8 魔法使いの誤算
「誰も……誰、も私を……誰も……」
精霊堕ち。精霊を身に宿す王族特有の病とも言える。
精霊に心を蝕まれ、本人の意思は薄弱化する。心が精霊に侵され、そして人ならざる存在に侵された影響は身体にも帯びていく。
協力関係から一転し、精霊の触媒関係になる。
伸びきった細い髪が、首に纏わり付いて今にも自分の髪で首を絞めてしまいそうに見えた。ぼそぼそと呟いたまま近付くこちらに目もくれないセシル王子の表情は、出会った時とはまるで別人だ。
「セシル。久しぶりだな」
返事はない。それでもセシル王子の前で立ち止まるエリアスは、そこでしゃがむようにして腰を下ろした。柔らかな声と共に、視線もできるだけセシル王子に合わせ、口角を上げた笑顔はエリアスなりの配慮だろう。
それでも、セシル王子はまだ変わらない。下を俯いたまま、呼びかけるだけではこちらに気付いてくれる気配もない。カリッガリッと妙に固い音が聞こえると思って私も一歩前に出て覗き込めば、自分の爪を噛んでいた。常に自分の身嗜みに気を遣っていたセシル王子にはあり得ない行動だ。深爪にも近い状態にもかかわらず、まだ齧り、僅かに血まで滲んでいた。
精霊堕ちが全て自分の殻に閉じこもるわけじゃない。言葉で拒絶してくる場合もあれば、言葉は発するけれど会話が通じない場合も、不自然ではない日常生活を送っている場合もある。それは精霊落ちの度合いと、本人と精霊の資質による影響が強い。
ふと、セシル王子の右肩の位置に重なる精霊を見る。本来なら、王子達の呼びかけで出したり引っ込めたりできる精霊だけど、精霊堕ちは精霊の触媒状態だからほぼずっと姿を見せている。
一年前出会った時のセシル王子の精霊は、美しい巨大なエイの精霊だった。それが
「形がっ……」
思えば声に出た。セシル王子の傍にはもうエイの姿はどこにもない。下半身は魚、上半身は人間の女性に見えるけれど、毒々しい雰囲気からは人魚のような可憐さはどこにも感じられない。
異形の精霊が、セシル王子の右肩へ寄りかかるようにぷかりぷかりと浮かんでいた。
エイの精霊。水属性の中では高位の精霊だった。水を生み出す魔法を操ることもできる尊い精霊だ。セシル王子は基本書類や公務が殆どだからあまり精霊に頼ることはなかったけれど、本人は「いつか海のエイも見て見たい」と言うほどに自身の精霊が気に入っていた。
エイの精霊はとても心の清らかな人にしか召喚されないと、私もお師匠様から教えてもらったことがある。洗練な心の証明でもある精霊が、……今は全く別の姿で宿主を触媒にしている。
一年前に見た時は可愛くも神神しく見えたエイが、今は禍々しい女性霊のようだった。
「?精霊魔法の使い手の目から見ても珍しい精霊なのか?」
「……下がって」
ほお、と怯えも悲しみもせずただ感心するように精霊に目を向けるエリアス越しに、私は杖を構える。
「もうできるのか?」と意外そうに振り返りつつ、一度立ち上がったエリアスは正面を開けてくれた。呼びかけても返事がない、攻撃をしてくる気配もない精霊堕ち相手ならすることも単純だ。この状態なら外すことも、そしてこの魔法なら出力を間違えたところで他に被害もないと安心できる。
杖を構える。自分の魔法が精霊魔法と知らず、私なんかじゃ効果もないと王子達に使うことも怖じけた魔法を今こそ振るう。
「浄化魔法」
精霊魔法と普通の魔法は、一見違いがないものも多い。だから私も、この魔法が一般的な魔法と変わらないと思い込んでいたし、誰にも疑われなかった。
一般魔法との決定的な違いは二つ。その一つは、今は殆ど使い手のいない希少な魔法であること。
そしてもう一つは、魔法が精霊にも影響することだ。
一般的な魔法は、使い手本人の魔力を使う。現代で一番精霊魔法に近いと言われている王族の魔法も、消費する魔力そのものは自分のものだ。それを精霊に与えることで、その精霊の魔法を使用させてもらえる。
それに対して精霊魔法はその名前の通り、この世界に存在する精霊から力を借りて使う魔法だから魔法の源が決定的に違う。そして精霊の力を借りた魔法は、当然同じ存在である精霊にも作用する。だから通常は精霊に効果を成さない浄化魔法もまた、精霊相手に効果を発揮する。
杖から浄化の光が放たれ、セシル王子と精霊を一瞬で包んだ。流石の光量にセシル王子もその顔をこちらに上げたのが、光に覆われる前に一瞬見えた。出力を出し過ぎて一度部屋全体を照らした光が、再び消えるのもまた一瞬だった。
光の中心にいたセシル王子は、茫然と目を開いて宙を眺めていた。
爪を噛むのも止め、酷く強ばっていた肩も降りていた。しゃがみ込んだまま閉じていた足も片方だけ脱力したように伸びている。
窶れた顔は変わらないけれど、褪せていた肌の色も髪色も血色が通ったように明るさを帯びていく。青の瞳にはもう淀みはなく、もとの澄み切った眼差しだった。
良かった、ちゃんと成功だ。
「……、……?……ここ、は……?」
ぽかりと、口が開いたままのセシル王子は瞬きを一度した直度、不思議そうに部屋の天井から周囲を見回した。
精霊堕ちの間の記憶も朧気なのだろう。自分が何故ここにいるのかもわからないように首を左右に振り、そして真正面にいるこちらに目を向けた。エリアスも、セシル王子が正気に戻ったことがわかったらしく「おぉ」と嬉しそうな声を漏らす中、セシル王子本人はまるで絶句でもするように驚愕に目を見開いていた。
正面に立つ私を視界にいれてくれたのも一瞬、それよりも遙かに私の隣に立つエリアスを凝視する。
「兄……上……?ッ何故ここにっここはッ私、は……?」
「!私がわかるのか?素晴らしいぞスロース!褒めてつかわす!」
ハハッ!と上機嫌に再びセシル王子へと歩み寄るエリアスに代わり、私は二歩退く。
エリアスは褒めようと振り返ってくるけれど、今は私に振らないで欲しい。浄化魔法こそ成功したものの、私が一年前に正体を偽った上に役にも立たず、精霊堕ちになった理由の一因であることは変わらない。
セシル王子の視界から少しでも隠れるように、エリアスの陰に逃げる。幸いにもセシル王子も私よりようやく会えた憧れの兄のことしか見えていない。
「久しいなセシル。背も伸びたか?」
「っっ……!!夢だっ……夢だ夢だこれは幻だあり得ないっ……!!兄上がっ兄上が突然私の前に現れるわけがっ……」
「夢でも幻でもない。それともまだその眼は現実を映せていないのか?」
まだここがどこかもわからないのだから驚くのは無理もない。再び頭を抱え顔ごと視線を泳がせるセシル王子は、エリアスが差し出した手を取る余裕もなさそうだった。両手で頭を抱えたまま、深爪の指を立てる。
自分の手を取られないことにエリアスは一度手を下ろすと、今度は再び片膝をついて視線を合わせた。「セシル」と呼び、今度はその肩へ手を置こうとしたその瞬間。
「ッ来るな!!!!」
ブオン、と。突如右肩の精霊がその巨大な尾を横ぶりにエリアスを弾き飛ばした。
精霊じゃない、実際は精霊の尾が纏った水の膜がエリアスにぶつかった。精霊自身は物理攻撃を受けることも与えることもできないけれど、精霊が生み出す魔法は別だ。
ビンタと言えるような可愛いものじゃない。首の骨が折れてもおかしくないような音をたて、片膝をついていたエリアスが横殴りで部屋の端まで吹き飛んだ。
壁に亀裂が入り壁際にあった棚が傾き、エリアスの上へと倒れる。
「エリアス?!」
思わず叫んでしまう中「何故!!」と、私よりも遙かに大きい悲鳴に似た声がセシル王子から放たれた。
まずい、混乱している。セシル王子は誰にもこんな暴力を振るうような人じゃない。
「何故!!帰ってきたのです?!今頃になって!!貴方のッ!貴方の貴方ッ貴方が消えたせいで!私は!!」
「?何故私のせいなんだ??」
ガラガラと棚とその中身が溢れる音と一緒に、エリアスの返事が聞こえた。
セシル王子が目を剥いて捲し立てる中、下敷きになっていた筈のエリアスは軽々と巨大な棚を片腕で退かし、前髪を掻き上げながら立ち上がった。さっきまでの喜々とした表情から一転して、今は怒っているのかもわからない平坦な表情だ。
永らく掃除されてなかったのだろう棚からついた埃を服から払うように叩きながらも、怪我をした様子はない。自分が弾き飛ばした兄相手に「黙ってくださいッ!!」と歯を剥いて怒鳴るセシル王子は、血を吐きそうな声で喉がガラつき出した。
「何故今更!!私をッ私達を捨てたのは貴方の筈だ!!王族としての責務も!!私達も捨てた!!!ッなのに今更!!今更どうしてっ……」
セシル王子、落ち着いてくださいと。頭には浮かんだのに声が出なかった。伸ばしかけた手も途中で震え引っ込める。これがゲームであれば、きっと選択肢もそしてそれを実行する勇気もあったのに、私の目の前にはそんな都合の良いものは今も昔も浮かんでこない。言えるわけがない、「今更」なんてそれこそ私に向けられるべき言葉だ。
激昂という言葉が相応しいほど、歯を剥き瞼がなくなるほど大きく見開いて声を荒げるセシル王子は精霊堕ちとはまた違う、それでも別人のようだった。
青の目の焦点が合ってないかのように触れながら、膝をついたまま両手を床に付き、拳にして叩きつけた。精霊堕ちは間違いなく浄化されている。それなのに、我に返ったセシル王子はむしろ精神状態が落ち着くどころか悪化した。
立ち上がったままその場でセシル王子を見つめ返すエリアスも答えない。何がおかしいのかもわからない、口角を上げただけの笑みを向けるだけだった。
何も言わないエリアスに、セシル王子は「見ないでください」と、独り言のような声量で再び突き放すような言葉を溢す。
自分からはエリアスから目を離せないかのように、限界まで見開き乾ききった眼球からピリピリと涙が滲み出す。固く鳴らされる整った白い歯が、最後に食い縛るかのようにガチンッ!と痛いほどの音を立てた。
「ッどうして今!!!帰ってきてしまうのですか!!!!!」
ドパンと、大きな水の固まりが精霊からエリアスへと放たれた。叫ぶのと同時のそれは、セシル王子の意思そのものだ。
横に逸れて避けたエリアスだけど、水は次々と生じていく。足もとに違和感を覚えてみれば、あっという間に床に水たまりができていた。
ビチャンピチャンと足を動かすだけで水面が揺れるほどの水がたまっている。まさかと、足下から再びセシル王子に目を向ければ浄化した筈の彼から再び陰鬱な影が纏わり付き初めているのがわかった。思わず「セシル王子!」と何も考えずに叫んでしまったけれど、それも遅い。一度浄化された筈のセシル王子の目が再び淀み、銀髪と全身の色が褪せていく。精霊堕ちの症状が再発した。
途端にぐらりと横に倒れるかのように身体を揺らしたセシル王子は崩れ、再び膝を抱えてしまう。もうその目には私も、そしてエリアスのことも映さなくなった。
一人の世界に閉じこもったまま、またぶつぶつと何かを唱え、噛むところのない爪をカチカチと噛みだした。
床に水面を揺らすほどの水が、セシル王子のことだけは避けて揺蕩っている。
精霊がくるりとセシル王子の周囲を回転し、また右肩に戻った。人間と同じ形の両手を得た精霊が、するすると愛おしげにセシル王子の頬を撫で、こちらを感情のない目で見つめてきた。
もうセシル王子は自分のものだと、そう主張しているかのような精霊の動作にそれだけで血の気が退いた。まるでこちらへ意思を持って嘲笑っているように見える。
「スロース、これはどういうことだ?浄化は??」
「浄化は、確かに成功した。……ッけど原因であるセシル王子の心が安定しないと……!」
ジャバジャバと、いつの間にか足首を飲み込むほどの高さになった水を蹴りながら、エリアスがこちらに歩み寄ってきた。どこか怒っているように聞こえる低い声と口調に、振り返れば珍しく眉間に力が入っていた。
完全に精霊堕ちに戻ってしまった。しかも、部屋に訪れた時はこちらに何の動きも見せなかった精霊からの意思表示は、セシル王子がさらに掌握されたように見える。
チャプンチャプンと、決して狭くない部屋が凄まじい速さで膝丈の高さまで水位があがってくる。セシル王子は守られても、私達のことを精霊は守る気がない。
一度退避しましょうと、私は扉へと足を向けた。エリアスから返事はなく、数歩進んでから背後から音が聞こえないことに振り向けばその場に佇んだままセシル王子の小さくなった背中を食い入るように見つめていた。
扉を開けようとすれば、水圧で開かない。
扉の下に隙間があった筈だとそこで思い出せば、足下には水の膜が目貼りのように隙間を埋めていた。ただ水を溢れさせているだけでなく、精霊が意図的に部屋を密室状態にしていることに気付いた瞬間、喉だけが干上がった。セシル王子が今そんなことを考える余裕があるわけがない。つまり精霊が意図してそうしたということだ。
ますます不味いことになったと、確信が強くなる。今も「私なんて」「誰も」というセシル王子のつぶやきに紛れてクスクスと、……精霊が、笑った声が聞こえた気がした。
本当に一度ここで逃げないと、下手な刺激でも部屋全体に膜を張られるだけで済まない。それ以上の段階に進んでしまう。
まだ一歩も動こうとしないエリアスに大声で呼びかける。ようやくこちらに足を動かしてくれた彼の豪腕で、今度こそ扉が開かれた。
「?!ッこれはどういうことです!!?」
ジャバンッとエリアスの力尽くで開けられた扉から脱出したと同時に、溢れ出した水の波に廊下で待ってくれていたハリー公爵が声を荒げる。
急いで廊下に逃げて勢いのまま壁にぶつかり振り返れば、エリアスが扉を閉じてくれていた。
本来ならそれでも隙間から漏れ出しておかしくないにも関わらず、扉が閉じられただけでピシンと水も止まった。私達が脱出する数秒の間にだけ溢れた水が、廊下に広がり床も、そして扉脇に立っていたのだろうハリー公爵の靴もズボンの裾も濡らしていた。
「セシルは!精霊堕ちはどうなった?!」
「私もわからない。浄化魔法は効いたらしい」
「ッッならば何故!今まで大人しかったセシルの部屋から大量の水が溢れてくるのです!!?」
私に向けられたのだろうハリー公爵の怒号に、エリアスが答えた途端矛先も変わった。「わからない」と首を捻るだけのエリアスの態度に、余計にハリー公爵の怒号が増した。壁に背中を突け、呼吸を整えるのに必死の私は、まだ頭の中を整理するのに時間がかかる。
浄化魔法は、確かに効いた。あの反応は間違いなく我に返っていたし、正気だった。あとは信頼のない私に代わりエリアスが説得して、もう一度城に戻ってやり直そうとただ持ち直してくれれば良い筈だった。
どの王子にとっても目標だったエリアス自ら迎えに来て城に戻ってくると聞けば、王子達も喜んで話を聞いてくれると、……思ったのに。
「…………甘かった」
ガン、と後頭部を壁に打ち付ける。目眩がしたのが痛みのせいなのか、現状のせいなのかもわからない。
忘れていた。……そう、言った方が多分正しい。
自分で思わず溢した言葉に、一人首を横に振る。今日、ここまでいくつもきっかけはあったのに、考えが足りなかった。そうだ、エリアスが他の王子達にとってどういう存在かを完全に見誤っていた。
エリアスは王の中の王で、王になるべく生まれた王子。そう、ゲーム設定でも語られていて、一年前も実際に王子達は皆口を揃えてエリアスをそう称していた。
彼らはエリアスのことを認め、尊敬していた。王子達にとって行方不明になった第一王子は越えるべき壁であり、目標とも呼べる存在だとゲームをしていた前世の私も、そして一年前の私もそう思っていた。
ゲームのハッピーエンドでは王子の誰もが兄という超えるべき壁を乗り越え素晴らしい王子となり、そして国王となっていた。だけどつまりそれは裏を返せば〝ハッピーエンドに行き着かず〟バッドエンドを迎えた彼らにとってのエリアスは
越えられなかった壁。コンプレックスであり劣等感そのものだ。
『人の心がない』
あの時の声が、また思い出させるように頭に巡る。
精霊堕ちになるほど王子として打ちのめされた彼らにとってエリアスは最も直視したくない存在だったことに今、気がついた。




