03
どうせなら、もう少し魂の話をしよう」
「いいよ」
「ではね、魂は一体何処へ行くのだと思う」
「あの世だろう」
「ではあの世とは何処だい」
「冥土だろう。おい、では冥土は何処にあるかなんて聞かないでくれよ」
「先に降参するのか」
「そんな事、死んでみんと分らんし、第一俺は冥土の存在にも不服なんだ」
「本当に宗教を嫌っているなあ」
「まあ本当に冥土があるのかもしれないがな」
「どっちなんだい」
「君の話のしやすいほうで良いよ」
「なら、冥土はある事にしてくれ」
「いいよ」
「魂は冥土へ行く。それで終わりかい」
「輪廻転生するのだろう。前世と現世と来世にわたって死と再生を繰り返す、だったかね」
「そうだ。では、基督教ではどうだ」
「基督教」
「今のは仏教の話だからな」
「基督教では魂は天国へ行くんじゃあないのか」
「あしもよくは知らんがね。こっちでは魂の生まれ変わりはないのだ」
「死んだら、終わりか」
「そう。さて、面白いと思わないか」
「何がだ」
「この両者の違いだよ。君風に言うならば、同じ救済の物語なのに」
「うふふ」
「どうした、急に笑いだして」
「いや何、基督教の天国が日本ぐらいの面積しかなかったら、さぞ死者は窮屈だろうと思ってね」
「あはは、確かにな。人口は増える一方だし」
「同じ大陸で出来たものなのに、こうも違うのだな」
「きっと生活環境の違いから来ているのだろうね」
「おや、そこで偉そうな御高説はないのかい」
「ないよ。君こそ大好きな宗教の話だ、何かないのか」
「あえて一言言わせてもらえるならば」
「なんだね」
「俺にはどちらも無用の長物だね」
「そりゃ、君らしい」
みーんみーん、と煩く鳴いていた蝉の声が突然ふつりと途切れた。
「死んだかな」
「蝉の季節もそろそろ終わりかね」
「最期の最期まで嫁さん探しか」
「良いなあ」
「嫁探しがか」
「違うよ。生きて、次の世代へ命を繋いでいくことしか考えていない所だ」
「無駄な事を考えずにすむというわけか」
「そうだ。考えて、自棄になる事もなかろう」
「分らんよ、意外と彼らはやけくそかもしれない」
「それでも、嫁さん以外は眼中にない」
「おい」
「なんだい」
「あしは別に、考える事は無駄ではないと思うよ」
「それは俺だってそう思ってはいるさ。だけれどね、時々馬鹿らしくなってくるのだ」
「どういう事だね」
「どんなに偉い先生になったところでね、待ち受けているのは死だ。人間として、いや生物として生まれたからにはこれだけは避けられない」
「そうだね」
「それならば、変なことをごちゃごちゃ考えて生きても、本能のままに生きても、同じだと思わないかい」
「結果はそら確かに同じだ」
「確かに世の中は便利になってきているよ。しかし、複雑になり過ぎていると思わないか」
「確かにね」
「それもこれも、人間が考えた結果なのだよ。単純だった世の中を、自分自身で難しくしていっている」
「開国してから、特にそうだろうなあ」
「今この国は急激な変化を遂げているだろう」
「うん」
「俺はね、怖いよ。何時か人間が世の中を複雑にしすぎて、手に負えなくなる時が来るのではないかと思うのだ」
「未来の話だ」
「近い未来かもしれない」
「いいや、あし等が死んだ後の話だよ、それは」
「何故言い切れる」
「そう興奮するんでないよ。あのな、君はきっと今の日本の回転が速すぎるからそう思うのだ」
「そうだよ」
「この回転は何時かゆっくりとしたものに必ずなる。そしてその後百年は何も起こらない」
「何を根拠に」
「欧州を御覧。今日本は彼の国々に追いつこうとしているから、猛回転しているのだ。全て真似おえれば、速度も落ちるさ」
「成る程。では、百年というのは」
「英吉利だよ。君、あそこで産業革命がはじまったのは何時か知っているか」
「そういう事は君より俺のほうが詳しいよ。西暦で一七六〇年頃だ」
「そう。今日本で産業革命がやっと始まったぐらいだから、その頃の英吉利は今の日本のような状態にあったのだろうと思うよ」
「国家の転換期だね」
「それから百年以上たった今、英吉利はとんでもない状況にあるかい」
「そういう事か。でも君」
「うん」
「その百年の間の技術を今、日本は真似ているのだから、全て真似し終えたら英吉利と同じ線に立つんではないかい」
「だね」
「そうしたら、保障はないではないか」
「君も心配性な男だなあ」
「何故溜息をつくんだい」
「君ね、こんな時はあしの説に穴を見つけてもほじくらずに騙されておくものだよ。そうしたほうが、君も楽だろう」
「そりゃ悪かったね」
「まあ、いいさ。こんな片田舎でごちゃごちゃ言ったところで日本の流れは変わらんし」
「伊藤首相の元勲内閣が頑張ってくれるかな」
「飢えては食らい、楽しくて飲み、穏やかなる眠りに安んず」
「伯楽天か」
「結局、これだよ。あしはこれに賛成だ」
「君の場合、飢えなくても食っているじゃあないか」
「自分に正直に生きているのさ。俳句をしたければする、食いたければ食う」
「となれば、君はエピクロスなぞには師事できないな」
「誰だい、それは」
「希臘の哲学者だよ。彼はね、快楽の源は食べることにあると言った」
「良いじゃあないか」
「ところがどっこい、彼は無制限に食べる事は勧めなかったのさ。むしろ害があると言って、水とパンだけの質素な生活を好んだ」
「何故だい、彼は苦行僧か何かだったのかい」
「違うよ。彼は肉体的な快楽への欲望を統制する事で精神的な快楽を得ようとしたんだ」
「信じられないね、肉体と精神は別物じゃあないか」
「エピクロスの場合はそうじゃあないのさ」
「哲学者に、ろくなことを考える奴はいないな」
「おや、確か君は一時哲学を志していなかったかい」
「もうやめだ、あんなもの。やはりあしには俳句だよ」
「それが君の一生の仕事か」
「そうだ」
「良いなあ、断言ができて」
「君はまだ見つかっていないのかい」
「教師でない事はわかっているのだ。やりたくてやっているわけではないし」
「では、やりたい事はないのかね」
「文学をやりたいとは思っている。だけれどなあ、今のこの状態じゃあとても」
「教師をやめなければ、つとまらんか」
「つとまる事はつとまるだろうよ。しかしだね、なまじ教師として上手くやっている」
「うん」
「英語との付き合いも出来ていると思う」
「評判の高給取りの先生だからね」
「それならば本当はこちらが本分なのではないかと思ってしまうのだ」
「まて、さっき教師ではないと分かっていると言っただろう」
「言ったさ。でもそれは俺のただの願望であるだけかもしれない」
「文学への志は、まやかしだと」
「うん」
「莫迦だなあ、君は」
「どこがだよ」
「考えすぎだよ。適正なんて関係ないだろう。やりたければやる、それで良いのだ」
「でもそれでは飯が食えないかもしれない」
「好きであれば、どうとでもなるものさ」
「そうかな」
「そうだよ。それに、君にはまだ時間が多くある。あしのように、急ぐ必要もないだろう」
「軽々しくそんな事を言うんじゃあない」
「軽々しく言わなくて、どうする」
「君は死ぬことが怖くないのか」
「もちろん、怖いよ」
「では何故そんなに飄々としていられるのだ」
「そうだね」
「俺は時々君という男がつかめないよ」
「あしも、君という奴ほどわかりにくい男はいないと思うよ」
「何を言ってるんだい。君は他人を選り好んで付き合いをするじゃあないか。そんな中で一体誰と俺を比べているんだい」
「それを言うならば、君だって自分から他人に近づいていこうとはしないだろう」
「必要がない。今の交友関係で俺は満足だ」
「あしも同じさ。君という友人を持てて、十分」
「俺は君だけじゃあ満足できんぞ」
「照れるな、分かっているよ。君もあしも、他に大切な友人がいる、これで良いかい」
「うん、まあいいよ。それで、どうなんだい」
「死ぬ事かい」
「うん」
「常に予感はしていると、さっきも言った」
「うん」
「だけれどね、まだ死ぬ気はしないね」
「死ぬ気がしない」
「死んでやらないさ、まだ。あしにはやる事があるもの」
「気持ちの持ちようか」
「そうだよ。君ももう少し楽にかまえたまえ」
「楽にねえ」
男の呟きの後に、どさりという音がした。
「これで良いかい」
「君、寝るのなら二階へ上がりたまえよ」
「なあに、寝ているのではない。楽になったのだ、楽に」
「形から入る男かい、君は」
「どうかね。それでもこれだけ広ければ二人で寝ても文句はあるまい」
「確かに学生時代の下宿より数段良いな。おい、君は何畳で暮らしていたんだっけ」
「是公と二人で二畳。一人一畳だな」
「よく暮せたなあ」
「人間どうとでもなるものだよ」
「なんだい、余裕が出てきたじゃあないか」
「そうだね。この姿勢は案外良いのかもしれない」
「じゃあ一寸あしも試してみようか」
「駄目だよ。君がこれ以上肩の力を抜いたらどうなるか」
「試してみたら、面白いかもな」
「駄目だ。君、今横になったら寝てしまうだろう」
「君こそ、今目を閉じているのかい」
「閉じてないよ。こんな真っ暗じゃあ、閉じていても開いていても同じだ」
「閉じてはいけないよ。閉じるぐらいなら体を起こせ」
「俺に寝て欲しくないのかい」
「別にどちらでも良いがね、君、何かあしに聞かなかったかい」
「たくさん聞いたね」
「そうではなくて、あしを起こした理由だ」
「ああ、夢の話だね」
「ずいぶんとそれてしまって、何だかよくわからなくなってしまったよ」
「何の事を聞いていたっけ」
「確か君が夢の内容を話して」
「そうだ、君が泣いていたのだ」
「ああ、何故泣いていたかだったね」
「何故だい」
「何故といわれてもなあ」
「何か、悲しかったのかな」
「ただ悲しいで、あしが泣くかな」
「誰か死んだとかはどうだ」
「縁起でもない」
「俺が君の死んだ夢を見る時点で、縁起も何もないさ」
「確かに。それで、死人候補は上がったかい」
「おや、まだ続けるのかい」
「こうなったらしらみつぶしにいくよ」
「そうだね、親か妹か友人か」
「そりゃあ知り合い全てにならないか」
「死んでも悲しくない知り合いぐらいいるさ」
「酷い男だな」
「君にはないのかい」
「あるよ。でも俺は、人が死んでも泣かないかもしれない」
「嘘をつけ。君のような男が、泣かない事があるかい」
「少なくとも、君が死んでも泣かないね」
「ほう、酷いじゃあないか。何故だい」
「もう六年間も経験してきたからな」
「ああ、そうか。何回もあしは死んだのだったな」
「そうだよ」
「この分だと、あしが本当に死んでも君は夢だと思うかもしれないな」
「あはは、そうだね。そうして必死に起きようとするかもしれない」
「夢ではないと気付くまで、どのぐらいかかるかな」
「きっと遠くにいるだろうから、帰ってきて君の墓前に立つまでかな」
「長いなあ」
「短いよ。これまでの夢の時間と比べたら、ずうっと」
「なんだ、やっと本当にくたばったのかと思うだろうね」
「安心するかもしれない。やった、もうあのつまらない夢を見なくて済むぞ、と」
「君は墓の前でにやにや笑うのを必死でこらえているのさ」
「だけれど俺はこんな時にかぎってお得意のむっつり顔が上手く出来ない」
「だから奴さん、手で口元を隠している」
「それを見た弔問客が言うんだ。夏目君を御覧よ、絶句するほど悲しんでいる」
「君はそんな声を聞いてますます愉快になるのだ」
「おや、上手く勘違いをされているようだ、どうしたものかね」
「そこで君ははたと思いつく。そうだ、ここで涙なんかちょろちょろと流してみたら、まさにふさわしい雰囲気じゃあないか」
「俺は少しうつむいて、そら涙を流してみせる」
「ほら夏目君、今度はたまらなくなって泣き出したよ、おかわいそうに」
「墓の下から君はそれを見て笑っているのだ」
「おい、やはり君は酷い男じゃあないか。そら涙を流すだけで、本当は笑っているだあなんて」
「だけれども俺にも弔問客にも死者の声は聞こえない」
「かくしてそこは悲しい死の一風景になるのであった」
「ああ」
「どうした」
「もしかしたら、君が流していたのはそら涙かもしれないね」
「流すだけ無駄だねえ」
「女はよく流しているではないか」
「あしは女子ではないよ」
「見ればわかるよ。男でも、あることにはある」
「そら涙がか」
「うん。そうだ、そら涙に違いない」
その時だった。突然さっと暗闇が切り裂かれ、光が部屋の中に射し込んできた。
「やあ、雲がきれたな」
「ずいぶんと明るい月だね」
布団の上に座っていた男は立ち上がり、蚊帳から出て空をのぞいた。
「君、来てみろよ」
「そんなに面白い月かい」
のろのろと起き上がり、同じようにして蚊帳を出ると、男に促されるように空を見上げた。
「満月に近いなあ」
「あともう少しだね。ああ、月と言えば団子が食いたい」
「また食い物の話かい、あきれたね」
「良いじゃあないか。そうだ、満月になったら月見をしよう」
「良いね。酒と肴と」
「酒ねえ。だけれど君は直ぐに酔うだろう」
「酔っても不都合はないだろう」
「まあね。ただ、君がつぶれて寝てしまわないかが心配だ」
「それは君との話の面白さによるね」
「それで、そうなんだい」
「何がだね」
「夢の中のあしの涙は、そら涙で良いのかい」
「良いさ。君がそうそう真面目に泣くわけがないもの。君はそれで良いか」
「あしには別に異存はないよ」
「うん。さてではそろそろ二階へ戻るとするか」
「もう戻るのかい」
「なんだ、すっかり目でも冴えてしまったのかね」
「そうでないよ。ただ、あまりにも君があっさりと戻ると言うから」
「どうも月に話の腰を折られてしまったからな」
「明るくなっては話す気もしないかい」
「そんな所だよ」
「夜行性の動物のようだね」
「あはは。もしそうだったら、教師の仕事はしてないよ」
「そうだ、君、明日の仕事は大丈夫なのか」
「なあに、もともとあまり働いていない頭が普段以上に働かなくなるだけさ」
「不憫だなあ」
「そうでもないよ」
「違う、君に習う生徒のほうだ」
「それならば、もっと心配するにおよばんよ」
男が大きく欠伸をした。それにつられ、隣に立っていた男も欠伸をした。
「さあ、寝よう」
先に欠伸をした男が蚊帳の中に入り、のそのそと階段まで歩いていく。
「それじゃあ、御休み」
「御休み」
とんとんと階段をゆっくり登って行く音がふと男に最後の一言を思い起こさせた。
「おうい、愚陀仏君」
「なんだい」
ぴたりと足音が止み、一拍置いて返事が返ってきた。
「もうあしを殺さないでおくれよ」
冗談混じりにさけんでみたら、あははと笑い声が家じゅうにこだました。
月はそのまま一晩中、こうこうと照り続けていた。
最後にネタバレをすると。
お気づきの方もいらっしゃると思いますが、作中で会話している二人の男は夏目漱石と正岡子規です。