第二話 実験ノートを拾った公爵
「ハイネ子爵家五女、コレット・ハイネ。薬務部門末席研究員」
私のノートを手にした男が、肩書きを読み上げた。声は低く、感情の読めない平坦な響き。
ギルド理事室。呼び出しを受けたとき、てっきり叱責だと思った。
けれど、机の上に開かれていたのは——私の実験ノートだった。
「このノートの内容について説明を求める」
レオンハルト・ヴァン・オルデンブルク。オルデンブルク公爵家の当主にして、魔法ギルド理事。改革派の旗手として知られる男。
黒髪に深い青の瞳。長身で隙のない所作。椅子に座っていても威圧感がある。
私は無意識に白衣の袖を引っ張った。インクの染みが目立つ。
こんな格好で公爵の前に立つことになるとは思わなかった。
レオンは私の袖を一瞥した。けれど何も言わなかった。
「お返しいただけますか。それは私の研究ノートです」
「質問に答えろ」
「……何をお聞きになりたいのですか」
「この仮説だ。既存の解熱薬の魔力消費を三分の一に抑えつつ、効果時間を倍にできるとある。根拠は」
心臓が跳ねた。
あのページを読んだのか。
前世の薬理学に基づいた仮説で、この世界の理論では説明しにくい部分がある。
「植物の有効成分の抽出法を改良すれば、理論上は可能です」
「抽出法の改良とは具体的に」
「煮沸ではなく、低温で時間をかけて成分を溶出させます。高温だと有効成分が壊れるので」
レオンの眉がわずかに動いた。
「その理論は、どの文献に基づいている」
「文献はありません。私の仮説です」
「仮説だけでここまで精緻な処方箋を書けるとは思えない」
(……まずい。前世の知識がバレる。)
「独学です。薬草の性質を観察して、試行錯誤の結果です」
「なぜ独学で、これほどの体系的な知識に到達できる。通常の薬学教育では十年かかる内容だ」
「子爵家の五女は、暇だけは豊富ですので」
「暇で片付く量ではない。だが——追及はしない。今はまだ」
レオンはノートをめくった。一ページ一ページ、丁寧に。
沈黙が重い。時計の音だけ。
レオンの指がページを繰るたびに心臓が跳ねた。
あのノートには、前世の知識がそのまま書いてある箇所がいくつもある。
「二十七ページの図解。薬草の成分が体内で変化する過程を示している。こんな図解はこの世界のどの文献にもない」
「観察に基づく推論です」
「推論でここまでの精度は出ない。だが——実証されれば薬学の常識が覆る」
レオンの声にわずかな熱が混じった。
研究者としての興味。それが少しだけ安心させた。
「このノートの内容を、他の誰かに見せたことは」
「ありません。個人的な研究です」
レオンはノートを閉じた。
「このノートは預からせてもらう」
「困ります」
「研究の正式な予算をつける。ギルドの公式プロジェクトとして」
「……は?」
「条件がある。経過報告は直接私に。通常の審査は経るな」
「なぜですか」
「通常の審査を経たら、この研究はクレメンス侯爵の目に留まる。あの男がどうするか、想像がつくだろう」
クレメンス侯爵。
前理事長で現・顧問。有望な研究を横取りすることで知られている。
「理事は、この研究を守ろうとしてくださるんですか」
「正当な評価がされる環境を作る。それが私の仕事だ」
冷たい言い方。けれどその目は真剣だった。
「お任せします」
「もう一つ」
「はい」
「このノートの癖だが——仮説を書くとき、ページの左端に小さな花の落書きを描いている」
(……あの無意識の癖まで見られていた。)
「集中するときの癖です」
「そうか」
レオンの口元がほんのわずかに緩んだ。
ノートを返された。
「明日から第三実験室を使え。上級研究員用の設備が必要だ」
「特別扱いでは」
「必要な設備を使わせるだけだ」
(……十分に特別扱いだと思う。)
◇
理事室を出て廊下を歩いた。
すれ違ったのは銀髪の女性。イレーネ・ド・クレメンス。侯爵令嬢で薬務部門の主席研究員。
「あら、コレット。理事室に何の用かしら」
「書類の提出です」
「末席の研究員が理事室に出入りするなんて。何か特別なことでもあるの?」
「いいえ。何もありません」
「そう。ならいいけれど」
笑顔だった。完璧な貴族の笑顔。けれど目は笑っていない。
イレーネの香水が残った。甘くて重い匂い。
フランが廊下の角から顔を出した。
「コレット! 大丈夫? 理事室から出てくるの見えたけど」
「大丈夫。研究の予算がついたの」
「えっ! すごい! 理事直轄? 前代未聞だよ!」
「だから目立つの。このことは他の人には——」
「言わない。分かってる」
フランの目が真剣になった。
「コレットのためなら何でもする。初めてできた友達だもん」
「……ありがとう、フラン」
フランが去った後、自分の席に向かった。
自分の席に戻る。窓際の一番奥。ノートを開くと、レオンが読んだページにかすかに手袋の繊維がついていた。
(……一ページ一ページ、手袋越しに触れていたんだ。なぜ手袋を外さなかったんだろう。)
些細な疑問が、記憶に焼きついた。
なぜ手袋をしたまま触れたのか。
几帳面な人だ。他人のものを素手で触ることに抵抗があるのかもしれない。
あるいは——手を見せたくない理由があるのか。
それよりも問題はイレーネだ。理事室に出入りしたことを見られた。父親のクレメンス侯爵に報告するのは時間の問題だろう。
モブは隅っこで静かに暮らしたかった。けれどノートが拾われた瞬間から、歯車は動き始めている。
三日後、私の実験ノートの一部が、イレーネの論文として提出されることになる。




