったのは、母と妹が親子であるということと、進一郎と妹が親子ではないということ。
明らかになったのは、母の不貞だった。
いつから関係を持っていたのか、今も関係を続けているのか、そもそも相手はどこの誰なのか、そういったことを、進一郎は一切問わなかった。ただ突き付けたのは、母との離婚。
母の不貞が原因である以上裁判に流れ込むこともなかったが、唯一揉めたのは俺たちの親権のことだった。
進一郎は自分の子でない妹は勿論、不貞を犯していた母の子である俺のことも引き取ろうとはしなかった。しかし母は経済的な理由から二人を育てるのは困難ということで、養育費を要求した。当然のように進一郎はこれを拒否し、半ば押し付けられるように俺の親権を得た。
不貞と金。当時小学生だった俺と妹は汚い大人の波に翻弄され、離れ離れになった。
何が何だかわからないまま母と妹の私物は運び出され、処分され、四人で住んでいた家は進一郎と俺の二人の家になった。
進一郎は基本的に仕事一辺倒の人間で、もともと家庭を顧みることをあまりしなかった。男手一つで俺を育てることになっても、それは変わらなかった。
学校が終わると誰もいない家に帰り、ハウスキーパーの作った食事を一人で食べる。
家族三人で進一郎の帰りを待っていたあの時間は、もう二度と戻ってこないのだと思い知らされた。
進一郎のことを心の中で『父』と呼べなくなったのは、この頃からだったと思う。
中学に入るころには俺はそんな家に嫌気がさし、遅くまで出歩いて遊び回るようになっていった。地方都市の夜はそこまで治安がいいわけではなく、街を歩けば不良共に絡まれ、ケンカにも慣れていった。そんな連中を相手にし続けることが面倒になり、絡まれることが少なくなるように進一郎の財布からくすねた金で髪や服装を派手にしていった。まるで毒もないのに蜂の体色を真似て外敵から身を守る羽虫のように、俺は派手な見た目と中身のない腕っぷしでそれなりに名前が通っていった。
そんな俺がまともに学校に通っていられるはずもなく、三年間の中学生活は溶けるように過ぎていった。
当然俺は高校になど行かず、かといって就職しようともしない、今の宙ぶらりんの状態になった。
この数か月で俺が得たものと言えば、講習だけで取れる免許証と知人のお古のスクーター一台だけだ。
こんな生活を続けても自分が将来まともな仕事につけるわけがない。そんな分かり切ったことから目を背け、俺は手首を捻ってスピードを上げる。
親からも、過去からも、将来からも目を背け、ただただスクーターを走らせる。
・・・
スクーターを走らせてたどり着いたのは市内を流れる大きな川の河川敷だった。
本当はもっと遠くへ行きたかったのだが、財布は空っぽでガソリン代もない。
土手の上にスクーターを停め、青臭い河川敷の草の上に寝転んで空を見上げる。初夏の空気はじっとりと湿っており、こんなところに寝転んでいては蚊の餌食になるだろうがそんなことは気にもならない。
「ちっちぇえよな……」
我ながら自分の矮小さに嫌気がさす。
家でもバイト先でも、社会という大きなくくりで見ても自分は誰にも必要とされていない。せめて河川敷のやぶ蚊くらいは俺のことを必要としてくれるのかな、と卑屈な気分になってくる。
『く……ん……』
「ん……?」
初夏の湿気た空気で星も大して見えない空を見上げていると、何か動物のような、弱々しい鳴き声が聞こえた気がする。
「なん……だぁ⁉」
もそっと、寝転んだ俺の足に何かが触れた。
「うぁ! なんだなんだ⁉」
上体を起こし、足元に触れた何かを見ようとする。するとそこには……
『くーん』
犬、犬がいた。それもまだ両手にすっぽりと収まりそうな大きさの仔犬だ。河川敷には街灯もなく薄暗いので毛の色は分かりづらいが、灰色っぽく見える。
『くーん』
犬は縋るように声を上げながら俺の足にすり寄ってくる。しかし、
「や、やめろ、来るな! シッシッ‼」
俺は、犬が大の苦手だ。
まだ物心つくかつかないかのころに噛まれたことがあり、それ以来こんな小さな仔犬だろうと怖くて仕方がない。
必死に追い払おうと手足をバタつかせるが、犬は一向に俺から離れようとしない。
「なんだよ、腹減ってるのか? 食い物なんて持ってないぞ!」
バイトで着ていたままの服だったのでフライヤーで揚げていたチキンの臭いでも付いているのだろうかと思い、手でTシャツやズボンをパタパタ叩く。すると、ぺちゃ。
「⁉ な、んだこれ?」
ズボンの裾の、犬がまとわりついていた辺りが生温かく濡れていた。手にも付いたそれの匂いを嗅いでみると、錆びた鉄のような臭いがした。
「血?」
ズボンに付いていたのは、生温かい血だった。
犬に噛まれていたのかと思ったが痛みは一切ない。ということは。
「……お前、怪我してるのか?」
縋りつこうとする犬に声をかけると、犬は再び『くーん』と弱々しく鳴いた。
(これは……好機‼)
野良犬同士でケンカでもしたのか知らないが、犬が怪我をしているのなら、全力で河川敷を駆け上がってスクーターに跨れば追いつけないだろう。
「来るなよ……絶対来るんじゃねえぞ……」
飛びつかれたりすることがないよう左手で牽制しつつ、立ち上がって土手をゆっくり登る。
犬はおぼつかない足取りで俺の方に寄って来ようとするが、やはり怪我をしているらしく右の前脚がほとんど動いていない。
「よし……そのままそこにいろよ。絶対こっちに来るんじゃねえぞ」
犬からある程度距離を取り、一気にスクーターのもとに駆け寄る。
「よし!」
あの様子じゃ犬は追いつけない。今のうちにエンジンをかけて……
「うわぁ⁉」
俺が駆け寄ったスクーターには、虫がいた。
いや、虫と呼ぶにはあまりにもデカい。デカ過ぎる。
あの仔犬よりもはるかに大きな、体長一メートル近くありそうな巨大な何かだ。
六本の節足と長い胴と巨大な角、四枚の半透明な翅が不規則に羽ばたき、今にも飛びそうに見える。
角の生えた巨大なトンボとでもいうような、見たことのない虫だ。
「な、んだコイツ? トンボ、なのか?」
虫は好きじゃないが、犬ほど苦手ではない。そもそもコイツはデカすぎて虫という感じがしない。虫に対する嫌悪や恐怖よりも衝撃の方が大きい。
とりあえずオバケトンボを追い払おうとするが、さすがにこんな化け物に噛まれでもしたらシャレにならない。犬に噛まれた方が全然マシだ。
どうしたものかと考えていると、再び犬の鳴き声が聞こえた。先ほどの縋るような声とは違う、けたたましい吠え方だ。
『キャンキャン‼』
鳴き声はどんどん近づいてくる。俺を追って土手を登っているようだ。
「なんだよ、お前に構っているヒマは……」
さっきは犬が怖くて逃げようとしたが、今はどう考えてもオバケトンボの方が大きい問題だ。仔犬一匹に構っていられない。
『くるる、くるるるる!』
動かせない前脚を引きずって土手を登ってきた子犬は、俺ではなくオバケトンボに向かって威嚇するような唸り声を上げる。
体勢を低くし、今にもオバケトンボに飛び掛かりそうな様子だ。
『ギギ、ギギギギ』
「⁉」
仔犬の威嚇に呼応するように、オバケトンボも鳴き声を発した。トンボが鳴くなんて聞いたことがないが、そもそもコイツがトンボだと決まったわけではない。
思わぬ異音に俺が放心していると、声を止めたオバケトンボは半透明の翅を広げ、俺に向き直る。
「え?」
状況を飲み込むより早く、顔に鋭い痛みが走った。
オバケトンボはスクーターから飛び立ち、鋭い角で俺の顔を切りつけてきた。
「痛っ⁉」
頬から血が垂れ、じんじんと熱を帯びているのが分かる。
角に付いた血が頭部を伝い、オバケトンボは口に入った俺の血をグロテスクに咀嚼する。
『ギギギ、ギャギャギャギャギャ‼』
血に歓喜するように声を上げ、オバケトンボは再び俺に向かって飛んできた。
「ひっ! く、来るな‼」
確かにさっきは蚊に血をやってもいいとか思っていたが、こんな化け物が相手では血どころか食い殺されるかもしれない。
いや、かもではない。
オバケトンボは俺の血を飲んで喜んでいるようだったし、本当に人間でも食べてしまいそうだ。
俺は向かってくるオバケトンボを追い払おうと手を振り回す。
『ギャギャ!』
グチャ!
「い……があああ‼」
オバケトンボは俺が振り回した手に飛び込み、左手の平を角が貫通する。
「や、やめろ、やめろぉ‼」
手から溢れる血をその醜悪な口で受け止めながら、オバケトンボは翅を震わせて俺の顔目掛けて向かってくる。
必死に押し返そうとするが、力が強い。貫通した角が顔に迫り、眼球のすれすれを横切る。
オバケトンボを振り払おうと足掻いていると足を踏み外し、土手を転げ落ちてしまう。回転しながら全身を打ち付けて体中が痛むが、オバケトンボの角は抜けた。
(早く、逃げないと……!)
スクーターに駆け寄ろうと起き上がるが……
『ギャギャギャギャ……‼』
顔を上げた目の前に、オバケトンボがいた。
「あ、ああ……!」
トンボは口を開き、鋭い角を向けて飛んでくる。
「来るなぁ‼」
トンボの角が俺に触れる寸前、黒いモノがトンボに飛び掛かった。
『キャンキャンキャン‼』
さっきの仔犬が、トンボに飛び掛かり噛みついた。
(俺を、助けようとしてるのか?)
あの犬はさっき俺に縋るように寄ってきた。俺に助けを求めたのは、きっとあの前脚のケガはトンボに襲われたのだろう。直感的にそう思った。
(い、今のうちに……)
湿気った草に足を取られながら土手を駆け上がり、素早くスクーターに跨る。早く逃げないと、そう思ってエンジンをかけるが……
『キャインキャイン!』
「‼」
土手の中腹で、仔犬がトンボに組み伏せられているのが見えた。
六本の節足に脚を抑え込まれ、首を振って抵抗する仔犬にトンボの角が迫る。
「…………!」
あんな犬、俺には関係ない。
何故か俺を助けようとしてくれているようだが、撫でたことがあるわけでもないし、そもそも俺は犬好きでも何でもない。犬が化け物の相手をしてくれて、俺が逃げる時間を稼いでくれるなんて万々歳だ。
(そうだ……助けられたんだ……)
誰にも必要とされていなかった。
親にもバイト先にも、社会という大きなくくりで見ても、俺は誰にも必要とされてないと思っていた。
でも、あの犬は俺に縋ってきた。
たまたま近くにいたからってだけの理由かもしれないが、俺に助けを求めるように鳴いていた。
でも俺が襲われていたら、あの犬は怪我した脚を引きずって助けに来てくれた。
(なら……それなら……!)
俺だけ逃げるなんて、そんなの違うだろ!
親から逃げ、学校からも将来からも目を背けて逃げてきた。
でも、そんな俺でも……
「虫一匹から逃げられるかよ‼」
俺は土手を駆け下り、スクーターのヘルメットでオバケトンボをぶっ叩く。
『ギャ……!』
トンボの身体はひしゃげ、節足や翅が千切れて宙を舞う。
「この、クソッ……!」
地面に落ちたトンボに何度もヘルメットを叩きつける。何度も何度も、千切れた個所から噴き出した粘性のある体液がヘルメットを汚しても、構わず何度も叩き続ける。
『ギィ、キィ……!』
断末魔ごと頭部を念入りに叩き潰すと、それでも動く足や体をヘルメットで叩き潰す。
原型を留めなくなるほど叩き潰したところで、ようやくオバケトンボは動かなくなった。
激しくなった動悸を無理やり抑えようと深呼吸し、ヘルメットを手放す。オバケトンボの固い角や体を何度も叩いたせいで安くないヘルメットは傷だらけになってしまった。
「あ、おい、犬!」
仔犬の方に駆け寄ると、酷い有様だった。
全身に角で突かれた傷があり、どれも深くて血が溢れ出ている。もともと怪我をしていた前脚は不自然な方向に曲がっていて、呼吸は不規則で、今にも息絶えそうに見える。
「お、おい、死ぬなよ!」
犬は苦手だが、この状況でそんなことは言っていられない。この犬は、俺を助けようとしてくれたんだ。
虫の息の犬を抱え上げ、土手を駆け上がる。一刻も早く病院に連れていかないと。
しかし、
「…………嘘だろおい」
スクーターの周りにはオバケトンボのような虫が群がっていた。翅の生えたムカデや全身を棘に包まれたカブトムシ、さっき潰したオバケトンボと同じ姿のやつもいる。
(仲間を、呼んだのか……⁉)
オバケトンボをヘルメットで潰したときのあの断末魔、あれは仲間を呼ぶための声だったのか。
ヘルメットは、さっき手放して土手の下まで転がっていってしまった。そもそもトンボ一匹でさえやっと潰したというのに、スクーターの周りには軽く見積もっても十匹以上の化け物虫が群がっている。
「逃げ……⁉」
走って逃げようと踵を返すと、足が地面を踏み外した。
いや、地面を踏めなかった。
転んで倒れたまま足元に目をやると、右足の足首から下がなかった。
「え、あ、ああ……⁉」
痛みはない。あまりに酷いケガをすると痛覚がマヒするというが、本当だったんだな。不良とのケンカではこんな大ケガを負うことはなかったので経験がなかった。
足からは壊れた水道のようにとめどなく血が溢れ、痛みはないのにどんどん足が冷たくなっていくのが分かる。
足元にいた巨大なクワガタムシが血の滴る大顎を動かし、切り落とされた俺の足に食らいついた。
他の虫も群がり、ぐちゃぐちゃと瑞々しい音を立てて、自分の足が食われていくのを俺は呆然と見ていた。
(食われる……殺されるのか、おれは……?)
虫たちは俺の足を食い尽くすと、俺に向かってにじり寄って来る。
翅を広げ、口を開け、ムカデが、カブトムシが、トンボが俺に飛び掛かってきた。
「ひぃ……⁉」
短い悲鳴を上げ、仔犬を抱えて蹲る。
背を向け、目を瞑り、腕の中から出ようとする仔犬を抑え込む。
一瞬の空白の後、体中に鋭く冷たい感触が走った。
・・・
冷たい。
体中のいたるところが冷たい。
四肢の感覚は無く、そもそも手足が付いているのかも定かではない。
顔を動かして確認することもできないが、自分の身体がズタボロになっているであろうことは容易に想像がつく。痛みを感じていないことがせめてもの救いか。
(……俺は、死ぬのか?)
虫たちに無残に食い散らかされ、生きているのが不思議なほどに傷ついた俺は、多分もう助からないだろう。
『くーん』
もう目もロクに見えないが、顔の横に仔犬がいるのが分かった。まだ生きているらしい。
弱々しく俺の頬を舐め、か細い声で鳴いている。
最後くらい撫でてやるか、と左手を伸ばすと、ぼやけた視界には食い千切られ、肘から先が無くなった左腕が映った。
「あ……ぁだ……」
喪失した体に明確な死を実感し、冷たくなった顔に涙が伝う。
少しだけ熱を残した涙に、掠れた声が重なる。
「い……やだ……! 嫌だ……! 死にたくない……‼」
誰からも必要とされず、訳も分からないままこんなところで死ぬのは嫌だ。
無い腕を虚空に振り上げ、希う。
誰でもいいから、
何でもするから、
「たすけて……たすけて……‼」
こみ上げてくる恐怖と涙に溺れそうになりながら、動かない身体を揺らして声にならない叫びを上げる。
そして、
虚空に上げたぐちゃぐちゃの右手に、誰かがそっと手を添えてくれた気がした。
ーーーーリン
綺麗な鈴のような音が響き、ぼやけた視界に白銀の人影が写る。
その人影は、人ではなく天使か、はたまた悪魔であろう。
その身に人ではありえない気配を纏い、銀色の光を発している。
人影は血にまみれた俺の腕を取り、慈しむように優しく握り絞めてくれた。
これが、出会い。
ヤンキー崩れの『大神大地』と、銀色の妖精『猫柳瞳』のあまりにも無様な出会いだった。
初投稿です。
以前ライトノベルの新人賞に応募したもの書き直したものになります。
不慣れで至らぬところが目に付くかと思いますが、よろしくお願いします。