11 魔法使いの間違い
「エリアス待って!!」
「ッ水が!!!」
セシル王子のお部屋に私とハリー公爵が駆けつけた時にはもう、開けられていた扉から尋常じゃない水が廊下まで浸水を広げていた。
私の胸下に近い高さまでの水が扉からすごい勢いで放たれている。まるで小さな滝だ。
廊下にはエリアスの姿はなく、開けっぱなしにされた扉が全てを物語っている。開けた扉に手をかけ、放水の隙間から顔を覗き込む。私の身長では見えず、代わりにハリー公爵が一緒に濡れながらも「いたぞ!!」と教えてくれた。私も水から一度背中を反らし、大きく息を吸い上げる。
「ッエリアス!!セシル王子に何をするつもり?!!」
「おぉ、ちょうど良かった。スロース、もう一度浄化魔法を頼む。このセシルじゃ会話にならないのを忘れていた」
「ッセシルが正気でも会話にならなかったんだろうが貴様はァ!!!!」
ハリー公爵がとうとう声も言葉も荒げ出した。
私も「無理です!!」と叫びながら、滝の向こうで呑気な声をかけてくるエリアスにまずはどうしてこれを突き進められたのかと過る。いや考えるまでもない。あの人に人間の常識は通じないともう私は思い知っている。
「この水ではッ私は部屋に入れません!!セシル王子か私をッ……?!」
にゅっ、と滝の中から急に伸びてきた逞しい人間の手に、悲鳴がでかかった。「掴め」とエリアス王子の声も聞こえれば、つまりは引っ張り込んでくれるらしい。どうやらセシル王子はエリアス王子でも運べる状況にはないということだ。
「?!スロース!やめておけ!!エリアス王子の言動に合わせるな!!」
慌てた声でのハリー公爵の制止は間違いなく正しい。
凄まじい水流に一人逆らい押されている筈にも関わらず、生身で立っていられているエリアスがおかしい。だけど私もまた、今はちゃんと魔法がある。
呼吸を整え、杖を取り出し握る。自分自身に対し、水中魔法を振るう。自在に泳ぐまではできなくとも、水の中で呼吸はできるようにはなる。有害ではない以上規模も構わず魔法も展開できる。私に効果さえあれば、エリアスには効果の有無はきっと関係ない。
グーパーと手を開いて閉じてと変わらず私を呼ぶ動きに、意を決して息を吸い上げる。水中が大丈夫だとわかっても、もしもを考え限界まで肺を膨らませそして手を掴んだ。
次の瞬間、思わず目を瞑ってしまうほどの勢いで水面が顔面にぶつかった。水の感触とともに、息ができるか勇気を出して確認する時間も必要なかった。
「ッどうだ?これで照準はなんとかなるか?」
じゃばんっ!と垂直に天井へ近い位置へと水面から飛び出した。
呼びかけられる声に視線を下げれば、エリアスの顔が今は下の位置にある。水の中で、あろうことか私を肩の位置まで持ち上げ、乗せてくれていた。エリアス本人が高身長で呼吸には苦じゃない位置に水面があるのもあっての余裕の持ち上げだった。
セシル王子は?!と探せば、見つけた。さっきと同じ壁際のほぼ同位置で、彼一人が丸い膜に囲われるかのように、水に避けられ守られながらそれにも気付かないように蹲っていた。照準は合う以上、もう仕方ない。
杖を握り直し、セシル王子へと再び振るう。
「浄化魔法!」
光が一直線に水上も水面も構わず走り抜けた。また一瞬の目を凝らす光が破裂し、今度はセシル王子の変化だけじゃない。部屋を満たす水そのものも逆流する雨のように散り出した。〝精霊堕ち〟が浄化されれば、当然その暴走も無効化される。
光が収まったと同時に、魔法で産み出された水も濡れた痕跡以外全てが綺麗に消えた。
そしてセシル王子は、一人全身乾いたまま床に手をつけて周囲を見回す。
「セシル!」
さっきのことなんてなかったかのように、明るい声に口角だけ笑って歩み寄るエリアスは私を肩から下ろすのも忘れているようだった。
私の方から足を動かし、思い切って飛び降りる。濡れた床に足が滑り、手をつきながらなんとか無事に着地した。一度また部屋の外に逃げたい気持ちに駆られながら、今はエリアスの隣に並ぶ。まだ水中魔法の効果がある以上、たとえまた精霊堕ちになって閉じ込められても暫くは保つ。もしかしたら話途中にまた浄化魔法が必要になるかもしれない。
エリアスもきっと理由があってセシル王子に話に来た筈だと、性格はともかく本人の有能を信用するしかない。
「ッ兄上っ……!ッ来ないでください!!何故まだここにっまだ……まだ……?ッさっきのもッゆっ夢では……!?」
「どちらも現実だ。そんなことよりもよく聞けセシル。お前が精霊堕ちから脱する為にはその原因を精神的に脱しなければならないらしい。つまり乗り越えれば良い」
ッ元も子もない!!!!
まだ自分の状況も判断できないセシル王子へ淡々と一方的に告げるエリアスに、気を抜けば口が動きそうになる。私でもわかる。そんなことを言われてすぐに気持ちが切り替えられる人間なんて一握りだ。
さっきの記憶も精霊堕ち中と混濁しているセシル王子は、エリアスがいる状況こそ少し受け入れられているようだけど、エリアス本人にはまだ拒絶的に壁の限界まで後退る。夢が現実かさえ認識できないセシル王子に突然精霊堕ちやその脱し方を言われたところで応じられたら苦労しない。
普段のセシル王子からは想像できないくらい、手足をバタつかせてエリアスから怯えるように退がる。今自分がどこにいるかを気にする余裕が今度はなくなっている。青眼が釘でも打たれたかのようにエリアスへ固定されたままだ。きっと私の存在にも気付いていない。
「乗り越える……?!無理ですッ!!わたっ、私のことを何も知らずに何故そのような」
「?私がお前のことなどわかるわけがないだろう?」
は???
思わず顎が外れかけた。ぽかりと口が開いたままエリアスに顔を向けながら、耳を疑う。怯えるように蒼白な顔で首を激しく振ったセシル王子に反し、エリアスはまるでさも当然のように眉一つ動かさないままだった。悪びれる気配すらなく、口角をあげただけの笑みで弟を今この部屋で誰よりも高い位置で見下ろす。
「城にいた頃もお前との接点は殆どない。話したことも数える程度だ」
「エリアス王子!!貴方は何をしに戻ったんだ!!!?」
さらりと一度ならず二度までもセシル王子へ更に傷を増やすような発言に私も茫然としてしまう中、ハリー公爵が部屋に飛び込んできた。当然だ、てっきり私も何かセシル王子にかける言葉が見つかったのだと思ったのに、どうしてむしろ傷つけるのか?!
セシル王子も、精霊堕ちが浄化されたとは思えないほど顔から血色が落ちていく。垂らされた両手の指先が一目でわかるほど酷く震えている。乗り越えるどころか、エリアスとの溝が更に深く大きくなっていく。
「ッ貴方が不在の間!セシルがどういう気持ちで!!周囲の期待に応え続けてきたと思っている?!」
もういっそハリー公爵の方がずっとセシル王子の兄に見えてくる。
右手を大きく横に振るい、声を荒げ歯を剥き出しに怒鳴るハリー公爵に対して、エリアスは今も何故怒っているのかもわからない様子だ。小首を傾げ「期待?」と、ハリー公爵の言葉を短く返す。二色の目を動揺どころか戸惑い一つなく向けるエリアスは、腕を組みながらとうとう呼びかけるべきセシル王子にではなくハリー公爵へと向き直ってしまう。
「期待なんて気にするだけ無駄だ。そんなの考えなくても、王族として普通に務めを果たしていれば勝手に応えているものだ」
ああ、本当にこの人は。
ぎゅっと気付けば自分の眉間にこれ以上力が入ったのが鏡を見なくてもわかった。ここまで来て、セシル王子の目の前で、それでも全く弟に寄り添えていない。
そのエリアスの「普通」がどれだけ他の王子達には大変なものだったか。王の中の王、そう言われる彼が同時に生まれ持っての勝者なのだと静かに思い知る。きっと奢りでも冗談でもない、エリアスは本気でそう思っているし、常識だと思っている。それに傷つく人が今目の前にいるともわかっていない。
セシル王子の表情を見るのが怖いと思いつつ恐る恐る目を向ければ、私以上に強ばっていた。それなのに、セシル王子の表情もわからず、エリアスは軽く調子で言葉を続ける。
「まぁそんなことはどうでも良い。私が言いたいのはセシルが」
「なんなんだ貴方はっ…………!」
エリアスの悠々とした声を上塗るように震えた声が放たれた。
セシル王子の声に、ハリー公爵もそしてエリアスも同時に彼へ振り返る。さっきまで怯えばかりを露わにしていただけのセシル王子の青眼が、今は鈍く光ってみえた。整った白い歯を軋む音を漏らすほど食い縛り、床に足を崩した体勢から組み直す。今まで私も、そしてきっとエリアスもハリー公爵でさえ見たことがないだろう、激情に満ちた顔だ。……ゲームでも、セシル王子がこんな表情をすることはなかった。
憎しみすら滲んだ、こんな表情は。
「人の気も知らず突然消え!突然現れ!!私が死に物狂いで積み上げてきたものを真っ向から否定する!!貴方の背しか知れなかった私の気持ちなど考えたこともないだろう!!!」
問いかけではなく断言だった。
正気を取り戻したにも関わらず、脇目も振らずエリアスだけを睨みながらガラつく喉を張り上げ怒鳴る。膝立ちになったまま、見開いた目尻から僅かに涙が浮かんでいた。手を大きく横振りに、自分の状況に疑問を抱く余裕もない。
エリアスが目を丸くしてセシル王子を見つめるけれど、私さえわかる。セシル王子の感情はエリアスには届いていない。セシル王子の言葉よりも、セシル王子の激昂する姿が珍しいだけの表情に見えて仕方がない。
「貴方にっ……貴方には私の気持ちがわからないっ……そうだ当然だ。貴方にとって私がやってきたことも……私、自身も……っ」
まるで手応えの感じられないエリアスの反応に、セシル王子がガクンと膝を再び落として座り込む。語りながら、とうとう目尻の雫が頬を伝った。握る拳が震え、一度噤み、噛んだセシル王子の唇から血が垂れた。
ははっ……と開いた途端、空虚な笑い声が落とされた。酷く歪な笑みをエリアスへ浮かべるセシル王子の青の瞳が濁り出す。
「取るに足らないっ……。ッ大海の砂粒のように……瑣末な存在でしか、なかったのだから……!!」
まずい、と。思った瞬間には遅かった。
どろりと瞳が沼色に染まったセシル王子の輪郭が急激に歪み、溶けていく。私が杖を構えようとした時にはもう人の原型を留めていなかった。
ぐにゃりと、まるでスライスが化けていたかのように身体全体が固体から液状の塊へと化したと目を見張った瞬間、重力に負けたようにセシル王子が音を立てて液状化のまま床に散らばった。
セシル!とエリアスとハリー公爵が手を伸ばした時には、セシル王子だった液体と溶け合うように一瞬でまた床に水が満ちた。
水溜まり程度の靴底しか濡らさない嵩から、みるみるうちに水が満ちていく。慌てて振り返れば、開けっ放しにされた扉のままその逃げ口も埋めるように今度は隙間だけじゃない部屋全体が水の膜で覆われていた。今度こそ逃げられない。
しかも、足元も今度はただ嵩が上がってくるだけの水じゃない。
「ッスロース!!これはどうなっている?!足がッ……」
「そんなことよりもセシルはどこにいった?!精霊の仕業なら死んでるわけじゃないだろう?!」
足を持ち上げてはフラつくハリー公爵に、エリアスの声が遮る。
私の腕を掴むと、有無も言わせず持ち上げられた。ずぼりと、一歩も動かせなかった私の足が埋もれていた分も抜ける。作物のような引っ張りあげられ方のまま、エリアスの肩にまた俵担ぎをされた。お陰で私一人は足が取られることはなくなる。
部屋に満ちた〝沼〟から。
「精霊堕ちです。……最悪の……。完全に、精霊と逆転しました……」
口にすればするほど絶望しかない。
水だけを生み出していた精霊が、今はドロついた沼を生成している。
宿主であるセシル王子が精霊に一部として飲まれ、逆に精霊が今は私達の前に単独で存在を成している。半透明にしか視界で捉えられない筈の精霊が今は透けておらず、さらに大きさも増している。もともと大型に入るサイズだったのに、これじゃあ化け物だ。まるでそういう生き物のように完全に実体を手に入れ、セシル王子がいた場所に浮かんでいた。
ニンマリと、人と同じ形で人じゃない笑みを妖しく浮かべて。
浄化どころか、精霊堕ち最高段階に到達させてしまった。




