( 3 )
俺の目的はねーちゃんを転院させることだ。
昨日そのねーちゃんの頼みを聞き、神社の様子を見た。おかげ様でクソ妖怪とお近付きにまでなった。よってねーちゃんは転院する筈であり、俺の努力は報われた筈なのである。
それがどうして、
「俺はまたここに居るんだろうな……」
鳥居である。境内である。つまり神社である。
……マジどういうことなの……。
■
神社の様子を確認し、紫ねーちゃんに報告したのが昨日のこと。
ねーちゃんの話じゃ神社にはちゃんと神様が居て、俺もガキの頃に会っているらしい。まったく覚えていないのだが、ねーちゃんが言うのだからそうなんだろう。そして俺があっさりと外道丸の言葉を信じたのも、その辺りが理由なんだと思う。
そういえばこっちへ遊びに来ていた際、ねーちゃんの他に誰か一緒に遊んでくれていた人が居た様な気もする。思い出そうとしても、ただ醒める様な真っ白い人影がちらりと脳裏を掠めるだけではっきりしない。十年近く前のことだし、仕様がないんだろう。
まぁ、正直今はそんなことどうだっていい。
とにかくねーちゃんは転院してくれるという話なのだ。つまんないことは忘れて、今日は転院の準備を手伝おう。
――と、思っていた時期が俺にもありました。
「え」
「え」
一音の往復の後に、虚しい間が訪れた。
口元の笑みをそのままに、きょとんとした両目をぱちぱちと瞬かせる紫ねーちゃんと恐らくアホ面の俺が、制止した時の中で対峙していた。
「ちょ、ちょっと待って。転院、するんだよね? ねーちゃん」
「……どうして?」
相変わらずぱちくりとしながら、ねーちゃんは首をこくっと傾げる。
「いや、だって、昨日言ってたじゃん」
そうだ。昨日ちゃんとそういう話をしたんだ。だから俺は山登って神社行って。
『ねーちゃん、もう何度も聞いたと思うけど、ここより設備の整った都会の病院へ移ろう』
『なるほど。彰ちゃんも姉さんに言われて来たわけだ』
『母さんに言われたからってだけの理由じゃないよ。治るかもしれないものを放っておくなんておかしいだろ。それに、最近は一段と良くないって聞いてる。早く転院した方がいい。神社のことなんてそれからでもいいだろ』
そこまで言うと、ねーちゃんはふっと窓の向こう、遠くお山を見上げて、言ったのだ。
『ねえ、彰ちゃん。ひとつ、頼まれてくれるかな』
――と、こういう会話が、あったじゃないか。
って、ちょっと待てよ、まさか……。
「ね、ねーちゃんさ、昨日神社の様子見に行って欲しいって言ったの、あれ何で?」
「うん? そうねえ、入院してから一度も御山を登ることが出来なかったから、この機会にって思って」
う、うん。そうだよな、そこは、そうだよな。
「じゃあ、さ、その前に俺が何話してたか覚えてる?」
「転院の話、よね。あ、そうだ。ごめんね。そういえばまだ話の途中だったのに、『関係の無いお願い』なんてしちゃって」
…………う。うおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!
関係、の、無い、お願いっ!
転院しよう→じゃあ神社見て来てね→ハッピーエンド! じゃ、なかったああああっ! 確かに『じゃあ』とか『だったら』とか一言も言ってなかったああぁぁうおぉぉぉ……。
「えっと、どうかした? 彰ちゃん……?」
「へ、へへ……。俺も大概だけど、ねーちゃんも天然だよね……」
悶絶する俺を不思議そうに見つめるねーちゃんをよそに、己のマヌケぶりに暫く再起できない俺なのだった。
「あ、あらあ、そういうことだったの」
死に体で一連の行き違いを説明すると、ねーちゃんは苦笑しながらごめんなさいした。いや、まぁ、俺が都合よく解釈してしまったのも事実なので、責めるつもりは無いのだが。
「それで、ねーちゃん。やっぱり転院してくれるつもりは無いのかな」
「そうねえ……。あ、そうだ。ねえ彰ちゃん、もうひとつお願いがあるの」
……え? どういうこと? この人もしかしてSなの?
「えーと、紫さん? そのお願いを聞いて差し上げた場合、紫さんは転院して下さるのでしょうか?」
「それは勿論――」
俺のその隙の無い問いかけに紫ねーちゃんは――
■
そんなわけで神社である。
今日も今日とて目立ちたがりの太陽はピーカンで、絞り切った雑巾みたいな水分量の俺は、有る筈の無い自販機を幻視する始末である。
「あー……えらく黒い自販機だな……。コーラしか売ってねえのか……?」
目の前の背の低い自販機にふらふらと近付いて、ボタンを探す。炭酸は苦手だが、この際冷たい飲み物なら何でもいい。
「ああ、これか」
他より僅かに、慎ましく隆起したラインを見付けて安堵する。茹った頭のせいかはっきり見えないが、ボタンがあるとすればこの辺りだろう。
「……ぬしは何をしとる」
適当にボタンを押し込もうと指を伸ばして、凍り付いた。
「自販機が! 喋ったっ!」
すぱこん、と頭をはたかれた。
「誰が自販機かよ」
田舎の自販機には理不尽なツッコミ機能まで付いているらしい。田舎パネェ。
と、どこかで聞いたことのある声に顔上げると、見知った顔がそこにあった。馬鹿みたいに長く黒い髪に、対照的な白い肌が眩しい妖の少女、外道丸。
「あれ、お前何してんの……?」
「それはこちらの言葉よ。……助平をこじらせたか」
じっとりとした視線が下がっていくのを追いかけて、自分の指を見付けた。……あれ?
目の前には自販機でなく外道丸が居るわけで、出っ張りにはボタンなぞ無いわけで、つまり俺が押下しようとしているこの膨らみは――
「顔を合わせるなりおなごの乳を突こうとは、救えんのぅ」
地平の果てから光の速さで駆けてくる正気はとっくに遅刻上等で、
「ぎゃ、――――」
目前の状況を理解した俺の、声に成らぬ絶叫だけが真っ青な空へ高く高く木霊していくのだった。