2
次の日、僕は考えを整理することに時間を費やした。信じてみようとは決めたものでも、まったく完全に信じてはいけないと思っていたし、それを心のどこかに持っていないといけない気がしていたから。
その日は、すごく晴れていて誰がどう見ても晴天だった。
こういうすっきりとした天気は僕好みではないと思いながら、町を散歩していた。春や秋に感じる、ぬめっとした季節独特の暑くも寒くもない湿潤な空気が好きな僕は、やはり変わっているのかもしれない。
とにかく、あてもなくただ歩いた。目的のない道というのは、周囲に気をつける事ができる。
そうやって周りを見回していると、建設途中の一軒家が目に入った。
丁度基礎工事が終わったのか、鉄の型枠をばらしているところで、仕上がったきれいな基礎が目に入った。そこに土台が緊結されて、柱が建って屋根を伏せて、壁を起こして、それから内装を仕上げる。
アーキテクト設計というからには、建築関係の設計事務所なのだろうと考えていたせいもあったのか、昔の記憶から探り起こしたイメージが、仕上がった基礎を見て湧き上がる。
少しだけ浮足立つものがあった。
次の日、言われた通りの時間にカフェ杏樹につくと、店の前のマットで土を落とす振りをしてから、思い切って扉を開けた。マットの上に自分の中の迷いも払って置いてこれたと思う。
店に入ると、モダンで落ち着いた大人の店をかたどったデザインと、それに見合ったマスターが出迎えてくれて、軽く会釈を交わした。
アイスコーヒーを一つ注文すると、店の端にいる三十代くらいの女性に、こっちこっちという手振りで席を示されたので、訝しい顔をしながらも席へと向かう。
不思議と近くで見たほうが若くて綺麗な人だった。
すこしほっそりとした身体に、グレーのパンツスーツが身体のラインをより引き締め、キャリアウーマンという印象を受けた。
「初めましてだね。私がメールした中川です。よろしくね」
そう言うと、見た目とは違って少し使い古した感じのバックから、大きめの名刺入れをを取り出して、そこから一枚取り出すと、丁寧に渡してくれた。すごく綺麗な手で握ってしまいそうになって、思わず顔を赤らめてしまった。
「ん?どうかした?」
「いえ。名刺持っていませんので、受け取り方を迷いまして」
名刺交換が出来ず、ぎこちなく名刺をしまうとそのまま話を続けた。
「ところで、どうやって僕の事を知ったんですか?」
「うーーん。まぁそれは聞きたいよねぇ。簡単に言うと、君って高校を出てから三年間だけ空白というか、世間的には何もしてない時間があったよね。その三年間の話をすこーしだけ聞いて、君に興味をもったっていうとどう?」
言葉に詰まった。隠しているつもりではなかったけれど、僕はその時間について誰にも話したことがなかったから。
「そうですか。どこでお聞きになったんですか?」
頼んでおいたアイスコーヒーが届いたので、少しだけ乾いたのどを潤した。
「以前関わった物件のクライアントに、紹介された人から聞いたんだ。えぇっと、別にそこに何か問題があったという訳ではないから安心して。それより今日は面接というか、入社に際しての条件とか、そういった話をしに来てるからその方面の話をしよう」
そう言うと中川さんは、クリアファイルから何枚かのA4用紙を取り出して、僕のアイスコーヒーを端に寄せてから、目の前に置いてきた。
「とりあえずそこに書いている程度の知識と、学んでいこうっていう君の気持が今あるのなら、早速きてもらっても大丈夫なようにしてあるから」
雑に目の前に置かれた資料を、きれいにまとめてから読み始めた。
これといって不思議なことは書かれてはいなかった。
就業時間や、給与面の問題。口外禁止義務など、当然のような事が書かれていた。しかし、途中から住宅基礎の種類だったり、住宅に使用する木材の特徴、建ぺい率や容積率の計算方法といった程度の建築基準法が載っていた。
読み終わると、中川さんは僕の表情の変化を感じたようで、嬉しそうに聞いてきた。
「大丈夫そうだね」
返事をする間もなく、彼女は先ほどの少し使い古した感じのカバンから、今度はA3用紙を取り出して手渡してきた。
赤ペンでびっしりと修正すべき内容をチェックされた図面だった。
「一枚の図面を見ただけじゃ、どこまで出来るかなんて判断できないのだけれど、うちも少しだけ人に困っててね。そういう話を以前のクライアントにすると、ちょうど仕事に困っているかもしれない君がいたってわけ」
間違いなかった。なにより製図者の名前が僕になっているのだから。
「久しぶりに見ましたが、これはひどい図面だと思いますよ」
「そうだね。欲しいところに必要な高さがなかったり、不必要なところに十分すぎるスペースがあったり、いろいろと拙い感じがでてるね」
確かに、まだまだこの時はスケール感もなかったと思う。といったって、そのころに比べて今はまだましと言えるくらいの違いなのだけれど。
「ちょっと手厳しかったかな?この図面は参考程度にしか見ていないから、安心して」
そういうと中川さんは楽しそうに顔をほころばした。
少しサディスティックなところでもあるだろうか。
「そうだったとしても、この程度の僕を雇って戴ける理由が、未だに曖昧な気がするのですが?」
「うーん。とりあえず全部は言えないのだけれど、私達はね、誰でもいいから雇うってことは当然ないんだよね。凄い知識と実績がある人でも雇わない場合もあるし、君みたいなある程度の人でも雇ってしまう事もあるの。
その条件というのは私に決定権があるわけじゃないから、詳しくは言えないのだけれど、とにかく君は今仕事を探していて、困っている。私達は君の事を他よりは分かっていて、さっきの図面がその証拠。っていうのだと少し信頼を得るには足りなかったかな?」
中川さんは肩をすぼめて視線を合せてきた。
「普通の人なら素姓の知れない会社に、急に勤めれる事になると言われたら、当然怪しむと思いますし、予想以上の条件でしたので」
「ん??」
首をかしげながら、中川さんは今日初めて真面目な顔をして、僕を見つめた。
「君ってね、ネットとかで私達の会社を事前に調べていなかったりする?」
言葉通り本当に、鳩が豆鉄砲をくったような顔をしてしまった。
その様子をすごく楽しそうに笑いながら中川さんは見ていた。
「ごめんごめん。うん。納得、納得。君はユーモアのセンスでも合格だったと思うよ」
恥ずかしさと多少の嬉しさが混線して、自分でもよくわからなかったのだけれど、とりあえず笑う事は出来た。
------続------