(二)
十着目の着物を衣紋掛けに通した時、先ほど替えたばかりのシャツがペタッと体にひっつく感触を覚えた。汗を掻くというのは本来、体温を下げるための生理現象であるとテレビで見たことがあるが、今の俺にとっては不快指数を上げるための生理現象でしかない。
額にもジトリと汗が浮き出てくる。くっそ。消費税上げてもいいから代わりに湿度下げてくれ。
一応、今日の目標である着物は全て衣紋掛けにかけ終えた。着物を干すとき、直射日光はご法度だ。強い日光に当てると色が褪せたり、生地が傷んでしまう。だから着物を干す時は直射日光が当たらない、風通しの良い場所で干さなければならない。そのための作業として、ゴチャゴチャと散らかっていた蔵を片づけた後、蔵に浮遊していた埃を蔵から出し、広がった空間に着物を干した。先程台所から戻るときに何となしに付けてきた腕時計に目をやると、針は真上で止まっている。もう昼になったのか。
仕事を始めて早3時間が経過していた。どうやら干すことよりも蔵の片付けに時間を喰ったようだ。朝からの作業だったので相当しんどい思いをしたが、こうやって花柄の着物や鶴の絵が入った着物が蝶のようにその体を広げているのを見ていると、苦労した甲斐もあったというもの。
そう思わなければやってられない。
今日干しているのは来週、隣町で開かれる花火大会に着ていく物だそうで、3つか4つの家族から予約が入っているそうだ。祖母からのメモには、そう書かれていた。
気分が急に沈んだ。別に他人の幸せが憎いというわけではない。実は俺もその花火大会に行く予定だったのだが、夏休みの始まりにその計画は潰れてしまったのだ。一緒に行くはずの...まあ彼女にメールで振られてしまった。OH men…なんてこった。自分で言って悲しくなってきた。いやもう大丈夫だけどね?
チクショー急に顔から汗がすげえ出てきやがった。
汗と一緒に急に込み上げてきた欠伸を外に出したあと、俺は蔵の外へと出た。
日差しは正午になってさらに眩しさと暑さを増した。今日はこれから3~4時間着物を干すから外には出ないが、この日差しだと用事がなくても外には出たくない。仮に今をときめくアイドルが水着姿でやって来て、「雪駄君!!一緒に外に行こう!!」と言われても遠慮するだろう。
やっぱりちょっと考えるかも。
なるべく光に当たらないよう、早足で庭を突っ切って家に入った。するとスイカを頬張りながら、単衣が出迎えてきた。視界の端に見える居間の畳には、白い皿に乗せたスイカが数切れある。俺が昼に食べようと思い、さっき切ったスイカだ。
「む、終わったのか雪駄。ご苦労だったな」
スイカを口の中でシャリシャリと鳴らしながら言われても全くいい気はしない。
「つーかよ単衣、お前の食べてるスイカ、俺のなんだけど」
「むう、そうだったか?じゃあ、残りは君に...」
「もう赤い部分がねえじゃん!それは残りじゃなくて「残りかす」だ!!」
こんの娘は...なぜに人に余りを渡そうとするのか。
俺は単衣が差し出したスイカの皮を無視し、畳に置かれた皿からスイカを一切れ取った。
「ぬう!それは私が最後にと思ってたのに!!」と後ろから声が聞こえるがそれも無視してスイカを齧った。
※※※※※
俺が地元の高校ではなく、こっちの方に来た理由も、こいつの正体を知りたいと思ったのが始まりだった。
キモノケ
彼女は我が祖母が蔵にしまってあった「単衣」という着物が化けたものなのだという。本人は聞くと怒ってくるが、着物の妖怪といえば分かりやすいかも知れない。
妖怪と聞くと、魂を奪ったり人の肉を食べるなど、そういったモノを想像する人もいるが、この娘はそんな大それたことはしない。代わりに、ヒトの喰い物はちょいちょいと奪っていく。先程、俺のアイスやスイカを食べていたのからでも 分かるように、物を食べたり飲んだりもするし、俺などが触れることも出来る。
会話も普通に出来るし、じゃあ人間じゃねえかと思うかもしれないが、壁なんかは通り抜けてくるし、いつの間に消えたと思えば、急に背後に現れたりするなど、比喩的表現なしで、神出鬼没現れたり消えたりする。おかげで思春期真っ盛りな俺にはプライベートの「プ」の字もないわけだ。
それともう一つ。会話が出来ると言ったが、正確には「俺と祖母しかこいつと話せない」と言った方が正しい。かつてこいつが客のいる店頭に現れたのだが、その客は話題にするどころかコイツの方をチラリとも見ずに帰ってしまった。
単衣曰く、「私のようなものを見れるのは君のような者だけだ」と言っていたが、まあ、簡単に言えばコイツを見れるのはそういったのを「ミエル人」だけらしい。
しかし去年から出会って一年経つが、未だに謎だらけの娘である。
「なんだ雪駄?さっきからこちらを見て...」
畳で向い合ってスイカを食べてると、ふいに単衣がぼそりと訪ねてきた。
どうやらさっきからコイツの事を見ていたらしい。自覚はなかったが、「なんでもねえよ」と一言呟くと、縁側の方に目をやる。日差しの所為で地面が白く光っていた。
「そういえば雪駄、主はいつ帰ってくるのだ?朝早くから出掛けて行ったが、それほど大事な用なのか?」
「祖母ちゃんはコンサート...って言っても分からねえかな。まあ、歌聞きに行ったんだよ。帰ってくるのは大分遅いぜ」
スイカの種を口から出しながら答えると、急に単衣が慌てだした。
「むうッ!では今日の夕餉はどうするのだ!?私としては唐揚げが食べたかったのに!!」
知るか。
「夕飯は後でコンビニで弁当買ってくる。つーかお前ホントお化けの癖によく喰うな」
「お化けではない。キモノケだ」
「へいへい」
このやり取りも何度目なのか。
手に持っていたスイカも食べる部分が無くなったところで俺は立ち上がった。
「俺は宿題するから部屋に一旦戻るわ。喰ったスイカ片付けとけよ」
「冷蔵庫にある羊羹、食べてもいいか?」
「ああ、喰っててもいいから部屋に侵入してくるなよ。今日の分は今のうちに終わらしたいからよ」
スイカの皮を台所へと持っていき、『生ゴミ』と書かれたプラスチック製のごみ箱を開けた。鼻に来る臭いに、自然と顔がゆがむ。
ほおり投げるようにスイカの皮を投げると、俺は奥にある自分の部屋へと行くため、再び居間を通り縁側を歩いた。居間を通過するとき、単衣が既に羊羹をもちゃもちゃ食べていたのを見たが、何も言わずに通過した。物を食べてる時は大人しい奴だから、今のうちに今日の宿題である英語は終わらしておきたい。
夕方には部活の「課題」があんだから。
※※※※※
英語の宿題は思ったよりも良好はかどった。
Did you hear that Jack married Ann?
Oh, really? It ( ) great!!
プリントに書かれた英文を読み、空欄に当てはまる単語を入れなさいという問題を今やっているが、さほど難しくもなく、分からない個所は電子辞書で調べながら埋めていくと、思った以上にスラスラといった。
あれだけ空欄の多かったプリントも、残すところ3つくらいのカッコだけになっており、あと数分で俺は英語の呪縛から解かれる。そう思うと自然と気持ちが軽くなった。
他の教科はからっきしな俺だが英語だけは何故だか強い。中学の時になぜか必死で取った英検準二級は無駄ではなかったようだ。
そう思ってると、後ろから誰かに見られるような視線に気づく。俺は無視してシャーペンをプリントに走らせた。どうせ正体はバレバレだ。振り返らずに俺は尋ねた。
「単衣、入ってくるなっていっただろ」
少しの沈黙の後、後ろで閉じた障子を挟んで声が返って来た。
「別に、君の部屋に入ってはいないではないか」
「関係ねえよ。後ろに入られると気になるんだよ」
障子がスッと開く音と同時に部屋に入ってくる足音が聞こえてきた。顔を上げて後ろを見ると、単衣がつまらなさそうに立ってこちらを見ている。
唇に小豆の残りがひっついている。さっきまで羊羹食べていたのかと思っていると、単衣が俺の横に来てドサッと座った。
「・・・なんで部屋に入ってくるんだよ」
「後ろにいられるのは嫌なんだろ?だから横に来てやったんだ。感謝したまえ」
なんだそのとんちは。
「へいへい。ありがとさん。口にあんこ付いてるじゃねえか。だらしねぇ奴だな」
近くにあったティッシュ箱を寄せて何枚か取ると、単衣の口の周りを拭く。いつもはジジ臭いこと言う癖に、こういうところはなんとうか年相応だ。いや、最近の小学生も口についたあんこぐらい自分で取るよな?
「むう...だらしなくない。主も言っていたではないか。君はもっと年上を敬うべきだ」
「口にあんこ付けた年上は敬えとは祖母ちゃんは言ってねぇよ」
あんこを拭きとったティッシュをゴミ箱に捨てると、プリントの最後の空欄に、単語を書き込んだ。これで今日の分の宿題は終わった。俺はあ゛~っと唸りながら背筋を伸ばした。
伸ばしていると腹筋がツルような感覚に襲われ、慌てて伸びを止める。ちょっと腹が痛い。
「んで、どうしたんだ単衣?」
「やはり忘れていたな。着物を干してから大分時間が経っているぞ?そろそろ取り込むべきだ」
ペシペシと頭を叩いてくる単衣に俺はあっとなり時計を見る。
壁にかけらているレトロな時計の針は3時を過ぎた場所を指している。「やべっ!」と口の中で呟き、慌てて蔵の方へと向かった。
着物を干す時間は、おおよそ3~4時間だといわれる。それはそれ以上干すと型崩れやシワの原因になり、虫が付いてしまう事もある。今日くらいの暑い日なんかは2時間くらいで良かったわけだが、宿題に頭が移ってしまいすっかり忘れていた。蔵の方へ急いでいくと、着物は風に揺られながら、干した時と変わらない姿で腕を広げていた。
俺は一着ずつチェックしながら衣紋掛けから着物を外していった。幸い、虫につかれたのもなければ型崩れも起こっていない。ほっと息を吐くと、カタンと乾いた音が蔵に響いた。音のした方を見ると、いつの間に入って来たのか箪笥の上に腰かけた単衣が呆れた表情をしている。
「私が教えたから良かったものを...危うく『私』もえらい事になったではないか!」
どうやらこの妖怪、自分の着物が型崩れすることに不満があるらしい。だったら自分でやれよと言いたいところだが、蔵の中にある新しいたとう紙で着物を包むと、近くの机にそれを置いた。
「わーったよ単衣。私が悪うございました!教えてくれてありがとね!」
「ふん、分かればいいのだ」
単衣は自信満々に言うと、俺に向かって胸を張ってみせる。くっそ何処でそんなコトを覚えてくるんだか。そういや最近こいつTV良く見てたな。TV番組は子供だけではなくて妖怪にも影響をもたらすのか?
「妖怪ではない。キモノケだ」
ヒトの心を読んでいたかのようにぼそりと呟く単衣を一睨みし、単衣の着物も「たとう紙」に包み終える。これで今日の仕事は全て終了した。蔵に来たのが三時十五分だったから、今は大体四十五分くらいだろうか。たとう紙で包んだ着物を2,3着重ねると、俺は蔵を出た。
「単衣」
「んむ、なんだ?」
後ろをパタパタと着いてくる単衣は今にも眠りそうなくらいぼやけた声で聞き返してきた。
「お前今日の夕飯唐揚げが良いって言ってたろ?これ終わったらコンビニ行くけどお前も来るか?」
「む...いいのか?」
「そう言うけどいつも着いて来てるけどな...今日俺、夜に出かけるからよ。夕飯は弁当食べててな」
縁側を歩いて祖母の部屋に到着すると、足で襖を開けて中に入る。
きっちりと片付いた机や箪笥を見ると流石祖母ちゃんだと感心しそうになるが、障子を挟んだ奥の寝室には、アイドルのポスターや団扇があることは既に承知だ。
机の上に着物を置き、残りの着物を持ってくるため早足で蔵に戻って行く。
今日は夜中に課題があるのだから急ごう。俺は庭で足を止め、瓦屋根も見える空を見上げた。
高校に入って入部したオカルト研究会の課題。
雲ひとつないこの日は、心霊スポットの調査するにはもってこいの日だった。