その二「少年」
物語はここからが本番です。
お楽しみいただければ幸いです。
結局、私の移動はそれから三十分も後になりました。
廊下は薄暗くて、看護師の持つランプがやけに綺麗に煌めいていました。そして、私はそれを新しい病室に着くまでずっと見つめていました。
「遅くなって、ごめんなさいね」
看護師がいいました。
その看護師はバルマと言って、ヴィックス看護師よりもうんと歳をとっていました。
「いいえ。気にしないでください」
「ありがとう」
バルマ看護師がランプを持っていない方の手で、ドアを開けました。
部屋の中に入ると、あの病院特有の匂いが、少し薄れたような気がしました。
私の移動先は二人部屋です。両端のベッドが頭を窓側に向ける配置だったので、私はすこし残念に思いました。
窓から景色を見辛くなってしまったからです。
こんなことになるのなら、もっと外の景色を見ておけばよかったなぁ、なんて思いました。
今は、外が暗いので、窓の外の景色はよくわかりません。
閉じきれてないカーテンの隙間から、ガス街灯が光っているのがかろうじてわかります。
私は窓から視線を外し、部屋を見渡しました。
ベッドが両端に二つ、引き出し付きのサイドテーブルも二つ。ベッドサイドランプの重そうなガラスでできたランプシェードは、蔦のような模様が描かれています。床はフローリングでした。そしてなにより、二人部屋といっても、私の同室の人が見当たりませんでした。
「バルマさん、もう一人はどこへ?」
サイドテーブルに小さな花が飾ってあります。造花ではないようでした。
どういう種類の花かはわかりません。
母と違って、私はそういうことに疎いのです。
花瓶に描かれている花とは種類がまるで違いました。花瓶の花はとても繊細で儚いものでしたが、実際に活けてあるそれは、野暮ったいくらいに派手でした。
「さあ、わからないわ。でも、すぐに帰ってくるはずよ」
バルマ看護師は荷物をベッドのそばにおいてから、言いました。
苦虫を噛み潰したような表情で。
私は、表情の意味がわかりませんでした。
つまり、部屋から出ることを黙認しているのでしょうか。それとも、知っていて言わないだけでしょうか。
「あら、荷ほどき、私がやるわよ?」
バルマ看護師はとても元気に言いました。
あまり、私と同室の人の話題は出さないほうがいいのでしょうか。
やけに白々しいような、そんな気がしたのです。
「いいえ、結構です。なにか、恥ずかしいですし」
「あら、お年頃なのね」
バルマ看護師は可笑しそうに言いました。
「何かあったらすぐに呼んでくださいな」
「わかりました」
「それがおわったらお食事にしましょうか?」
「ええ、お願いします」
バルマさんはそれを聞くと、ゆっくりした動作でドアを開け、静かに閉めて、部屋を出ていきました。
私は、簡単に荷ほどきを済ませます。
衣服を全て私のベッドの側のサイドテーブルの引き出しに収めます。
そして、母からもらった本をベッドの枕元に置きました。
私のものを持ち運んだバッグをどうしようか、と悩みましたが、これは外套掛けに引っ掛けておきました。
夏ですし、問題ないでしょう。多分。
しばらく、そうやって荷物の整理をしていたら、バルマ看護師が私の食事を持ってきてくれました。
「早く元気になるのよ」
彼女はそう言って、私のベッドのテーブルを展開して、食事を置いてくれました。
全く美味しくありませんでした。
私は、ヴィックス看護師に言ってしまったことを後悔していません。
彼女が悪いと、そう思っています。
私は彼女になぜそんなことを言ったか聞くために詰め寄ったのです。
他意はありませんでした。
他人の目のあるところで、あのようなことを言っておきながら、それを追及されると傷ついて逃げていくなんて。
彼女は、結局、私の質問には答えずに、部屋から飛び出て行きました。
それが、なんとなく後味の悪いことなのです。
私は、考え事をしているうちにじわじわとご飯の味がさらに不味くなっていくのを感じました。
なぜか、いてもたってもいられなくなります。
今すぐ体を動かしたいという気持ちに負けて、私は振り向きました。
後ろは窓でした。
外は相変わらず真っ暗です。
私はすこし考えます。
私は、後悔する必要などない、
と自分に言い聞かせました。
だけど、
心のどこかで、
後悔をしているのでしょうか。
何故でしょう?
私は窓を見つめ、
ある手段を考えます。
それは、簡単にこの鬱屈した状況から解放される方法でした。
きっと、最後の手段としてはこの上ないものだと思います。
ガチャリ、という音に、私はびくりとしました。すぐドアに向き直ります。私は、すっかりこの音が嫌いになってしまったようでした。
ドアを開けたのは、男の子でした。
私は、彼をどこかで見たことのあるような気がして、ずっと見つめていました。
彼は、私の視線、もしくは私の存在自体に気づくと、こちらを無表情で見つめ返してきます。
彼は私の向かいのベッドに、顔を私に向けたまま歩いていきます。
とすん、と絶妙な勢いのなさで座りました。
そして、彼の目が私から離れ、宙を泳ぎます。
私と同い年か、一つか二つか年上のように思いました。
彼は、再び私に視線を向けて、言いました。
「きみ、前からここにいたっけ?」
私は一瞬戸惑います。記憶の中の私の前にいた人と、私とを比べているのでしょうか。そうでなくとも、この質問はおかしなものだと思います。つまり、直接本人に尋ねる必要のある作業のように思えなかった、という意味です。
「いいえ。違います」
私は答えました。とにかく、早く言葉を出さなければ、と思ったからです。
もしかしたら、彼が私の話し相手になってくれるかもしれないのですから。
私の退屈な入院生活を変えてくれるかもしれないのですから。
そんなわけで、私はなるべく早く答えましたが、彼はベッドに横になって、
「よろしく」
と言いました。
「よろしくお願いします」
私は返しました。
彼はベッドに寝転んだまま動く気配がありません。
つまり、彼はもう話すつもりはないようでした。
私はちらりと時計を見ました。
まだ消灯には早い時間でした。
でも、また明日もあります。
明後日も。
長い長い明日があるのです。
だから、今日はもう眠ることにしました。
ベッドに体を横たえます。寝るのは簡単です。息をすることだけを考えていれば、自然と眠ることができます。
しばらくすると、ガサガサと何かを動かす音が聞こえました。私は目を開けます。
ちょっとしか経っていなかったはずですが、部屋の電気はすでに消えていました。
あの男の子が消したのでしょうか。
そんなことを思いつつ、よく目を凝らすと、そこは病室ではありませんでした。
学校の寮の中です。
自室でした。
長い夢を見ていた気がします。
思い出しました。
私は、誰かに呼ばれていた気がしました。
そう。
誰かに呼ばれていたのです。
でも、何処に行けばよかったのでしょうか。
とりあえず、私の部屋ではなかったように思いました。
私は、自室を出ました。
長い廊下に出ます。窓からの景色はとても綺麗でした。静かな森です。
大きな建物がなくて、ガス灯が道を照らしてもいません。鈍色の都会とは違いました。
大きな建物の代わりに広い田畑と大きな木が窓の景色で、ガス灯の代わりに星明かりと月明かりとが景色全体を照らしています。
私は、ぼんやりと景色を眺めながら廊下をひたすら歩き続けます。
窓から覗き込むような月明かりが、埃を反射させて、きらきらと廊下を舞っていました。
やがて、廊下の終点まで来てしまいました。ここは最上階でしたので、もう階段を降りるしか方法はありません。
屋上へは、反対側の階段を利用する必要がありました。夜は鍵がかかっているので、その階段を使ったからといって行けるわけではありませんが。
私は、こっそりと屋上の入り口のそばの窓を開けておいて、夜に星を見にいくのが好きでした。寮監に見つからないで行く必要がありますが、それでも星を眺めることにはそれ以上の価値があります。
小型の貯水タンクの裏に、片手持ちできるような、とても小さな望遠鏡を布で隠してあります。
それを使って星を覗くのです。
同じ部屋のジェニファー・スミスと何度も見に行きました。
そんなことを考えていると、私は階段を降りきっていました。
「お、やっと来たか」
階段の裏から声が聞こえました。私は、少しびっくりしましたが、声の主が、私を呼び出した人だと気付いたので、ゆっくりと振り向きました。
「約束しましたから」
私は肩をすくめます。
彼が階段裏からひょっこりと顔出します。ジェームズ・ティーデマンです。
どうやら、階段の裏の荷物に紛れて隠れていたようです。彼が荷物から這い出てきて、私のそばに近寄ります。
踊り場の月明かりが私と彼とを照らしていました。
「どうしたんですか? 規則違反ですよ」
私は言いました。彼は制服を着崩していました。その割には、髪の毛はワックスでかっちりと決めています。どちらにせよ、彼は規則違反を犯しているのでした。
「お前が言えたことじゃないだろ」
彼はニヤリと笑って言いました。
「確かに」
「なぁ、その、言いたいことがあるんだけど」
「なんです? 女子寮まで来るんですから、とても大事なことなんでしょう?」
「そうなんだ」
「ええ、寮監に見つかる前に、早く」
一拍おいて、彼は言いました。
「君のことが好きだ」
「はぁ?」
「付き合ってくれよ」
ジェームズの顔が見えません。
見ていなかったのかも。
「嫌です」
私は彼の提案を断りました。
「どうしてだよ! おれは”サー”だぞ! このおれが付き合ってやるって言っているのに!」
彼はとても早口に言いました。私は彼の顔をじっと見ます。
真っ赤になった彼に、私はまだ彼がサーじゃないことを指摘しようかすこし悩んでから、言いました。
「あなたが何と言おうと、お断りします」
恋愛に興味がないわけではありません。むしろ、その逆です。
自分が好きな人が、自分のことを好きだ、なんて素敵なお話が世の中に溢れていれば、きっとクリスマスまでに世界大戦は終わりましたし、毒ガスが塹壕にばら撒かれませんでしたし、彼の国の王様はあのプランを発動することすらしなかったと思います。
それくらい素敵なことで、それくらいの奇跡だと、少なくとも私は考えています。
だから、彼と私がそうならなかったことに、真っ赤になるほど怒る理由なんてありません。
たまたま、私たちで無かっただけなのです。
彼は、私を睨んでいました。
何か言いたげに。
私は、彼を睨み返してやりました。
彼のことが、嫌いではないのです。
彼のことが、好きじゃないだけ。
「ゆるさねぇ」
彼は眉間にしわを寄せて言いました。
「どう許さなんですか?」
「こうするんだ!」
彼は、私に手を伸ばします。
それを叩いて避けます。
彼はその手を引っ込めることなく、一層顔を醜く歪ませて、私を睨みつきます。
私は踵を返し、階段を駆け上がって、叫んで、彼が私の名前を叫びながら近づいてきて、そして……。
私は、自分の叫び声で目を覚ましました。
叫び声すら出していないかも知れませんが。
なにかとても良くない夢を見ていた気がしましたが、なんとなくしか思い出せませんでした。
ですが、それは作り物の夢ではなくて、確かに経験したことなのだと、そう感じました。
去年の、あの時のことだと、そう感じたのです。
よく見る夢の一つでした。
夢の中では自由だとか、夢の中では素敵な人生だとか、そんなことを言う人がいますが、私は違います。私の夢は、少なくとも楽しいものではありません。
私の身体は、汗でびっしょりでした。
頭もなんだかぼんやりしています。
体を起こすことにすら苦痛を感じました。関節がとても痛みます。
なんとか上半身を起こして、サイドテーブルの引き出しを開けようと、手を伸ばしましたが、なかなか届きません。
その時、涼しい風が私の頬を撫でます。
「あれ、起こしちゃったかな?」
あの男の子でした。
開け放たれた窓に寄りかかっています。
一つ前の病室で、
あの窓からみた、
白い服を着た男の子。
病的な色白さで、
ひょろりとしていて、
黒い髪をした、
あの。
月明かりが影になって、彼の顔はよく見えませんでした。
「あなたは?」
私の声は、自分でもよくわかるくらいに掠れていました。声とともに、熱い息が吐き出されます。
「ぼくと一緒に来る?」
「どこへ?」
男の子は、にっこりと笑って言いました。
「どこだろうね? でも、きっと楽しいよ」
手が差し出されます。
彼は、私をどこに連れて行こうと言うのでしょうか。
とても素敵な場所のようにも思えます。
でも、私が彼の手を取ろうとする前に、彼は私の額にそれを当てました。
「熱があるね。看護師さんを呼んできてあげるよ」
「何しに行くんですか?」
「別に。ただ、暇を潰したいだけ」
「窓から?」
「そう、窓から」
「どうやって?」
「どうもしないよ。飛んで行くのさ」
「ふふっ、可笑しい」
「そうかな?」
そう言うと、彼は窓の外の何かに足をかけたようでした。
「じゃあね」
そういうと、彼はゆっくりと窓枠の外に姿を消します。
私は、「やっぱり飛ぶなんて嘘じゃないですか」と言ったつもりですが、それはすでに言葉になっていませんでした。もう体を動かすどころか、口を動かすことすらとても億劫に感じています。
それでも、ゆっくりと顔を横に向けます。
隣のベッドの男の子が気になったからです。つまり、彼はこの小さな騒ぎに何を感じているのでしょうか。あの、死んだ目をした男の子は。
羽毛布団にくるまって、彼は眠っているようでした。
彼は起きてすらいませんでした。思えば、私もあの悪夢を見さえしなければ、起きることはなかったのです。
もう瞼を上げていることに耐えられませんでした。
遠くから、足音が聞こえてきます。
小走りで、急いでいるような、そんな足音です。
でも、次の瞬間にはそんなことはどうでも良くなっていました。
そして私は、重くて気だるい、まとわりつくような眠りに落ちて行くのでした。
全部で六話の予定です。