ミッドナイト・ランデヴー
パイプを下って降りるのは、それほど難しいことではありませんでした。
今のところ。
何より、一階降りるごとに横に伸びるパイプがあって、そこに足をかけて休めることが大きかったのです。
私は、足をそのパイプにかけて、下を見ようと試みました。
「うわぁ」
ずるっ、と私の体が落ちて行きます。
左片方だけ。
両の手が今まで以上にぐっと排水管を掴みます。
つまり、二階のそこにはパイプはなかったのです。
ともかく、私は自分が今一階にいないことに胸を撫で下ろしました。
手はふさがっていましたが。
あとは、ゆっくりと登り棒の要領で降りるだけです。
ゆっくり、とそう意識すると、変な汗が体のそこら中からにじみ出て来ます。
でも、ここまで来たからには諦めるわけには行きません。
私には、もう目標があるのです。
よくよく考えてみれば、
こんなに退屈しないことはないでしょう。
冒険です。
ようやく地面に足をつけた頃には、空は星々がキラキラときらめいて、遠くに聞こえていた自動車の音ももう聞こえないくらいの深い夜でした。
降りるのに相当時間を使ったことに若干焦りながらも、私は辺りを見回します。
一面の芝生に、ぽつんとベンチがあります。
正門前には芝生なんてなかった記憶があったので、ここは中庭か何かだと思います。
私の記憶が正しかったことなんかあんまりないですけど。
花壇を回って、中庭らしきものに出ました。
ランタン程度は準備しておけばよかったなあ、なんて思います。
それでも、星を見ながら好きに動き回れるというのは、とても嬉しいことでした。
振り返ると、一箇所だけ、開いている窓がありました。
私の部屋の窓です。
思ったより高い位置から降りてきました。
私はどうやってここを出るのか、少し考えます。
おそらくですが、中庭自体には出口はないでしょう。
どこか、回り道をしないといけません。
「ちょっと、待ちなさい!」
誰かの声が聞こえました。
声に一瞬おくれて、後ろから、ライトが照らしてきました。
思わず振り返ります。
声の主がどんどんと近づいてきました。
「あ、あなた……」
聞いたことのある声でした。
私はぐっと目を凝らしますが、ライトのせいで、人影しかわかりません。
近づいてきた彼女は、私の手を掴んで言います。
「どうやって降りてきたの?」
彼女は言いました。
目が慣れてきて、私は気付きます。
「ヴィックス看護師?」
私の声に、彼女はニコりと作り笑いをしたのでした。
「帰りましょう」
彼女が私の手をぐっと引っ張ります。
「嫌です」
私は答えました。
ヴィックス看護師は、何度か深呼吸したようでした。
そして、
「あなたは病気なのよ。戻って、はやく治さなくちゃダメよ」
と言いました。
私は、彼女を睨みつけました。
彼女と目が合います。
いつもの作り笑いの目ではありません。
本気の目でした。
「出来ません」
「どうして?」
「行かなくちゃいけないところがあるんです」
「どこ? そんなところ、ないわ」
彼女は、ふぅっ、と小さなため息をつきました。
「あなたは、混ぜこぜになっているのよ。全部ね。だから……」
「知ってます」
私はゆっくりと、言いました。
わからないことだらけです。
なんで行かなくちゃいけないのか。
なんで彼のところに行きたいのか。
たぶん、
私は、
知ってもらいたいのだと思います。
私の全部を。
だから、あんなお別れじゃなくて、
もっと、綺麗なお別れをしたいのだと、
そう願うのです。
「でも、そんなことは関係ないんです」
「え?」
「あの人のところに、行きたいんです! どうしても!」
私は泣き叫びました。
「彼に会わなくちゃいけないんです!」
叫び切った途端に、どうにも足の力が抜けて、うまく立つことが出来なくなって、その場にへたり込みます。
私の中から、わけのわからない気持ちが、溢れ出して、それは今まで感じたことのない苦しみでした。
「大丈夫よ、大丈夫」
彼女が屈みこんで、私の背中を撫でながら、優しく言いました。
「あなた、相当ひどい病気に罹ったみたいね」
彼女は続けます。
「でも、全部よくなるわ。あなたのも、もちろん、彼のもね」
私は彼女のことをぐっと抱きしめました。
「あなたにどうしてわかるんですか?」
なぜかはわかりませんが、そうする必要が、あるのです。
「私も、そうなのよ」
彼女は、私を抱きしめ返しながら、言いました。
「何が、ですか?」
「なにがでしょうね」
ヴィックス看護師は、優しく私に微笑みました。
「本当に、ごめんなさい」
私は言いました。
自然と出た言葉でした。
「なんのこと?」
「ずっと前の話です」
「いいのよ。私の、言い方が悪かったわ」
「私、あなたが私のことを……」
そこまで言った時、ヴィックス看護師は私の口に人差し指を当てました。
「私は、あなたに嫉妬してたの。きっとね」
「嫉妬?」
「そう」
「何にですか?」
「うふふ。これは本当に難しい病気なの。ここでは治せないわ。だって、私もまだ治らないもの」
「嫉妬が、ですか?」
私は彼女に聞きました。
彼女はかぶりを振って、言います。
「あなたは、何に嫉妬してるの? 違うわ。嫉妬は症状なの」
彼女は、立ち上がって、それから、私に手を差し伸べました。
「きっと、一生治らない病気なのよ。私も、あなたも」
私は、彼女の手を取りました。
彼女は、私の空いている方の手に、ランタンを手渡します。
「持って行きなさい。私と、あなたで勝負しましょう」
「えっ?」
彼女はにやりと笑いました。
「行くところがあるんでしょう? きっとこれは役に立つわ。私の場所、あなたのと違って、すぐそこにあるもの」
「先生……」
彼女はそれを聞くと、目を閉じて、静かなため息を吐きます。
「そうよ。わたしのは、そうなの。ごめんなさい」
「いいえ。あなたは、私について……」
「あら」
彼女は、腕時計を見ながら、私の言葉を遮りました。
「彼の場所はわかって居るの? ここをまっすぐいけば裏門があるわ」
彼女は立ち上がって、指さします。
「外へは、あれが近道」
「いいえ。でも……」
「でも?」
「きっと、わかります」
「どうして?」
「飛んで行くって、言ってましたから」
私は、返事を待たずに走り出しました。