その五「ライアー」
どうか、赦してください。
「嘘つき!」
ああ、誰も私を信じる人はいないのです。
「嘘つき!」
ああ、どうして私を一人にしてくれないのでしょうか。
フレディ・マーキュリー作詞 「ライアー」より
「すっきりした?」
私がシャワーから出てくるなり、バルマ看護師が言いました。
「はい。ドライヤー、ありますか?」
「ええ。すこし古いけどね」
バルマ看護師が、手で私を案内します。
ドライヤーは据え置き型のものでした。
最近になって手持ち型が発売され始めたので、古いわけではないように思いました。
「そこに座って。乾かしてあげるわ」
バルマ看護師が私を木のぼろぼろの椅子に座らせました。
見た目はぼろいのですが、案外、座り心地は悪くありません。
髪を乾かしてもらっている間、私はずっと本のありかを考えていました。
手術のことも。
手術の痕は見つかりませんでした。
でも、手術をしたか、していないかなんて、間違うでしょうか。
本だって、記憶違いで、前の個室に置いて来たかもしれませんし、そもそもストリングバッグの中に入れたままなのかも。
「あら、もう終わったわよ」
ぼうっと座り込んでいる私に、バルマ看護師は言いました。
私は立ち上がりました。
「いつになったら、退院できるんですか?」
私は言います。
「もう少しね」
もう少し。そのもう少しが、私には耐えられないくらいに長いのです。
一人部屋で窓から景色を眺めていた時から、ずっと。
部屋に帰るなり、私は本を探し始めました。
ストリングバッグのなかにはありませんでした。
ベッドの裏にも。
枕元に置いてあったはずなのに。
サイドテーブルの引き出しを開けようとした時、私は、後ろに人の気配を感じました。
「本、ないみたいだね」
「みたいです」
「残念だけど、ぼくはどこにあるか知らないよ」
彼は言いました。
「ええ。でも、じゃあ、誰が?」
振り返ることなく、私は言いました。
私は、彼を疑っていました。
私は、このことを後悔するだろうとわかっていながら、でも、疑いの方が大きくなって、我慢することができませんでした。
「あなたが持っていったんじゃないんですか?」
「え?」
「私の本を、です」
「違う」
「じゃあ、一体誰が!?」
「君は、ぼくが犯人だと思っている」
「はい。その通りです」
「だけど、ぼくは、違う。間違ってるのは、君だよ」
「違います」
「ほんとうに?」
彼は言いました。
私はびくりとしました。
「やめて」
「君だって、薄々感づいているんだ」
「やめてください!」
「本当は、全部、君なんだ」
「違います!」
私は、叫んで、そしてついに振り向いて、彼を睨みつけます。
彼は無表情で私を見つめていました。
もう、これ以上聞いてしまうと、何かが壊れてしまうと、そう思いました。
「一度、君の周りのことを整理した方がいい」
彼は、私の叫びを無視して、続けます。
「じゃあ、君は、誰?」
私は黙りました。思い出せないわけではありません。
私は、十四歳で……。
「もういいよ」
彼は言いました。
「自分のこと、なにもわかってないじゃないか」
「わかってます! 私は……」
「もうやめるんだ」
「なにを? 一体なにをやめるって言うんですか!」
私は、声の限り叫びます。
「そんなことより、私の本を返してください!」
彼は、なにも言いません。
私をじっと見つめていました。
「返さないなら……」
私は彼に躙り寄ります。
拳を固く握り締めて。
いつか、どこかでしたように。
私の小さな胸が、ちくりと痛みました。何故でしょうか。
「返さないなら?」
「こうするんです」
私は、思い切り、力を込めて、彼の頬を殴りつけました。
「君は、最低だ」
彼は、
機械みたいに、
ゆっくりとこちらを向いて、
彼らしくない口調で、
言いました。
そして、
最後には、
いつものように、
うっすらと口元を歪めて、
だけど、
まるで赤子をあやす母のような、
そんな優しい顔で、
とても悲しい目をして、
私のことを、見つめていました。
どれほど時間が経ったのでしょうか。
しばらく見つめあっていたような気がします。
彼は、振り向いて時計を見ると、私の横を通り過ぎて、窓に向かいます。
「逃げるんですか?」
私は言いました。
「逃げてるのは、きっと君だよ」
彼がそう言うと、涼しい風が、私の髪を撫でました。
長い髪でした。
私は、なにから逃げようとしていたのでしょうか。
この、小さな体の奥に、
なにを隠しておきたかったのでしょうか。
きっと、あの時から。
ずっと、私は、知っていたのです。
だけど、
もう、どうにもならないことでした。
もう、壊れてしまったのでした。
もう、溢れてしまったのでした。
だから、私は、こう言うしかないのです。
「あなたなんか、死んで仕舞えばいい」
本当のことを、言ってはいけなかったのです。
もう少しなのです。もう少しで終わります。