その四「河」
何度も、
すれ違いながら、
私たちは、
生きていく。
でも、
記憶することに、
なんの意味があるのだろう。
「あ、あの!」
私は男の子に話しかけました。
男の子は、返事こそしませんでしたが、こちらを向くことでそれに答えました。
「私の、本、みませんでした?」
「本? いったいなんの本なの?」
「たしか、天体の本だった気がします。枕元に置いていて」
「難しいのを読むんだね」
「いえ、暇をつぶしたくて」
「なら、少し話でもしようよ」
彼は言いました。
私は、それにもちろん賛成でした。ですが、それどころではありません。
「でも、本が」
「大丈夫。きっとすぐ見つかるよ。誰も君の本を盗ったりしない。そうだろ?」
彼はすこし口調を強めて言いました。
私は彼のいうことをもっともだと思いました。それに、すぐシャワーを浴びることになるので、その後に探せばいいと、そう思いました。
「そう。たまには気を紛らわせるのも大事だよ。滅入っちゃうからね」
少年は、私に無表情で言いました。
「わかりました。じゃあ、一つ聞いてもいいですか?」
「うん、なんでも」
「あなたは、入院前はどこに住んでたんですか?」
少年は珍しく俯いて、悩んでいる様子でした。
「うーん、よく覚えてないんだよね」
「そうなんですか。何歳からここに?」
「四年くらい前かな」
私は言葉に詰まりました。
そんなに前からいることを、これ以上聞いても良いのでしょうか。
きっと、私が感じていた以上に彼は何もない時間を過ごしてきたに違いありません。
「だから、抜け出すんですか?」
「ぼくが?」
「はい」
「それは、半分あたり」
「残りは、なんでしょう?」
「夢だからだよ」
「夢? 抜け出すのが?」
「それも、半分あたり」
彼は、口元をわずかに歪めました。
私は、彼の夢を聞こうとしましたが、それはバルマ看護師の来訪で遮られました。
「あら、お話中ごめんなさいね」
にこやかにわらいながら、バルマ看護師は私に近づいてきます。
「シャワーを浴びに行きましょう」
「はい」
「またね」彼が言いました。
「また」
私も返します。
私とバルマ看護師は、廊下に出ました。
廊下は若干薄暗いのですが、前が見えないほどではありません。
「シャワーはすぐそこだから。ちょっと頑張りましょうね」
「はい」
私は、彼女の数歩後ろを歩いていました。
しばらく歩いていると、廊下は十字路に差し掛かりました。
「こんにちは」
挨拶をされた方向を振り返りました。ヴィックス看護師でした。
背中を冷や汗が伝いました。
「あら、ヴィックスさん、お疲れ様」
「お疲れ様です。シャワーですか?」
「そうなの」
私は、すこし吐き気を感じました。
彼女は私に、ひどいことを言いました。
そのはずです。
ですが、なにか、違和感を感じるのです。
なにかがつっかえたような、違和感です。
「ごめんなさい」
「えっ?」
バルマ看護師が私の方を向いていました。ヴィックス看護師と雑談をしていたようでした。
「どうしたんですか?」
私は言いました。
「いま、なんていったの?」
「いえ、なんでもありません」
「そう、なら良かった。じゃあね、ヴィックスさん」
バルマ看護師はそういって、歩き始めました。
ヴィックス看護師が見えなくなるまで、見つめていました。
すこし、睨んでいたかもしれません。
シャワー室は、少なくとも数時間は使われていなかったのがすぐわかりました。
床には転倒防止のためのカバーが掛けられていましたが、これが濡れたあとがなくて、乾いていたからです。
バルマ看護師は外で待っていました。
「あつっ」
シャワーのお湯が熱くて、慣れるのにすこし時間がかかりましたが、慣れればどうということはありませんでした。
不恰好に切り取られていた石鹸は、すでに丸っこくなっていました。
だいぶ使っていたような気がしました。
私は、身体を洗うついでに自分の手術の痕を探し始めました。
傷痕がわかれば、逆算でどこを怪我したのかわかる気がしたのです。
私は手始めに腕を見ました。
手首の切り傷は、一度だけあれを試した時にできたものです。
私の手は骨がすこし浮き出ていました。身体は薄くて、とてもグラマーとは言えません。
将来にも、そんな体型になることはないでしょう。
ともかく、脇腹のあたりには傷がありませんでした。
胸のあたりにも。
そうやって探し始めると、やっぱり、どこにも縫った後は見つかりませんでした。
あと、考えられるのは頭です。
石鹸で洗うついでに、髪をかき分けるように指で頭蓋骨を撫でてみました。
でも、どこにもそんな痕は感じられません。
一体、私はどこを手術したのでしょうか。
それとも……。