第八話 王太子の隈と試薬
査問の場。ギルドの大会議室。
クレメンス侯爵が正面に座っている。イレーネが傍聴席にいる。
「ハイネ子爵家五女。無許可の臨床試験について弁明を」
深呼吸。
「無許可ではありません。理事権限による許可書がこちらに」
「理事会の承認を経ていない。無効だ」
「理事規定第十七条。緊急性のある研究については理事単独の判断で許可を出せます」
「緊急性の根拠は」
「エドヴァルト王太子殿下の慢性発熱です。既存の薬では効果不十分でした」
「王太子の名前を出せば済むと思うな」
「名前ではなく事実です。殿下の治療経過記録。さらに東区第二診療所での追加臨床試験、患者八名全員に改善。ギルバート元部門長の立会い記録付きです」
ざわめきが広がった。侯爵が立ち上がった。
ざわめきが広がった。
ギルバートが証人席に立った。片眼鏡をかけ直し、落ち着いた声で語った。
「わしはコレット・ハイネの臨床試験に立ち会った。薬の調合から投薬まで、すべての工程を監視した。不正は一切なかった」
「ギルバート殿。引退された方の証言に信頼性は——」
「わしの四十年の経歴を否定するのかね」
ギルバートの声は静かだが鋭い。
「それならばこのギルドの薬学の基礎は、存在しないことになるが」
ギルバートの声は静かだが鋭かった。侯爵が口をつぐんだ。
「さらに言えば——わしはこの薬の効果を自分の目で確認した。王太子殿下の慢性発熱が消え、東区の患者八名全員が回復した。これを否定するには、同等の反証が必要だ。ありますかな、侯爵殿」
沈黙。
侯爵が立ち上がった。
「ギルバートは引退した老人だ」
「四十年の経歴を持つ権威です。その証言を否定すればギルドの歴史を否定することになります」
侯爵が黙った。
ここで最後の証拠を出す。
「イレーネ・ド・クレメンス主席研究員の論文について。核心部分は私の実験ノートから盗用されたものです」
イレーネの顔が蒼白になった。
「証拠として——ノートの綴じ目の痕跡、入退室記録の照合、インクの成分分析結果を提出します。イレーネ様が深夜に第三実験室に入った解錠記録があり、論文の下書きから私の自家調合インクの成分が検出されています」
「でたらめよ!」
イレーネが叫んだ。
「でたらめよ! あの女が証拠を捏造したのよ!」
イレーネが叫んだ。扇子が床に落ちた。
「イレーネ様。成分分析は第三者機関で再現可能です。捏造であれば、同じ検査を行えば異なる結果が出ます。再検査を求めますか?」
イレーネは黙った。唇が震えている。
再検査すれば、結果は同じだ。彼女もそれを分かっている。
「侯爵殿。弁明はございますか」
クレメンス侯爵は銀の杖を握りしめていた。
「……これは陰謀だ。オルデンブルク公爵が仕組んだ——」
「侯爵殿。具体的な証拠をお示しください。陰謀であるという証拠を」
侯爵は答えられなかった。
「成分分析は再現可能です。同じ検査を行えば同じ結果が出ます」
大会議室が静まりかえった。
そのとき、ベアトリスが入ってきた。ギルド事務局長。
「追加の証拠を提出いたします。クレメンス侯爵の顧問在任中における研究成果の不正流用記録。過去五年分です」
侯爵の顔から血の気が引いた。
「この女は改革派に買収されている!」
「事務局長は中立です。買収の証拠があればお示しください」
ベアトリスの声は冷静だった。
◇
帰り道。レオンが隣を歩いた。
帰り道。夜の廊下をレオンが隣を歩いた。
足音だけが響く。他には誰もいない。
「コレット」
「はい」
「よくやった」
「まだ結果は——」
「結果は出ている。お前の目を見れば分かる。震えていない」
見透かされている。けれど不快ではなかった。
「レオン。一つ聞いてもいいですか」
「何だ」
「あなたにとって、この査問はどういう意味がありますか」
「改革の第一歩だ。旧体制を正すための」
「それだけですか」
「……」
「また『それだけ』ですか」
「お前は——鋭いな」
「観察は得意なので」
レオンは小さく笑った。目元に皺が寄る。
「正直に言おう。お前が正当に評価される組織にしたかった。それが一番の動機だ」
「私が——」
「お前の研究を読んだとき、こんな才能が隅っこに埋もれている組織は間違っていると思った。変えなければならないと」
「レオン——」
「だから——」
「よくやった」
「まだ結果は——」
「結果は出ている。お前の目を見れば分かる。震えていない」
(……この人には何もかも見透かされている。)
「ありがとう、レオン」
「何度目だ」
「数えていません」
レオンは笑った。目元に皺が寄る、本物の笑顔。
「では——隣にいてもいいか」
「では——隣にいてもいいか」
心臓が跳ねた。
「実験室の隣ですか」
「……そうじゃない」
「分かっています」
レオンの素手が、少しだけ私に伸びかけて——止まった。
「今はまだ。査問が終わったばかりだ」
「ええ」
「落ち着いたら——もう一度、聞く」
「待っています」
「……待ってくれるか」
「ずっと」
レオンの首の後ろが赤かった。
二人で歩いた。肩と肩の間に手のひら一枚分の距離。
いつかこの距離が縮まる日が来る。
二人で歩いた。肩と肩の間に手のひら一枚分の距離。
「コレット」
「はい」
「査問で——お前が震えなかった理由は何だ」
「理由?」
「以前のお前は、手が震えていた。怒りと不安で。だが今日は違った」
「……証拠が揃っていたから、というのもあります。でも一番の理由は——」
「何だ」
「隣にいてくれる人がいたから」
レオンの足が一瞬止まった。
「……それは」
「理事として、ですよ」
「理事として、か」
「今のところは」
レオンは黙って歩き出した。首の後ろが赤い。
いつかこの距離が縮まる日が来る。
でも今は——並んで歩いてくれるだけで十分だ。
「実験室の隣ですか」
「……そうじゃない」
「分かっています。ただ——今はまだ、隣を歩いてくれるだけで十分です」
レオンの首の後ろが赤かった。
「……分かった。歩こう」
並んで歩いた。肩と肩の間に手のひら一枚分の距離。
明日、すべてが決まる。




