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食虫花

作者: 希土暁宣

                     朝

朝はきらいだ。泥水のようなよどんだ意識が、じくじくと這い上がってきて、脳のパズルを汲みあげていく。時計を見て意識を振り払い、自分ではない何者かになって、一日が始まる。

 しかし、今日は違っていた。透明な深い悲しみが、優しくこころをつつみ、そしてつぼみが開くように意識が現れた。遠い夢を見た。二十数年も前の記憶だった。京子の面影が、おぼろげに現れた。京子は初めて出会った十六歳の少女のままだった。私はしばらく心地よい余韻にひたりながら、三十分ほどだろうか、うつらうつらしていた。日曜日である。目覚めたくなかった。しかし目覚めてしまうのが、残酷な現実である。

 離婚して十年になる。私は七年間を律子とともに生きた。律子とは、確かに愛し合っていた。会社以外は、いつでも律子といっしょだった。しかし、不思議と律子の夢を見ることはなかった。心地よい懐かしさとともに京子のことをよく思い出すようになった。京子は東京の高校の美術部の一年後輩だった。


                    思い出

 新入生の京子が他の女子とともに美術部室に挨拶に入って来たとき、私は一目で心を惹かれた。清楚な顔立ちをしていた。笑顔が愛くるしかった。恋に落ちた。

 美術部は個人作業が主体であり、皆が集まっての部活というのは、それほどなかった。だから、私が京子に会う機会も少なかった。翌年には京子はバドミントン同好会に移っていったので、高校の三年間で京子との接触はほとんどなかったといってよい。私たちは、まだ一般の小説に書かれるほど、性に開放的ではなかった。

 ただ、覚えているのは、授業中、ノートに春日京子、春日京子、と何回も自慰的に書いていたことだった。そして、出会った雪の朝のことだった。

 駒場の駅の階段を下りるとき、京子といっしょになった。駒場東大前駅から東大とは反対側に高校があった。駅から高校まで十五分、私が京子と何を話していたか、まったく覚えていない。「春日さん」。「あ、君田先輩」。そこまでだ。私は緊張していた。京子も、心なしか頬を赤らめていた。小雪降る中で、くるくると傘を回す京子は、汚してはならない、神聖なものだった。京子と別れて教室に入ると、同級生が、「君田、可愛い子と歩いてたじゃないか。やるなぁ」とからかった。


 一九七六年三月二十四日、私は意を決して京子に電話をした。私は一浪していたので、京子と同時に大学へ進学することとなった。「あ、先輩、どちらの大学にいかれるんですか?」。

それからしばらく雑談をしたあとで、「あの、デートしてほしいんです」と私はいった。「ちょっと待ってください」。なにやら母親に相談しているようだった。「駒場で会いましょう」と彼女はいった。母親は、新宿や渋谷では合わせたくなかったのだろう。私たちは、三月二十七日に高校で会うことになった。井の頭公園で大人のデートを予定していた私は、少しがっかりした。


 その日から、私の悩みが始まった。私は、一流大学に入れば、京子に求愛する資格ができるかのように思って来た。恋愛、即結婚とも思っていた。しかし、学歴だけで、求愛する資格ができるわけではない、と気づいた。

 まず、デートに着ていくような、気のきいた服がない、と思った。今にしてみれば、服装などどうでもいいように思うが、そこはまだ高校生で、自分をカッコ良く見せたかった。

 家庭が問題だった。父は万年失業者であり、我が家は西永福の古ぼけたアパートに住んでいた。一流大学に合格したといっても、両親は喜ぶより京都への私の引越し費用がなかった。兄は大学生だったが、精神病院に入院して留年していた。もし私と結婚すれば、私の家族を背負い込むことになる。たかがデートといっても、結婚まで射程にいれれば、京子を幸福にできるとは、いいがたかった。京子は、普通のガールフレンドとは違う、特別の存在だった。


 悩んだすえ、私は翌々日、京子に電話して「用事ができた」とデートをキャンセルした。京子は少し怒った声で、「わかりました」と電話を切った。

 引越し費用と当面の生活費は銀行が貸してくれた。入学金や学費は免除となった。そして私は京都へ行った。


                      歳月

 一九九八年、十一月の朝だった。京子の夢から覚めた私は、喪服に着替え、浦安の斎場にでかけた。学生時代の親友、武田のお父さんがガンで亡くなったのだ。ボードレールを愛した人だった。私は通夜の受付をすることになっていた。武田とその母親が笑顔で迎えた。葬式は苦手である。私の顔には、笑顔が貼りついている。悲しげな顔をすることができないのだ。武田と母親がにこやかに迎えてくれたので、ほっとした。

 

 親族が帰った後で、私と武田の二人が棺の隣りの部屋で寝た。二人で、こそこそとふとんをひいた。

「ご両親は、レッドパージで大企業を追われたんだったね」。

「そう。その後、党の指令でくず鉄屋をやってたよ。生活と革命活動が両立できるってね」。

「六全協で党員やめたのかな」。

「知らない。そういう話はあまりしなかったから」。

「おれも党を裏切ったからな。なんか柴田翔の『されど われらが日々』みたいなことがたくさんあったんだな。あの党員も血のメーデーで警官隊と衝突したとき、怖くて逃げ出した。裏切り者としての自分がゆるせず自殺した」。

「太宰治も本郷界隈の細胞のキャップまでやりながら転向した」。

「死ぬしかなかった人生もあるね」。


 翌日の葬儀で柩に花を入れるとき、私は初めて死人の顔を見た。親戚はほとんど九州で、旅費の関係上、葬儀に行けなかったからだ。死体は物質化していた。大学で動物実験をした私は、命がある時点で、突然に物質化するのを目にした。その、物質化する時点が怖くもあり、哀れでもあった。私はそれを見たくなかったので、解剖実験の場合は、必ず少し遅刻して行った。殺すのが終わって解剖に入れば、死体は単なる物質であり、それを切り刻むことには何の遠慮もなかった。

 武田のお父さんは、完全に物質化していた。医師の武田は、「親父の死体、解剖しちゃったよ」といった。

 お父さんの青白い死に顔を見ているうちに、ふと、京子もいつか、このように物質化してしまうのだ、と思った。その前に、心を伝えておきたい。


                      手紙

 葬儀の翌日、私は会社から電話をかけ、高校の同窓会名簿を送ってもらうようにした。数日後に名簿が届いた。ひょっとして、まだ独身ということがあるだろうか。胸がときめいた。しかし、春日京子は、中島京子と名前を変えていた。

 私は手紙を書いた。

「前略 あなたにお会いしたく存じます」。その後、まず二十数年前に電話をするのに、大変な勇気をふりしぼったことや、デートの約束をキャンセルした事情を書いた。スタンダールの恋愛論に沿って、恋する心の結晶化作用を論じた。次いで、私のこれまでの人生航路を書いた。学生運動に挫折したこと(その頃、東京では学生運動はもう完全に下火だったが、京都ではまだ盛んだった)。カンボジア難民キャンプでボランティアをしていたこと。うつ病となり、妻に離婚されてしまったこと。その後家を買って、両親と兄を引き取ったことなどを書いた。最後に、「死ぬ前に一度会いたい」と書いた。「あなたを看取りたい」とも書いた。


                      電話

日曜日の夜、八時ごろ電話が鳴った。

「はい、君田です」。

「私、中島と申しますが」。

「ああっ、京子さん」。

 あわてふためいた。突然の電話だった。懐かしい京子の声と息遣いが聞こえた。声は昔のままだった。やや高い声。やわらかい声。

「お手紙拝見しました」。

「恥ずかしいな」。

「私、夫のいる身ですから、お手紙放っておこうと思ったんです。でも、すごく長いお手紙でしょう。こんなに書くのは、相当、時間がかかったんだろうと思って、放っておけなくなったんです」。

「いや、嬉しいです」。

「私はっきり覚えてます。大学に入学する直前ですよね。デートをキャンセルされたとき、私、怒ったんじゃないんです。私も緊張してたんですよ。あの頃、デートに誘うって、すごく、勇気がいりましたよね」。

 お互いに純情だったとわかって、うれしかった。

「家族に障害者を抱えているくらい、なんですか。私の子供も知的障害児なんです」。

京子の言い方は、私が兄の精神障害を理由の一つにデートをキャンセルしたことを、責めているように聞こえた。彼女は、私に好感をもっていたのだろうか。

「お子さんは何人?」。

「三人。一番上が障害児で、その下に二人います。兄弟は多いほうが楽しいでしょう?」

「先輩、由香ちゃんがテレビに出たの知ってますか? 今、北海道にいて、農業やってて、もう、びっくりしちゃった」。

由香ちゃんとは、たぶん、京子といっしょに美術部に入部した女生徒だろう。

「ごめん、その子、覚えてないや。京子さんしか覚えてないよ」。

それからしばらく雑談したが、その内容は覚えていない。

「会ってくれるの?」

「いいですよ、そのうち同窓会か何かでっち上げて、会いましょうよ」。

「ははは、そりゃいいや」。

しばらくジョークを言い合って、電話を切った。



                    同窓会

 一時間ほど余韻にひたって、「しまった」と思った。急な電話だったので、心の準備ができていなかった。ジョークの文脈だったが、彼女は会ってくれるといったのだ。私はジョークで受け流してしまった。

 翌週の土曜日、彼女の住所の近くの渋谷で、二人だけで取れる個室の料理屋を探した。四人部屋がほとんどで、二人で取れる個室というのはなかった。やっと道玄坂のはずれに、二人部屋の取れるふぐ料理屋をみつけた。

 翌日、美術部同窓会の案内状を作って、彼女に送った。返事は年末に来た。「その日は夫の都合があって行けない。ごめんなさい」という旨の返事だった。


                     再会

 歳が明けて一九九九年の一月十日、午前十時ごろ、京子から電話があった。

 「今日、会えますか? 4時に新宿に出て来れますか?」

 胸が小躍りした。

 「行きます。待ち合わせはどこにしますか?」

 「高野フルーツパーラーで」。


 私は3時半からフルーツパーラーで待った。彼女は十分ほど遅れてやってきた。彼女は、私がわからないようで、あちこち見回していた。私も高校時代は長髪だったから大分変わっているだろう。立ち上がって、「君田です」と迎えに行った。

 席について、コーヒーを注文し、一息つくと、彼女はいった。

 「先輩、目を覚ましてくださいよ。私、もうこんなおばさんなんですよ」。

確かに、予想以上にそこらへんのおばさんだった。十八歳の輝きとは比べようもない。四十一歳だ。カメラを持ってきていたが、写すのはやめにした。十八歳の頃の彼女を、胸に抱えていようと思った。しかし、話しているうちにすぐ、彼女は輝きを取り戻した。優しい言葉、愛らしいしぐさ。

「その髪型、高校時代と同じだね」。

私は、そのいささかやぼったい髪型が好きだった。

「ええ、今日はたまたま。今、学生時代のお友達と会ってたんです。もう、だんなに捨てられたら、スーパーのパートのおばちゃんぐらいしか、職がないわねぇ、とか、みんなで姑さんの悪口こぼしてきゃっきゃ笑ったり。もう、高校時代とは違うんですよ」。

 「いや、君は十八歳のままだよ」。

 「おじょうずねぇ」。

 「ご主人は、もう髪の毛薄いの?」

 「だいぶ禿げてますよ」。

 「いつ結婚したの?」

 「会社に就職してから、二十六歳のときです。あの頃は、クリスマスっていって、二十四を過ぎたら売れ残りでしたからね。誰かプロポーズしてくれないかって、あせってたんですよ」。

 「ご主人とは、どこであったの?」

 「学生時代に」。

 私たちは、お互いの優劣に関わるようなことはたずねなかったし、いわなかった。ご主人の学歴や、会社など、具体的な話はしなかった。

「お子さんの障害はいつわかったの?」

「生まれたときです」。

  京子が、産んだ子の障害を、医師に告げられたときの悲しみを想像した。

 「知的障害って、リハビリがいるんですよ。毎週2回、リハビリに連れて行くんです。私たち死ねないねって、いつも夫といってるんです」。

 「でも、いつか死ぬ」。

 私は、煙草の煙をゆっくりと吐いた。一瞬の沈黙があった。


 「私、今、まあまあ幸せかなぁ。夫の実家に同居してるんですけど、お姑さんも可愛がってくださるし。夫も障害児ができても逃げなかったし。よく、逃げちゃう男がいるんですよ」。

「ここで、こうして君田先輩と会ってるのも、夫に悪いような気がしてるんです」。

「そうかな。男はわからんぜ。今頃浮気してるかもしれんよ。ご主人が浮気したら、どうする?」

 京子はうつむいて、右手で左手をかきながら、「そしたら、そしたら、何かうんと高いもの買っちゃお」といった。そのしぐさは幼子のように可愛かった。 


 「ところで、今日は一つ言うために来たんです。君田さん、早く再婚なさった方がいいですよ」。「絶対に」。

 「さあて、二十歳ぐらいのぴちぴちのカワイ子ちゃんが、どうしてもっていうなら結婚してあげてもいいけどね」。

  二人して笑った。

 「お家も買われたんだし、お兄様も生活保護で独立されたんでしょう?」

 「自宅近所のアパートに住んでるけど、やっぱり親がめんどうみてるよ」。

 「独立させる手立てはないんですか?」

 「グループホーム。だけど空きがない」。

 「そうですかぁ。知的障害者と同じですねぇ。でも、きっといい人いますよ」。

 「君は自分の子供だからめんどうみれるけど、それが配偶者の兄弟で、しかも異性だったら、めんどう見れるかい」。

 「うーん・・・厳しいですねぇ・・・ふうぅ、厳しいですねぇ・・・」。


 「話し変わるけどさ、ぼくの大学はひどいとこだったよ。ヘルメットかぶってマスクした暴力学生がうじゃうじゃいてさ。核抑止力の時代に棍棒だの鉄パイプだの振り回してさ」。

 「先輩が学生運動するとは思いませんでした。でも、私、東京にいたから、学生運動のことはわかりません」。

 「そうだね。わからないだろうね」。


 そのとき、窓に向かった私の席の後方で、ばたばたっという大きな靴音がして、悲鳴があがった。立ち上がり、振り向くと、三人の覆面をかぶった男たちが、ハンマーで学生風の男の頭を滅多打ちにしていた。私の後方三メートルぐらいのところだった。サラリーマン風の男性が止めに入ったが、彼も滅多打ちにされた。くずおれた二つの死体の頭部から、血があふれ出し、半径50センチぐらい床に広がった。

 「見ちゃいけないっ」といって私は立ち上がった京子の目を手でふさいだ。

 あっという間に殺人者たちはいなくなった。

店内は騒然とした。京子は、私の胸に顔を埋めて、「怖いっ、怖いっ」と泣き出した。今時、過激派の内ゲバは珍しい。私は緊張しながらも、「高野フルーツパーラーに内ゲバは似合わないな」と思った。私は京子を強く抱きしめて、「大丈夫、愛してるよ、愛してる」と耳元に囁きながら、キスをした。なにをやっているんだ、おれは。


 警察が来る前に店を出て、京子を駅まで送りながら、イデオロギーは食虫植物のようなものだ、と思った。花に惹かれて、一度その葉の中に入ってしまえば、怪我をせずには抜けられない。そのまま入っていれば、完全に溶かし込まれて植物と一体化し、組織の歯車となってしまうのだ。

 京子は「もう二度とお会いしません。夫に申し訳ないですから」といって去った。


                      死

 その一ヶ月後に、京子は死んだ。交通事故だった。葬儀の通知がファックスで私の家に流れて来た。たぶん、京子の住所録に私の名前が入っていたのだろう。私は驚いたが、以外に冷静でもあった。葬儀場でまた会えるのだ、と思った。


 葬儀は以外に少人数で、ささやかに行われた。夫の会社の人間などは、呼ばなかったようだった。花輪が数個、参列者が三十人ほど。

 柩に花を入れるとき、私は厚かましく人を分けて柩のそばに寄った。そこに京子はいなかった。物質化したあるもの、どこからかやってきて、どこかへ去っていく形があった。イデオロギーでそれが説明できるとは思えなかった。京子の実存はどこへ消えたのか。


 思わず死体にかがみ込み、唇に、私の唇を押し付けた。ひんやりと乾いて、死化粧のにおいがした。

周囲はあっけにとられていた。「何をしてるんだ!」人の良さそうな京子の夫が、私の襟首をつかみ、床へ引きずり倒した。私は四つんばいになり、号泣した。                                            (完)


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