02
生ぬるい風が吹いた。何処からか蝉の声にまじり「にゃあ」と猫の声がした。
「猫の声を聞いたら何だか腹が減ってきた」
「なんだい、それは」
「支那では食うらしい。猫のほかにも、動物なら何でも」
「美味しい物ではなさそうだね。君は支那で何か食ってきたのかい」
「あしは食べなかった」
「珍しいな。怪物的な胃袋の君が」
「この胃袋がなければあしはとおの昔に死んでいたよ」
「それにしても、少し食いすぎではないかい」
「覚えているよ。あしが君と初めて飯屋に入った時の君の顔」
「だって君、あまりにも多く食うから」
「あんまり君の表情が硬いから、驚かしてやろうと思ったのさ」
「見てるこっちが吐きそうだったよ」
「君は繊細な男だからな」
「誰でも吐きそうになるさ。あれだけ目の前で食べられちゃあね」
「そうかな。いや、食う話をしていたら本当に腹が減ってきた」
「話を戻そう」
「どこに」
「夢だ」
「ああ」
「まったく見たことも無い君の泣き顔を思い出すのは、どう思うかい」
「どう思うって、そりゃあ君の問題じゃあないか」
「そんな冷たい事を言わないでおくれよ。君が泣いていたんだぞ」
「だからって、君の夢の中の事があしにわかるもんかね」
「だって、妙じゃあないか。気になって仕事に身が入らなくなる」
「仕事といえば、君は大層評判になっていたぞ」
「何がだい」
「散歩に出かけた時、高給取りの先生が、とかなんとか言っているのを聞いた」
「ほう」
「しかし君みたいな偏屈がよく教師をやっていられるなあ」
「なあに、ただ教えれば良いんだ。聞く奴もいるし、聞かん奴もいる」
「きっと生徒は大変だろうね」
「文句は聞こえてはこないみたいだ」
「英語なんぞ、あしにはちんぷんかんぷんだよ」
「俺が教えてやろうか」
「君にものを習うのは嫌だなあ」
「昔から英語はからきし駄目だからな、君は」
「なあに、生まれてくるときに何処かへ英語の才能をおいてきたのさ」
頭上から軽快な足音が聞こえてきた。伺っては走り、また止まり、走りと、部屋を横断していった。
「おや、鼠かな」
「君、二階に甘いものでも置いていないかい」
「大丈夫だ。しかし布団を齧られたら弱るなあ」
「奴さん、何でも齧るからな。去年冬物を出した時、やられていたよ」
「夜は五月蝿いし。五月蝿いといえば君」
「なんだい」
「昼の様子はどうなのかね」
「相変わらず、みんな集まってくるよ」
「それで君の身体のほうは大丈夫なのかい」
「君といるよりは大分良いよ」
「そりゃあ悪かったな」
「冗談だよ。拗ねるな」
「拗ねてない」
「じゃあなんたってそんな喋り方なんだい」
「いつもこんな調子だ」
「そうかね」
のんびりと答えた男は脚にあるむず痒さを覚え、ぱしんとそこを平手打ちした。掌に何か捕らえただろうかと目の前に持ってきて目を凝らしてみたがそれも周囲と同様真っ黒で何もわからなかった。
「今のは君が悪いぞ」
「うん」
「俺が本気で心配しているのに、君は直ぐ茶化す」
「ごめんよ」
「うん」
「でもな、あしにだって言い分はあるんだぞ」
「なんだね」
「もしあしが茶化さないで真剣に病状について言ってみろ、直ぐに君は大いに心配してそれこそ気になって仕事に身が入らんだろう」
「まあね」
「ほらみろ。だからあしなりに、考えて茶化しているのだよ」
「うん。それでも」
「うん」
「こんな時ぐらいは本音を出して欲しいものだね」
「こんな時とは」
「野暮だなあ、それを聞くかい」
「夏の夜か」
「違うよ。君の客人も、俺の客人もいない、君と俺二人で遠慮する事の無い状態の事さ」
「そしてお互いの顔も見えぬ暗闇で、だからこそこころははっきり見せて欲しい、と」
「そんなところかな」
「ならばこの状況は普段言いにくい事を告げるのに良いかもしれない」
「そんな事、君にあるのかい」
「病状だよ」
「悪いのか」
「心配しないで、聞いてくれるかい」
「君が望むなら、しない」
「うん。これは昔からなんだがな、寝込む度に、何か書かなければいけないと気ばかりが焦るのだ」
「うん」
「はじめは男子たるもの何事か成さなければならない、そんな気持ちだった。世の中に名を残してやろうとな。しかし最近はだんだんと自分がとり憑かれているのではないかと思うようになってきたのだ」
「とり憑かれる」
「病気をするのは、あしにものを書かせるために、何かが仕掛けたことじゃないかと思うのだ。いや、この考えが可笑しいという事は分っている。聞き流してくれればよい」
「その考えによったら、君はどんどん病気したほうが良さそうだ」
「だけれども、そうしたらあしは直ぐにくたばってしまう」
「そうだね」
「くたばってしまったらもう何も書けない」
「もうその話はやめたまえ」
「なあ、あしは何時くたばると思うかい」
「そんな事、考えたくもないよ」
「常に予感はしているのだ。もしかしたら、もうこの布団の中から目覚めることは無いのかもしれぬ、と思う」
「君らしくもない」
「そうだ、でも事実、これがあしの考えていることなのだ。なあ」
「なんだい」
「死ぬとはどのような感覚かな」
「一般論からいえば、死んだらもう感覚は無いね」
「君はどう思う」
「若いころは死とは全ての終わりで、この世の一切からの解放と考えていたな」
「鬼籍に入りたがっていたな、あの頃の君は」
「うん。あの世に逝けば何もかもが解決すると思っていた」
「解決しないと、気づいたか」
「考え方が変わった」
「どんな風にだ」
「あの世に逝ってしまったら、またこの世に戻ってきて結局一からやり直しをさせられるだけではないかと思ったのだよ」
「輪廻転生かい」
「そうだよ。まあ、俺が生まれ変わったとして、今の俺の記憶が無ければ、それで良い」
「うん」
「だけれども、もし何かがきっかけとなって今の俺の記憶が思い出されてみろ、彼は俺の人生も、人の二倍の生きる苦しみを味わうんだぞ。そう思うと、可哀そうでとても死ねやしない」
「人の二倍の人生の楽しみを味わう、とは考えんのかね」
「楽しい思い出は記憶から滑り落ちて、もう何も残っていないのだ」
「確かに辛い思い出は印象深いけれど、いくらなんでも楽しい思い出がすべて抜け切る事はないだろう」
「俺の頭の中では、そうだ」
「君はやはり物事を暗く考えすぎだ」
「出来れば俺も楽天的に生きてみたいよ」
「君が楽天的だったら、それはそれで奇妙だな」
「酷いなあ」
「うん。でも君の考え方は仏教的だね」
「宗教は嫌いだよ」
「どういう意味だい」
「だって馬鹿馬鹿しいとは思わないかい」
「宗教がか」
「うん。俺は思うのだが、詰まる所神は人間の理想の表れだろう。釈迦しかり耶蘇しかり」
「ほう」
「ふと思い立って真剣に考えてみたことがあるのだ」
「面白そうだ、先を聞こうじゃあないか」
「いいよ。俺は先ず何故神が、宗教が出来るのか考えた」
「救い、ではないかい」
「そうだ。仏教も基督教も、この世の不公平からの救済の物語なのだ」
「物語か」
「どんなに偉そうにしていたって、結局は人間が作ったものだろう。今どうにもならない不平等がある、どうしてもそれから逃れたい、それならば都合の良い話、まあこれが神であり宗教なのだがね、それを作ってこの苦しみから解き放たれよう、これが一つ目だ。あともう一つある」
「救い以外に、成り立ちがあるのかい」
「ある。自惚れが過ぎた場合だ」
「自惚れ」
「どんな人間でも少しは良い所があるものだ。しかし良い所だけの完璧な人間なんているわけがない」
「そうだね。君もあしも、欠陥在りだ」
「さて、ここに妙な奴が一人いる。自分を完璧な人間と思い込んでいる莫迦な奴だ。自分の欠陥には気付かず、良い所ばかりを並べたて、自惚れていた。結果、神になった」
「まってくれ、どういう事だい」
「あまりにも自惚れが過ぎて、自分は完璧な人間だと振舞っていたから、周りもそれを信じ込んでしまったのさ」
「成る程」
「詰まる所、宗教は逃げであり、思い込みなのだよ。そして弱いから宗教を必要とする」
「そう言えば、君は精神のほうは脆弱なのに、よく宗教に傾倒しないな」
「俺は己を信じているから」
「本当かい、そりゃあ初耳だ」
「誰でも自分の存在を尊く思わないから宗教に走るんだよ」
「でも、尊く思いすぎたら、今度は自分が神になってしまうのだろう」
「尊く思う事と、自惚れは違う。君、本居宣長を知っているだろう」
「徳川の世の国学者なら」
「その宣長だ。彼はね、徹底した現実主義者だった」
「うん」
「人間は死ねば暗く穢れた陰府の国に行ってしまうのだから、死を考えず現世の幸福や生きがいを追求すべきだ、と彼はこう言った」
「うん」
「これが尊く思う事だ」
「どういう事だね」
「つまり人生の全てを享受した上でその楽しみを追い、生を肯定的に生きる、これが尊く思う事だ。自惚れは違う。自惚れている奴に、生の全体像なぞ見えているものか」
「見えていたら、自惚れはしないだろうね」
「そういう事だ。俺は己を尊く思っている。だからいつまでたっても、神の奴隷にはならないよ」
「神の奴隷か。それはちと言い過ぎではないかい」
「いいや。的を得てると自分では思っているがね」
「徹底してるなあ」
「俺は神の奴隷になるぐらいだったら、死んだほうが良いね」
「死んだほうが良い、か。なあ君」
「なんだい」
「あしも考えていることがあるのだ」
「この際だ、言ってしまえよ」
「うん。あのな、魂は何なのだろう、と時々考えこむのだ」
「何とは」
「先代まで、人魂が身体に宿っているという事が定説だったでないか。死んだらそれが身体から抜け出て行く。しかし最近はそうもいかないだろう」
「人魂なんて、無い、か」
「いや、魂は確かにあるのだ。ただ、それが何処にあって死んだ後は果たしてそれがどうなるのか、それが気になって」
「難しい問題だ」
「はじめは脳にあると思った。物事を考える部分だし、ここをやられたら死んでしまう。しかしそう考えると、心臓だって突かれでもしたらもう駄目だ。だから心臓でもおかしくないと思った」
「魂が心に宿るというのは、しっくりとくるね」
「だろう。しかしそこで何故人は死ぬのだろうという疑問がでた。脳をやられても心臓をやられても、死ぬ。考えているうちに、二つの死からある連想をしたのだよ」
「ほう」
「うん。思いついたのは、血だ」
「確かに脳でも心臓でも刺せば血がでるな」
「それどころか体中、どこを刺しても血が出るだろう」
「うん」
「あしはこれだ、と思った」
「血が、魂か」
「そうだ。血は四肢に充足している。つまり、魂は全身に在るのだ」
「成る程。だから幽霊は人の形をとっているのかい」
「それは茶化しているのか」
「いいや、本気だよ」
「そうかい」
「魂か。俺もこの問題については考えてみたことがある」
「ほう」
「君みたいに魂の在りかではなくて、魂そのものについてだけれどね」
「在るか、無いかという事か」
「いや、何か分かっていないだけで、魂と呼ばれるものは在ることには在るのだ。観念的なものだがね。ただ実在の話になると」
「無い、とも言えるのか」
「そうだ。先ず魂に重さがあるのかどうか、それを真面目に検証しなければならない」
「在る、のだったら重さがあるはずだからな」
「しかし肝心の在りかがわからない」
「血を量ってみたらどうだ」
「冗談を言うんでないよ。血の中の成分と魂とを、どう分離させるんだ」
「やはり、となれば魂は観念の存在か」
「俺もそう思った。しかし、それだとある事に説明がつかなくなる」
「なんだい」
「あの世から戻ってきた人と幽霊さ」
「君、幽霊を信じるのかい」
「先ほどの神の成り立ちのように明確な説明をつける事は出来ないけどね、これだけ世の中に知られているものが、いないわけないだろう」
「それはどっちだい」
「どっちとは」
「また観念の話か、それとも実在か」
「実在していると思うよ」
「神の存在を信じない君が、幽霊は信じるのかい」
「変かな」
「面白い」
「まあ、幽霊のほうはよいのだ。問題はもう一方」
「あの世から帰ってきた、臨死体験だね」
「そう。彼らはさ、布団に横たわっている自分を見たというだろう」
「布団の脇では家族が泣いている」
「その時身体から何かが分離している状態にある」
「身体を見ているほうか」
「それが魂だ」
「身体からの魂の分離か。あしは精神と思ったが」
「精神を含めての魂だ。いや、同義だと言ってよい」
「身体から抜け出る何かは、精神とでも魂とでも呼べる、か」
「むしろ呼び名は今論点ではないのだ。魂がそこに在ると言う事だ」
「観念の世界のものではなかったと」
「でないと身体を見る目はないだろう。結論、魂は実在する、だ」
「重さは量れないにしてもか」
「そこでだ。魂には重さがないと思うのだ」
「なんだい、さっきはあるような話し方をしていたじゃあないか」
「無いのだ。軽いのだ。何故だと思う」
「謎掛けかい」
「そんなに大層なものではないよ」
「観念の存在だから、という答えは使えないしなあ」
「簡単だ。宙に、浮かんでいるからさ」
「あはは、そりゃあ確かにそうだ」
「まあ、それが俺の魂に対する見解だ」