ユー・アンド・アイ
走って、走って。
私は、いつか見た少年の足跡を追いかけていました。
ランタンのがちゃがちゃと騒ぐ音すら心地よいと感じています。
私は、交差点をわたって、それから裏路地へ入ります。
水たまりを踏みました。
足裏が石を踏んで切れました。
でも、大丈夫。
私は、今とてつもなく綺麗な気持ちでいるのです。
待ち望んでいたのです。
この時を。
飛行場へ行くのは思った以上に簡単でした。
昨日のお昼頃に一度場所を見ておいたから、あとはその方向へ向かって走るだけだったのです。
もう、十分は走ったでしょうか。
私の目の前には、バリケードに囲まれた広大な広場があります。
近づくと、どちらかというと野原のようだと感じました。
どこか入れそうなところがないか探しました。
まさか、彼だって堂々と正面から入れるわけはないのですから。
私はバリケードに近づきます。
幸い、見張りの兵士はいないようで、あの忌々しい有刺鉄線さえなんとかすることができたら、乗り越えられそうです。
私は、なんとか入り込めるところがないかと、フェンスに沿って移動し始めました。
歩きながら、私は彼になんと言うべきか考えていました。
まずは、謝らないと。
私は、二度も同じ間違いをしてしまったのでした。
一度目は、私だけが悪いとは思いませんけれど、そうだとしても、気分の良いものではありません。
そして、私は伝えなければなりません。
「これか」
私はつぶやきました。
何分くらいか歩いたところの、支柱の根元のフェンスが、めくれかかっていました。
ランタンを置いて、私は、それをぐっと引き上げて、なんとかくぐり抜けようとします。
フェンスは大きく破損していました。
だから、思ったより簡単に入り込むことができました。
外からみて取れるように、なにかの倉庫の裏手のようでした。
私は、早速彼を探し始めます。
私はライトに照らされないように気をつけながら、彼を探します。
どこにも見当たりません。
飛行場なのに、飛行機なんて見えません。
ただ、飛行機のエンジンの音が聞こえるだけです。
私は、滑走路に沿って歩き出しました。
飛行機を見てみたい、と思ったのと、それから、彼なら飛行機を見るために近くに寄るでしょう。
そんな予感がします。
でも、同時に、私は彼が見つからなかったらどうしようと思っていました。
滑走路の近くでは、飛行機を間近で見ることができました。
どうやら、着陸するのは旅客機ではなく、少ない人数しか乗れないタイプの複葉機のようでした。聞いたところによると、この国の軍備は他よりも遅れているみたいです。
確か、元軍人である父から聞いた話です。
でも、戦争は起こらないだろうと言っていました。
この前のそれが、全てを終わらせるための戦争であったのだと。
たしか、父は自ら志願して軍人になったのでした。
それが、高貴なる者の責務だと、引き出しに雑に放り込んであった勲章を私に見せて言っていました。
私がせがんで、仕方なく見せてもらったのです。
そうこうしているうちに、私は滑走路の端に着きました。
結局彼は見つかりませんでした。
私はがくりと肩を落として、座り込みました。
呼吸を少し落ち着けて耳を済ませれば、エンジンの音と、風のそよぐ音しかしません。
夏の夜特有の匂いがします。
不思議と感傷的になる匂いでした。
私はその風と雰囲気に身体を預けて、なにも考えずに空を眺めていました。
思ったよりも明るい空です。
今まで感じて来た時間の中で、一番静かな時間でした。
ですが、そんな時間は、草と土を踏む音のせいで終わりました。
私は、振り返ります。
「来ちゃったのか」
彼でした。
私は、心臓につられて身体が飛び上がりそうなのを必死に我慢して、深呼吸をします。
「ぼく専用なんだけどな、ココ」
彼は、私の座っている地面を指差しました。
下を向くと、芝がほとんどならされています。
「いつも、ここに?」
「うん。君はよくわかったね」
「なんとなくです」
「なるほどね」
彼は私に近づいてきて、それから隣に座りました。
心臓が、早鐘のように打ち鳴らします。
「飛行機、好きなんだ。日が昇るとバレちゃうから、あんまり見れないけど」
彼は楽しそうに言いました。
「そうなんですか」
「そうさ」
「空を飛びたい?」
「うん」
「どうして?」
「自由だから」
「それだけですか?」
「あとは……」
彼は少し言い澱みましたが、鼻で笑うと、言いました。
「一人だからかな」
私は、彼がどんな顔をしているのか、知りたくなりました。
彼は、いつもの無表情ではなく、とても楽しそうでした。
私は退屈でしかありませんでしたから、彼に一人のなにがいいのか聞こうとしました。
でも、なんとなく、それを聞くことはいけないことのように思えました。
しばらく私は彼を見つめていました。
彼が、突然頭を動かして、私の方を向きます。
なにか言わなくちゃ、と思いました。
「あの」
「どうしたの?」
「私、謝りにきたんです」
「謝る?」
「あんなことして、ごめんなさい」
「いいんだよ。あれぐらい」
「どうして?」
「どうしてって、それは……」
彼はそこまで言うと、芝に寝そべりました。
それから、くぐもった笑いをこぼして、
「やっぱやめ。ぼくは君を許したくなった。それだけ」
と言いました。
「そういえば、名前を聞いてなかったね」
彼は続けました。
「え?」
私は、理由はわからないけれど、名前を聞きたくない、と強く思いました。
名前を言ってしまったら、聞いてしまったら、全部泡のように消えてしまうような気がしました。
「ぼくの、名前は……」
「待ってください」
私は立ち上がりました。
「名前は聞きません。だけど、私がいたことは、覚えていてください。自己紹介するのは、次に会うときにしましょう」
彼は、それを聞くと、大きな声をあげて笑いました。
「それがいいね。きっと」
「ええ、今は……」
吸い込まれるような空に、ゆっくりと雲が浮かんでいます。
「きっと、夢なんですから」
私たちは、なんとなくで生きています。
きっと、生まれたのには理由がなくて、
誰かに出会っても、それは刹那的なもので、
そこにも、理由なんてないのです。
初めから、
終わりまで。
だけど、
そんな宙ぶらりんのままで、一体なにがいけないのでしょうか。
理由なんてなくとも、十分なのです。
運命なんてものはなくて、
意味なんてものもなくて、
特別だって、ありません。
ただ、なんとなくで生きています。
病室には、私しかいませんでした。
本を探しましたが、有名な誰かが書いたその本も、見つかりませんでした。
引き出しにも、どこにも。
廊下から、かすかに話し声が聞こえます。
高い声ですから、きっと看護師さんなのでしょう。
半開きの扉から、廊下を覗き込みます。
看護師が、もうひとりの看護師に向かって怒っているようでした。
なにか言っています。
どうやら、彼女は何かを失くしたみたいでした。
そっと、扉を閉めました。
物を一つなくしたくらいで、あんなところでがみがみと怒るものではないと思います。
私は、ふと違和感を感じて、ポケットに手を突っ込みました。なにか、紙切れのようなものに手が触れました。
カーテンが半開きになっている窓から、光が漏れ出しています。
私は、吸い込まれるように歩き出しました。
「痛っ。足裏、切れちゃってる……」
おしまい