その一「愛想笑いで」
お楽しみいただければ幸いです。
私の十と四年の年月のなかで、これほどまでに嬉しく感じたことはありませんでした。私自身、まだ死ぬことはないだろう、と高を括っていましたので、手術が成功しても、やっぱりな、程度にしか思わないだろうと考えていたのでした。
しかし、目が覚めて、白い天井と私の両親が視界が入った時、想像以上の喜びに包まれたのです。
私は、生まれて初めて、嬉し涙を流しました。それも、父が私の頬を指差してくれるまでは、涙を流したこと自体に気付きすらしませんでした。
ぽろぽろと流れている涙を見ても、自分のものと気づくのには時間がかかります。
頭が、一瞬、理解することを拒むのです。ゆっくりと状況を把握して、そして、認識します。
何もないこの隙間の時間を、私は心の整理の時間なのだったのだと、今は考えています。
どこかで、大したことはないと言い聞かせる自分と、生きることを諦め始めていた自分がいたような、そんな気がしたからです。その二人が、私のために、消える間際に時間を作ってくれたのだと、そう考えています。
父も母も、手術の成功を、とても喜んでいました。
よかったね、と何度も言いながら、私のことを抱きしめて、キスをしました。
看護師や、医師の前でそんなことをするものですから、恥ずかしくて死にそうな思いでした。
よく、これ以上やって欲しくないなぁ、なんて思ったものです。
しかし、その心配は全く無用でした。
時間が経つにつれて、父も母も面会に来てくれなくなりました。どちらもきっと、多忙なのだと、私は思っております。
うとうととした昼寝から、私は目覚めました。夢なのか、それとも現実なのか、いまいち区別のつかない、物足りない寝起きでした。遊園地を楽しんで、出てきた時の、あの感じによく似ています。
顔を窓の方に向けると、日差しがカーテンの隙間を突き抜けて入り込んでいるのがわかります。
一人部屋には、私が体をもぞもぞさせているその衣摺れの音しかしません。
私は、ベッドからゆっくりと身体を起こしました。そして、綺麗な刺繍の入ったカーテンをどけます。景色を見ることにしたのです。どれも背の高い建物ばかりで、私みたいな田舎者に対して、都会の威厳を見せつけていました。
煉瓦造りの家が多く、道は舗装され、車がびゅんびゅんと行き交っていました。
こんな数の車をみるのは、この街が始めてでした。さすが、首都だけはあります。
これは、私が病院生活の中で見つけた、数少ない楽しみの一つでした。
毎日毎日同じ景色ですが。でも、しばらくはこれで時間が潰せそうだと思っています。
わたしは、道行く人を観察しはじめることにしました。みんな、普通の格好をしています。スーツ。おそらく何処かの会社に勤めているのでしょう。カジュアルなワンピース。お買い物でしょうか。ストリングバッグを持っています。軍服。杖をついていましたが、背筋はぴんと伸びて、歩みが乱れることがありません。学校の制服。おそらく帰宅しようとしているのでしょう。友人と話しながら歩いています。
私は、きょうもなんだかフツウだなぁ、なんていつもの通りに思いました。そんな時、私は道の端をこそこそと歩く、真っ白の服を着た少年を見つけました。
彼は、私の病室とほとんど平行になっている道を歩いています。病院の前の道です。面白い、というかは不気味な印象を受けました。その服は、まるで囚人服か何かのようでしたから。こんな暑い夏に長袖を着ているのです。怖くはないけど、なにか小気味悪い。そんな感じです。彼は私と同じくらいの年齢だと思います。
人が沢山いるなか、道路の端をこそこそと歩いています。やがて、パン屋の前を通ると、少年は人ごみの中を縫うように歩き始めました。交差点で、信号旗が変わりました。その少年も、他の人と同様に、横断歩道の手前で止まります。不思議なことに、そこにいる人々は、彼に目もくれません。また、信号が変わります。
彼は、車道を渡ると、小走りになりました。そして、私からは見えない路地裏に消えて行くのでした。
車に混ざって馬車が通り過ぎていきました。
私は、なんだかふしぎなものを見れてよかったなぁ、なんて単純に思いました。
そういうわけで、今日の観察はおしまい。今度は仰向けになって天井を眺めることにしました。
あんまり長い間眺めていると、もしかしたら飽きてしまうんじゃないか、とそう思っているからです。
暑苦しく感じたので、私は丁寧に布団を剥がし、自分の足下にたたみました。
冷え症なのか、足を何かで温めておかないと、私は逆に落ち着かないのです。
そうして厄介な夏の暑苦しさから解放された私は、自分の過ぎる時間がゆったり過ぎることに絶望します。
「はぁぁ」
天井に向かって、特大の溜息を吐きました。しかし、私史上最大のそれは、どうやら天井にすら届かないようです。
天井を吹き飛ばすくらいのため息だと思ったのですが。
私は、病院の生活が嫌いで嫌いで仕方ありません。
ゆったりとしすぎているのが気に入らないのです。
のんびりと過ごしていると、一つの焦りが自分の中で浮かんできます。私は何をしているんだろう、と。
しかし、それは小さなマッチの灯のようなもので、ふっと、軽い息を吹きかけるように、意識して無視することができるものでした。
今も、そうするために、起き上がって棚から本を取り出しました。
母がくれたものでした。小難しい本で、何を書いてあるのかよくわからりませんでした。
私は小説などはあまり好みません。どちらかというと、外で走り回っている方が好みなのでした。
近所の男の子たちと遊んで帰ると、母が「困ったおてんば娘ね」なんて言って、いつもの愛想笑いをしながら、すこしがっかりした様子だったのを覚えています。
母が面会に来てくれた時に、新しい本を持って来てくれるように頼んだこともありました。その本は、私にとってあまりにもつまらないものでしたから。
私の母は物忘れが多いほうなので、それを覚えているのかはわかりません。
ガチャリ、と音がしました。私はドアを向きます。入ってきたのは、私の担当医のシェイパー先生でした。
「やぁ。調子はどうかな?」
「私ですか?」
「個室だよね? 君以外に人はいないとおもうけれど」
シェイパー先生はいたって真面目に言いました。
「少なくとも、あなたの髪の毛よりは、大丈夫かと」
「いやぁ、手厳しいな」
彼は言うと、ベッドの横にあるパイプ椅子に座りました。
「まぁ、今日はきみと少しお話ししたいと思って」
先生は言いました。
私は、棚の上に本を置いて、先生の顔をじっと見つめます。
「きみの退院がおもったより早くなりそうだよ。さすが、子供はパワーが違うなぁ」
「そうなんですか」
「うれしくないの?」
「とても」
「素晴らしい。じゃあ、提案なんだけど」
彼は一つ咳払いをします。
「きみに部屋を移ってもらいたいんだよね」
彼は言いました。
「いいですよ」
私がすぐに返事をすると、先生は少々面食らった顔をしました。
「あれ、もっと嫌がるかと思ってたよ」
「治ってるってことですよね」
「それを理由にしようとしてたところなんだ」
先生は、少し禿げた自分の頭を撫でます。
「うーん、この後すぐでもいいかな。お母さんにはもう話したから」
「母はきているんですか」
「いや、電報だよ」
「あぁ」
「それで、いいかな?」
「何がです?」
「つまり、相部屋」
「大丈夫です」
「どっち?」
「どっちも」
「それはよかった」
彼は言うと、かちこちの作り笑いをして、部屋を出ていきました。
私は、先生のことは嫌いではありません。ノックをしないところは嫌いですが。
私は気分が悪くなってしまいました。先生のせいなのか、母のせいなのかはわかりません。
私は、母が面会に来てくれることを願っていたのでしょうか。忙しいのはわかっています。諦めたはずでした。
夕日が沈みかけています。
しばらく部屋の荷物を片付けていました。とはいっても、その数はとても少ないのです。手鏡やらが入ってる小さなポーチ。着替え。そして本。これが私の全財産です。なので、整理はすぐに終わってしまいました。
気づいたら、夕日は沈んでいました。
外は、もう真っ暗です。
私は、院内の散歩にでも行こうと考えて、立ち上がり、スリッパを履き、ドアノブに手を伸ばそうとしました。
私は気付きます。
ドアが半開きでした。
「まったく、シェイパー先生は本当にこういうところは抜けてますね」
そう言って、ドアを開こうとしたとき、聞き覚えのある声が廊下から聞こえてきました。
「……ったく、あの子、いつもシェイパー先生に迷惑をかけているのよ」
私は、自分でもわかるくらいに硬直しました。
嫌な汗が、背筋を一瞬だけ伝います。
いったい、誰の話でしょう?
「まぁまぁ、あまり気になさらないで。……十四でしょう?」
十四! 私の年齢でした。私のことを言っているのだと、確信しました。
「嫌ですよ。……なんでしょう? だいたい……」
ここまで聞いて、それが誰の声がわかってしまった私は、ドアを勢いよく閉めました。散歩はやめです。
最悪でした。
もしこれが、私宛の悪口ではなかったのだとしても、許してやるつもりはありません。
私はそのまま後ずさって、ベッドに仰向けになったまま、倒れこみました。
私の部屋に、「彼女」が来て欲しくない、と思いました。
大抵そういうお願いというものは叶わないものですけど。
すこしくぐもった、がちゃり、が聞こえました。
隣の部屋が開かれたようです。
これが「彼女」だったらいいなぁ。
足音が近づいて来ます。
ノック。
「いらっしゃいますか?」
この声に、私は軽く失望しました。しゅん、とあらゆる希望が萎んでしまって、あらゆることに対する気力が失せてしまいます。
このくらいの願い事、叶えてくれたっていいじゃないか、と私は思いました。
そう。私の病室をノックしたのは、案の定、「彼女」でした。ヴィックス看護師です。
「あれ、大丈夫ですか?」
ヴィックス看護師は、ドアを開けました。
ヴィックス看護師は、私がだらしなくベッドに仰向けになっているのを見ると、笑みを浮かべながら近づいて来ました。
「ダメですよ、こんな寝方しちゃあ。さぁ、お荷物をお持ちします。移動しましょう。よろしいですか? レディ……」
「ちょっと待ってください」
私は手を突き出して、彼女の言葉を遮りました。
「ええ。どうぞ」
ヴィックス看護師はにこにこしながら言って、綺麗に立っています。
私は、それを見て気持ち悪くなりました。
どうして、悪口を言った人の前でこんなことが言えるのだろう。
大人は、みんなこんな感じなのでしょうか。
大人は、みんなこんなに醜いものなのでしょうか。
優しい母も。冷静な父でさえも。
「ご気分がよろしくないのですか?」
看護師が気取った足取りで近づくのに、私は耐えられず、言いました。
「私が? 気分が良くないのは、あなたの方でしょう?」
思ったよりもするりと出た言葉でした。私のイメージでは、悪口というものは、もっとねっとりとしていて、言った側も気分の良くないものと思っていたのです。
ヴィックス看護師はぽかんとしています。
「あなたに言ってるんです。ヴィックス看護師」
私は彼女を睨みました。
ヴィックス看護師は焦ったような顔をしました。それから、困ったような、笑ったような顔を作って言いました。
「ご気分が優れないのでしたら……」
「ちがう!」
私はすこし語気を強めて遮りました。
「よくそんなにこにこしてられますね」
「え?」
「嫌いなんでしょう? 仕事だからですか? 私も、それはそれは感謝してますよ。あなたみたいな人がいると知って大変勉強になりましたから」
私は湧き上がる気持ちを抑えられませんでした。
ヴィックス看護師の顔から笑みが消えました。
私はそれを見て、一瞬だけ胸に痛みを感じました。
ですが、ここで引きさがれるものでもありません。
性格でしょうか。
「あなた、廊下でよくあんなことが言えたものですね。羨ましいです」
彼女が一歩あとずさりました。
「あ、あの、それは……」
彼女がごもごもと言い澱みます。
私はため息を吐いてから、言いました。
「恥ずかしくないんですか? 大人のくせに」
今後ともどうかよろしくお願いいたします