第七話 片眼鏡の老師
ギルバートは薬棚の前で慎重に言葉を選んだ。
「お前さんの薬は本物だ。だが査問の場で技術論を展開しても通じない。相手は政治家だ」
「分かっています」
「ならば結果で戦え。王太子の病が治った事実を、誰が否定できる?」
「侯爵なら否定します。『たまたまだ』と」
「ならば再現性を示せ。同じ薬で複数の患者を治せば偶然ではないと証明できる」
「東区の八名のデータがあります」
「それだ。事実の積み重ねが、政治家の嘘より強い」
ギルバートの片眼鏡がきらりと光った。
「もう一つ。お前さんのノートの件だ。イレーネの論文との照合結果は」
「フランが集めた入退室記録で、イレーネが深夜に第三実験室に入った記録がありました。魔導式の鍵の解錠ログに残っています」
「決定的だな」
「はい。さらにインクの成分分析も完了しました。イレーネの論文の下書きから、私の自家調合インクの成分が検出されています」
「つまり、イレーネは原本を直接写したということか」
「コピーではなく、原本のページを剥がして下敷きにした可能性が高いです」
ギルバートは深いため息をついた。
「侯爵の娘が、こんな幼稚な手口を……」
「幼稚でも、権力があれば通ってしまうのがこの組織です。だから証拠で覆す」
「よし。わしも査問に出る。証人としてな」
「よし。わしも査問に出る。証人としてな」
「先生。でもそれは——クレメンス侯爵を敵に回すことになりますよ」
「わしはすでに敵に回されている。二十年前にな」
「二十年前?」
「あの男がわしを追い出したのだ。薬務部門長の座から。理由は——わしが貴族の研究成果の横取りを告発しようとしたからだ」
「先生も——同じ目に」
「ああ。だがわしは証拠を揃えられなかった。お前さんは違う。ちゃんと証拠がある」
ギルバートの目が鋭くなった。
「二十年越しの借りを返す。それもわしの動機だ。不純と言わば言え」
「不純なんかじゃありません。正当な——」
「正当も不純もない。正しいか間違っているかだ。そしてあの男は間違っている」
「先生——」
「言っておくが、お前さんの味方をしているわけではない。正しい薬学の味方をしているだけだ」
(……この世界の男性は不器用な言い方をする人ばかりだ。)
◇
査問の前夜。フランが記録を整理してくれた。
「コレット。入退室記録、インク分析、ノートの綴じ目照合、全部揃ったよ」
「ありがとう、フラン。あなたのおかげよ」
「私なんて走り回っただけだよ。全部コレットがやったんだよ」
「一人ではできなかった」
「……コレット。平民の私でも、役に立てたかな」
「役に立つとかじゃない。友達だよ、フラン」
フランの目に涙が浮かんだ。
レオンが実験室に来た。
「まだいたのか」
「準備が終わらなくて」
「手伝う」
「理事が清書を?」
「書類整理は得意だ。公爵家の教育を舐めるな」
長い沈黙。インクの匂いと紙の音。
長い沈黙。
インクの匂いと紙の音だけが響く。
窓の外では、夜の虫が鳴いている。
こんな時間まで二人で仕事をするのは初めてだった。
けれど不思議と、気まずさはない。
レオンの筆跡は整然としている。
公爵家の教育を受けた文字。
でも時々、数式を書くときだけ崩れる。
計算に没頭すると字が雑になるタイプらしい。
(……研究者だった頃の癖が残っているんだ。)
「レオン」
「何だ」
「前に聞いた話ですが、レオンも研究者だったんですよね」
「昔の話だ」
「何を研究していたんですか」
「魔法薬の安定化。お前と似た分野だ。だからノートの価値が分かった」
「研究は楽しかったですか」
「楽しかった。お前のノートを読むまで、その気持ちを忘れていた」
レオンの目が温かい光を灯していた。
「明日、一緒に戦ってくれますか」
「最初からそのつもりだ」
「最初からそのつもりだ」
レオンの目が、私を見ていた。深い青の瞳。いつもの冷たさはなく、温かい光が灯っている。
「レオン」
「何だ」
「なぜここまで私の研究に関わるんですか。理事のお仕事は他にもたくさんあるのに」
「お前の研究が正しいからだ」
「それだけですか」
「……それだけだ」
(……また「それだけ」か。でもこの人が嘘をつくとき、目をそらすことは知っている。今、目をそらしていない。つまり——嘘ではないけれど、全部でもない。)
二人で書類を仕上げた。深夜になっていた。
実験室を出るとき、レオンが歩幅を合わせてくれた。肩と肩の間に手のひら一枚分の距離。
廊下の魔導灯が、二人の影を並べて映していた。
二人で書類を仕上げた。深夜になっていた。
実験室を出るとき、レオンが歩幅を合わせてくれた。廊下の魔導灯が二人の影を並べて映した。
明日、すべてが決まる。
明日、すべてが決まる。
部屋に戻ろうとしたとき、レオンが立ち止まった。
「コレット」
「はい」
「明日——何があっても、お前の隣にいる」
「レオン……」
「理事としてではなく。一人の人間として」
その言葉を、胸の奥にしまった。
「私も。レオンの隣にいます」
レオンは何も言わず、歩き出した。
けれど、歩幅はいつもより——ほんの少しだけ遅かった。
私に合わせるためではなく。
立ち去りたくないかのように。
明日、すべてが決まる。
ベッドに横になり、ノートを胸に抱えた。
前世で。白い部屋で。
深夜に一人で実験をしていた夜のことを思い出す。
あの頃は、隣に誰もいなかった。
論文を盗まれても、声を上げる相手がいなかった。
だから泣き寝入りした。
でも今は——フランがいて、ギルバート先生がいて、ベアトリスさんがいて。
そしてレオンがいる。
(……前世の私が見たら、驚くだろうな。モブ令嬢が、こんなにたくさんの味方に囲まれているなんて。)
目を閉じた。




