一歩目 「雪駄の課題」 (一)
「洋介ーッ!!ピザが届いたわよ!降りてきてー!」
下の方から母さんの声が聞こえてきた。僕は部屋に置いた段ボール箱を足で隅っこに寄せると、薄い木のドアを開いて息を吸った。
「分かったよーッ!ちょっと待ってて!」
母さんに声が届いたかは分からないが、ピザを食べるのはもう少しだけ待っていて欲しい。もう少しで捨てるモノがまとまるので、一階に降りるついでに持っていきたいのだ。
机の上に置いたゴミ袋には、いらなくなった教科書やら紙屑、それに既に聞かなくなったCD何かが入っている。CDが燃えるか燃えないかは知らないが、とにかくいらないモノはどんどんゴミ袋にほおり込んでいたので、空のペットボトルも入ってるかな。この部屋にはもう時計がないから携帯をポケットから出して開けてみる。
液晶画面に映された数字は、[20:24]となっていた。
今年の春、僕は無事高校を卒業して、東京の大学に行くことになっていた。残念ながら志望校には入れなかったが、なんとか滑り止めに受かった。親はもう一年浪人していいとは言ってくれたが、僕としてもこれ以上の受験勉強はコリゴリだったわけで、別段理由もなく受験した大学へと進学を決めた。今日は東京で借りるアパートへ荷物を送るため、長年使っていた部屋の整理をしていた。
残り少ない春休みを一日丸ごと使って片付けた部屋は、塵々していたガラクタやマンガや服なんかが無くなり、床には埃とノートの切れ端が散らかるだけの殺風景な部屋に変わっていた。文字通り、腐るほど物があったのだが、一人暮らしをするために送る荷物をまとめると、大きな段ボール箱一つと、小さめの箱一つで十分間に合った。むしろ捨てる物の方が容量が多い。着なくなったシャツやマンガ雑誌などを一階に運ぶのに、階段を何往復したか分からない。それもようやく終わりそうだ。やはりこういうのはしっかりと終わらした方が気分が良い。僕が好きな、パイナップルが乗ったハワイアン・ピザも美味しくなるというものである。
僕は床に散らばった紙くずをごみ袋へと素早く入れた後、まだ床に散らばっている紙を拾おうとしゃがみこんだ。するとカタッと軽い音が部屋に鳴り響き、机から僕の目の前に、何かが落ちた。
自然と目がそちらを向く。床には30センチほどの大きさをした人形が転がっていた。
ああ、これは・・・
僕はゴミ袋を一旦床に置くと、足もとに倒れた人形を拾い上げた。箱に入れたと思っていたのだが、うっかり忘れていたようだ。
それは白い髪をした、黒いワンピースを着た人形。
名前は「アリス」。僕が拾ってきた人形だ。
2年前、いや、去年だったかな?僕が家に帰っていた途中、公園のゴミ捨て場でアリスを拾ったのがきっかけだった。その時は泥にまみれて酷く汚れていたが、何を思ったのか、当時の僕はそんな人形を拾って家に持ち帰ってきた。
人形に詳しくない僕には、どんな材質で作られているのか分からなかったが、お湯で洗ってみると意外に奇麗になったのを覚えている。でも、流石に着ていた服はどうしようもなかった。だから今、「彼女」が着ている服は、母さんの技術の結晶であるのだ。丁度その頃、母さんがどっかのフリマでまとめて買ってきた黒のワンピースが全然サイズが合わず、処分に困っていたところに僕がドロドロの服を着た人形を持ってきたものだから、母さんがその黒いワンピースを生地にして、アリスの服を仕立ててしまったのだ。何でも中学高校と手芸部であった様で、そういった物を作るのは大の得意だったそうだ。
それ以来、アリスは僕の部屋の机にどっしりと腰をおろして座っていたというわけだ。「石の上にも三年」ならぬ「机の上にも一年」。おかげでうっすらと埃が積もっている。僕はアリスを手に持って立ち上がると、まじまじと彼女を見た。
今で言うフィギュアとは違った、頭が大きめに作られている彼女の眼はじっとこちらを見つめていた。突然、背筋に痺れにも似た寒さが走った。思わず後ろを振り向くが、そこには半開きになったドアしかない。僕はフッと息をつく。
何をビビってんだか。この前にあったホラー番組で「呪いの市松人形」が出ていたからかな。夜な夜な髪の毛が伸びるという内容だったが、人形が動く、喋るなんて今更小学生の怖い話にすらならない。
「洋介ーッ!!早く来ないとお母さんたち先食べちゃうわよー!!」
下から母さんの声が再び聞こえてきた。やべっ!早く片付けないと!妹も僕と同じのが好きだから、アイツの事だからホントに食べるかもしれない。しかし部屋のゴミは少ないとはいえまだ時間がかかりそうだ。僕は手に持った人形、アリスをジッと見た。
もう荷物に入れていたと思っていたのだが、入れ忘れていたのは痛い。アパートに送る段ボール箱は既にガムテープでしっかりと閉めてあるから、入れるには再度、ガムテープを剝さなきゃならない。もう下に行かないと本当にピザ喰われそうだし。
少し考えた後、ようやく踏ん切りがついた。僕はアリスをゴミ袋へと入れた。
「もう人形って歳じゃねーしな。今までありがとな」
そう語りかけてみたが、ゴミ袋の中のアリスは答えてはくれない。紙切れに埋もれながら、唯唯プラスチックで出来ているだろう目で僕を見ていた。
しょうがない。後は夕食を食べてからまたやろう。そう決めた僕は部屋を出ようと半開きのドアに手を伸ばした。
・・・・・・・・・・にいて
体がピタッと止まる。部屋に突如響いた声に、心臓がドクンと高鳴った。
誰?母さんか?
でも今、確かに部屋の中から聞こえた。
それに、母さんでも、妹の声でもない。
再び背中に寒気が走る。今度は先ほどよりも強く感じた。
今すぐ部屋を出ていきたいが、体がこの形で接着されたかのように言う事を聞かない。
ふいに背後に人の気配を覚えた。それはずる、ずると僕の方に近づいて来ているのが分かる。
そして僕のすぐ耳元で、「それ」は聞こえた。
一緒にいてえぇ
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何度でも言おう。「今年は暑い」。
去年も一昨年も3年前も俺はこの家で言っているはずだ。別に涼しくなるための魔法の言葉でも気温が下がる呪文でもないが、こうやって着物を広げている俺の身にもなってほしい。いくら風通しの良い蔵だからといって、「土用干し」の準備をした後、何十もの着物を持って歩きまわる俺の身にもなってくれ。
別にここは南国のハワイでもなければ、エジプトでもないのだ。湿度がむんむんと上がっている日本の夏なのだ。外で数時間も動いていればそりゃ体中から水分が出てくる。
俺は赤色の着物を一着だけ衣紋掛けに掛けた後、一息置くために蔵を後にした。
だめだ。これ以上動いたら脱水症状になる。夕方のニュースで「今日の午後、高校生の袴田雪駄君が脱水症状で倒れ、搬送先の病院で亡くなりました」と放送されるではないか。
俺-袴田雪駄は、今年から住み慣れた土地を離れ、S県にある三塚町の高校へと進学した。父の実家で祖母と二人暮らしをしているのだが、別に両親と仲が悪いわけではない。
確かに父の部屋から聞こえる歯ぎしりには殺意を覚えていたが、そんなの、祖母の口ずさむ変な寝言に比べたらどうってことない。親子の中は比較的良好であるし、あまりに貧乏で育てられないというわけでもない。そんなの、共働きでバリバリ働いてる両親に失礼だろ。
では何故都会を離れ、このような別の土地へと行きついたのか。そのことについては、俺の体力が余っている時に語ろうではないか。今は取り合えず水分補給を実行したいのだ。
びっしょりと汗を掻いたシャツを脱ぎながら庭を突っ切って縁側へと上がる。昔ながらの日本家屋とは不思議だ。別に冷房をつけているわけでもないのに、一歩敷居を跨げば、ひんやりとした空気が漂っている。外は日差しで燃えそうなほど暑いのにも関わらずそうなのだ。いやはや、昔の人の知識と技術にはホント関心させられる。
しかし今は古来の技術を懐かしむよりも、現代技術で作られたアイスを食べるのが先決だ。
俺は畳を踏みしめて部屋を一つ二つと横切り、冷蔵庫のある台所へと到着した。
家はシンと静まりかえっている。ちなみに祖母は今日、人に着物の手入れを任せて自分はコンサートに行ってしまった。なんでも、新しい少年ユニットの応援だとか。前までは店の事で行けなかったそうだが、俺が来てからというもの頻繁に店を空けるようになった。この前は大阪、今日は名古屋だそうだ。そんな時に店を任せられるのも既に慣れてきたものだ。
祖母ちゃん、もう会場に着いたかなと頭の中で思いながら、俺は冷蔵庫の取っ手に手をかける。とにかく冷たいものを腹に入れんといけない。こういう時のために買っておいたアイスが、いま正にその真価を示す時なのだ。
鼻歌を歌いながら冷蔵庫の冷凍室を開ける。
おや?段を間違えたかな?アイスがどこにもないぞ?
俺はもう一段下にある冷凍室を開けた。やはりない。氷と冷凍された肉に食パンはあれど、俺の好きな抹茶味のアイスがどこにも見当たらない。
「あれ・・・おっかしいなぁ~」
「雪駄、君は何をブツブツと喋っているのだ?」
不意に後ろから声をかけられ、俺は顔に汗を滲ませて振り向いた。すると台所と居間をつないでいる敷居の丁度上に立ち、おかっぱ頭の和服少女がこちらを見ていた。いくら家の中が涼しいとはいえ、汗一つ浮かばせることのない色白い顔が、人間離れした雰囲気醸し出す。俺より頭二つほど小さい体には、さっき俺が蔵で干したのと同じ赤い着物を身につけ、手には銀色に光るスプーンと、俺が探していたアイスのパックを持っている。
「『私』を最初に手入れしてくれるのはありがたいがね。そうやって裸になって家を歩くのはどうかと思うぞ」
「おいおいおいおい...単衣。お前、今日初めて見たと思ったらなに喰ってんだよ。お化けのくせに」
「お化けではない。キモノケだ。何度も言ってるではないか」
「そんなん知るか!キモノケだろうが足の毛だろうが人様のものを勝手に食べるな!そりゃ俺のアイスだぞッ!!」
そうだ。朝になっても見ないから忘れていたが、こいつもいるんだった。俺が威嚇するように声を出しても、「何を怒ってるのだか・・・」と言いたげな顔をしながら、こちらに近寄って来た。
「なんだ。君も食べたかったのか?まだ少し残っているが、良ければ君が食べるか?」
「残ってる・・・ってお前、蓋についているクリームは残っているとは言えねぇよ。『付着してる』ってんだよ」
「ふむ」
「『ふむ』じゃねーッ!!!」
俺の声が、台所に木霊した。
俺が祖母の家に来た理由。その一つがこいつ。おかっぱ頭の少女、単衣だ。
去年の夏に初めて遭遇した、長い年を掛けて魂を宿らした着物の少女。
彼女は「物の怪」とはまた異なった存在「キモノケ」なのだ。