第1話
【郵便受けに一通の手紙、雨に濡れて。】
"この手紙の宛名は僕の名前じゃない。うきうきした気持ちを返してくれ。"
今日の大阪は雨だった。築30年のくたびれたアパートの1階ロビーに、若い男がひとり。男が茫然と立ち尽くす前には、くたびれた佇まいの集合ポスト。大食い番組のフードファイターの口元のようにぎゅうぎゅうに押し込められた各部屋のポスト。皆同じ種類の郵便物が口からはみ出ている。はみ出したこいつのルックスはおそらくユーキャンから不定期にやってくる通信教育の手紙、
といったところだろう。あいにく何も知識を身につける気になれない彼は、それらをまるで工場のライン作業のように集合ポストの真下にあるゴミ箱へと急降下させる。しかし、その流れ作業から一通だけ脱落したものがいた。そして、床に落ちたその白い便箋だけが、雨に濡れていた。
自分に手紙を送ってくる人なんていたかな?と首を傾げながら便箋に手をやる。あと少しで届きそうなところで、彼はさらに首を傾げた。
宛名が自分の名前とはまるで程遠かったのだ。もれなく1文字も合致していなかった。
彼は行き場を失ったその便箋を不憫に思い、ゴミ箱に棄てることなく自分の部屋へと持ち帰ることにした。
明日、郵便局にでも持って行ってなんとかしてもらおう。
差出人にもまるで心当たりのないその便箋は、どうせ頼むことのないデリバリーピザのチラシの下に隠れるように玄関の棚の上に乱雑に置かれて、夜を過ごした。
明くる日の夕方。昼過ぎに目が覚めた彼は、男の嗜みを済ませたのちに一服をしようとベランダに出た。
すると、彼の住むアパートの前を歩くひとりの女性と目が合った。女性は少し焦ったような表情を見せた。彼は彼で非常にどぎまぎしてしまう。形容しがたいほど美しいその女性は、彼の視界からあっという間に姿を消す。彼はすこしがっかりする。もう少しこの目でぼーっと眺めていたかったのに、と呟いたところでインターホンが鳴る。先ほど済ませた行為のせいで気の抜けてしまった重い身体をのそっと動かし、玄関へと向かう。
覗き穴を覗くと、先ほどの女性が映っていた。
理解が追い付かないまま覗き穴から目が離せずにあたふたしていると、もう一度インターホンが鳴った。大きな音にビクッとして扉に頭をぶつける彼。もう扉を開けるしかない。ゆっくりと扉を開けると、そこにはやはりあの女性が立っていた。
ほんの少しだけ息が上がっている彼女に極度の緊張を感じながら、精一杯の微動な会釈をする彼。そこでようやく彼女は口を開く。
「あっ、あの…ここに白い便箋が届きませんでしたか?」
彼は、あれのことだ、とすぐに思い出し、すぐ手の届く場所に埋もれていた便箋を手に取る。
「あ…これ、ですか?」
「そうですっ!すいません…郵便ポストに入れてから住所を間違えて書いてしまったことに気付いちゃって…」
スッと差し出された手に白い便箋を乗せる。同化してしまうかのような細く白い指先が少しだけこわばっている。
「やっぱりそうだ…すみませんっ、たぶん別の棟、ですよね?」
彼の脳裏にすぐさま鮮明な映像として映りだしたのは、同じマンション名で、『3番目の棟』にあたるマンションだった。彼の住むアパートは『2番目の棟』だった。
「きっと向かいにある、3番目の棟だと思います。部屋番号は間違ってないですか?」
「はい、それは間違ってないと思います…あのっ」
オーディオのつまみをグッと回してしまったかのように大きな声が彼の耳の中を轟く。
「い…一緒についてきてくれませんか…?」
えっ?突然頭の中を空っぽにされた彼。
「ど、どこにですか?」
「手紙…ひとりじゃこわくて行けなくって」
なるほど。彼女が今胸元に抱きかかえるようにして持っている白い便箋を、向かいのマンションの『届くべき場所』に投函しに行くからついてこい、と言っているんだろう。
彼の脳内で瞬時にこのあとのストーリーが駆け巡る。考える。
きっとこの女性に付き添い、手紙が『届くべき場所』の郵便受けに投函されてしまったら、僕と彼女の偶然な出会いは終わってしまう。
彼女の慌てた様子からして、よほど大切な手紙なのだろう。
とても複雑な表情をしているけれど、きっと遠距離の彼氏にでも送りたかったのに関係ない冴えない男の元に届いてしまった故のバツの悪い表情なのではないだろうか、つまりひと手間あったけど、無事に届けたらハッピーエンドだ。
届けついでにインターホンを鳴らしたりなんかして、サプライズで来ちゃった!みたいなことをしちゃうんじゃないだろうか。
そうしたら僕はお邪魔虫だ。彼女とそいつの世界が突然広がって、2人はその生暖かい世界に夢中だ。僕は無の感情でバリアをしてそそくさと去る、そんな感じだろう。
…居なくなりたい、早急に。
でも、なんだか踏み込みきれないのだ。なんでだろう?
通常であればちょっとした人助けの範疇で済まされる出来事だろうし、僕も"何気ない日常の一コマ"として日常の奥底へと流してしまうだろう。しかし、僕はなぜだか根拠も脈絡も一切なく、彼女に一目惚れしてしまったんだ。
ロクでもない展開を想像したけれど、違ってくれ、と願う僕まで現れた。
それでもほとんど彼女の方なんて見ることはできないのだけれど、彼女の心地良い高さの声や、ほのかに香る甘い香水の匂いに自分勝手に囚われてしまったのだ。
「あの~…お兄さん?」
「あっ、すいません…わかりました、行きましょう、すぐそこですので」
部屋の鍵を閉めてエレベーターの前へと向かう。
彼の目の前を彼女が歩く。おそらく彼より少し年上だと思うが、彼より10センチは身長が低く、甘い香水の匂いが彼女の名残りとなって後を追う彼の身体と心臓の奥を通過する。前を歩く彼女からは、ほんの少しの親しみやすさと、隙が見え隠れする。目を奪われている。
エレベーターの『1F』のボタンを押しジッとする彼。彼女は彼の後ろに立つ。おそらく同じようにジッと俯きながら到着を待っているのだろう。2Fから降りるエレベーターはほんの数秒で1Fへ着くはずなのに、彼にとってはとてつもなく長かった。こういう静寂な空間の時ほど、なぜか唾を呑みこみたくなる、なぜだろう、普段そんなこと無意識にできるのに。むしろしてるか覚えてないし。なぜだろう、妙に意識してしまう。
ごきゅっ、と喉を鳴らしてしまいそうになる瞬間、無機質な音と共にエレベーターのドアが開く。はあ、助かった。何から助かったのかよく分からないけれど、助かったそうだ。
見知らぬ女性(だが一目惚れしてしまった)と2人きりで過ごすエレベーターから出られたことで妙な解放感を得た彼は、数秒で異様に体温が上昇したことに気付く。外のひんやりした風にさらされて身体は火照りを解いていく。
しかし、ホッとしたのも束の間、彼の眼前には先ほど話題に上がったマンションが仁王立ちのごとく存在していた。
そうだ、もうこの人とはさよならするんだ…
勝手に一目惚れして勝手に虚しい気持ちでいっぱいになる彼だが、連絡先を聞いたり、近くの小洒落たカフェに誘う勇気もバイタリティも持ち合わせていない。ここでさよならだ。
「ありがとうございます、この部屋、ですよね、きっと」
「はい、きっと、そうだと思います」
大切そうに抱えられていた便箋をかがみながら部屋のドアにある郵便受けに差し込む彼女。
長い髪がファサッと下りて彼女の表情は窺えなかったが、滲み出る雰囲気から、おそらく涙を堪えていたように見えた。なぜだ?
「本当に、ありがとうございました、変なことに付き合わせてしまって…」
あれ?ピンポンしないの?
「いえいえ、いいんですよ、ちゃんとお届けできてよかったですね」
サプライズだよぉ~♪びっくりした?的なの、しないの?
「…元夫、なんです。」
どうしよう。なんて返そう。彼の拙い恋愛経験を遥かに飛び越えた言葉だ。
しかも見当違いすぎる想像をしていたせいで余計にわからなくなった。
しかし、知り合ったばかりの僕がなんて返したってさほど変わりはないじゃないか、くそ、捻り出せ…。
「へっ、あっ、そうなんですね、大人になるといろいろありますよね…」
なんてクソみたいな返答なんだ、僕よ。
しかもド頭でアホみたいに声裏返っちゃったし…
「ふふっ、お兄さん、おもしろい方ですね。少しだけ、元気出ました」
「あっ、いえ…何も気の利いたことが言えなくて…すいません」
「いいんです、そもそもわたしが手紙の宛先を間違えてしまったのがはじまりなので…ほんとうにご迷惑おかけいたしました」
深々と頭を下げる彼女。
「いや、やめてください、頭を上げてください、僕はなにもしてませんので…」
「あの、なにかお礼をさせていただけたら、と思うんですけど、このあとお時間ございますか?」
「えええっ、あ、いえ、大丈夫です!」
やばい、これ、どっちの意味で伝わってる?
「ふふ、ほんとうに面白い方ですね。近くのカフェがまだ開いてるはずなので、よかったらご馳走させてください」
「は、はい!!」
ふふ、と続けて笑う彼女の笑顔に胸をズキズキとつつかれながら、遠慮をすることを忘れてしまった…と無礼を後悔しながら彼は、顔を紅く染めて再び彼女の後を歩くのであった。
…しょうもない想像駆け巡らせて失礼いたしました…。
心の中で深く謝罪することでどうにか折り合いをつけていく。
まだ名前も知らない若い男女は、お互いに宛てたものでもない一通の手紙をきっかけに物語をはじめることになる。
第1話 おわり。