第十話 モブ令嬢の居場所
ギルドの薬務部門で、私の席はもう窓際の一番奥ではない。
第三実験室の、日当たりのいい席。
主席研究員に昇進した。モブ令嬢がギルドの頂点に立った。
けれど肩書きが変わっても、やることは同じ。白衣を着て薬を作りノートに仮説を書く。左端にはカモミール。
フランが助手として正式配属された。
「コレット主席研究員!」
「フラン。コレットでいいよ」
「一回だけ呼ばせて! コレット主席研究員!!」
「一回って言ったよね」
フランは笑った。そばかすの顔が眩しい。
フランは笑った。そばかすの顔が眩しい。
「コレット。一つ聞いてもいい?」
「何?」
「主席研究員になって、何か変わった?」
「うーん……仕事が増えた」
「それだけ?」
「あと、レオンが書類を持ってくる回数が増えた」
「それ仕事の話じゃなくて——」
「仕事の話よ」
「本当に?」
「……たぶん」
フランはにやにやしている。
ギルバートが時々やってくる。ぶっきらぼうに薬草を置いていく。
「新しい品種だ。使え」
「ありがとうございます」
「次の薬を作れ。まだやることは山ほどある」
◇
ある日。レオンが実験室に来た。
「コレット。話がある」
「何ですか」
「王太子から正式な依頼だ。医療制度改革の一環で魔法薬の標準化委員会を設置する。委員長をお前に」
「私に?」
「王太子の指名だ。そして私の推薦でもある」
「モブ令嬢が委員長なんて」
「モブかどうかは関係ない。実力と実績で選ばれた」
「やります」
「即答だな」
「やります」
「即答だな」
「迷う時間が惜しいので。それに——前世でも同じ夢を持っていました」
「同じ夢?」
「一人の研究者の成果が、多くの人の命を救う仕組みになること。前世では叶わなかった。でもこの世界では——叶えられるかもしれない」
「叶える。かもしれない、ではなく」
「……叶えます」
レオンが笑った。もう皺を隠さなかった。
「それでいい」
「迷う時間が惜しいので」
レオンが笑った。もう皺を隠さなかった。
「もう一つ。公務ではない。個人的な話だ」
空気が変わった。
「お前のノートを拾った日のことを覚えているか」
「もちろん」
「あの日ノートを読んで——研究者としての感動だけではなく、もう一つ感じたものがあった」
「何を」
「ノートの左端の花を見て、この人に会いたいと思った。技術でも知識でもなく、純粋な好奇心が描いた花。それを見て——」
レオンが視線をそらした。首の後ろが赤い。
「一人の人間として会いたいと思った」
「レオン」
「迷惑だったら忘れてくれ」
「忘れません」
「忘れない?」
「忘れたくないです。それに——私もです」
「お前も?」
「ノートを返してくれたとき手袋にインクがついていたでしょう。あのとき思ったんです。この人は一ページ一ページ丁寧に読んでくれたんだって」
「……そんなところを」
「観察は得意なので」
レオンの素手が、私のインクで汚れた手に触れた。火傷の跡同士が重なった。
研究者の手と、研究者の手。
フランが扉の向こうから覗いてすぐに引っ込んだ。走り去る足音と「やったー!」が聞こえたが、聞こえないふりをした。
フランが扉の向こうから覗いてすぐに引っ込んだ。
走り去る足音と「やったー!」が聞こえたが、聞こえないふりをした。
ギルバートが廊下から声をかけた。
「おい若いの。いちゃつくなら実験室の外でやれ」
「いちゃついてません!」
「わしの目は節穴ではないぞ」
ギルバートは薬草の束を投げ渡して去っていった。
新しい品種。ラベルに「カモミール改良種」と書いてある。
(……先生なりの祝福なのかもしれない。)
レオンが薬草を受け取った。
「ギルバートは相変わらず不器用だな」
「レオンに言われたくないと思いますよ」
「……否定はしない」
窓から光が差している。
窓から光が差している。
モブ令嬢はもう隅っこにはいない。
けれど左端にカモミールを描く癖はきっとずっと変わらない。
ノートを開く。新しい仮説を書き始めた。
隣の席でレオンが書類を広げている。
同じ部屋で、同じ時間を過ごす。
それだけのことが、こんなにも——温かい。
同じ部屋で、同じ時間を過ごす。
それだけのことが、こんなにも——温かい。
ベアトリスが書類を持ってきた。
「コレット主席研究員。委員会の初回会議は来週月曜日です。資料の準備をお願いします」
「分かりました。ベアトリスさん」
「それと——おめでとう。遅くなったけれど」
「何がですか」
「全部よ。主席研究員の昇進も、委員長の就任も、それから——隣の席の人のことも」
「え、それは——」
「事務局長は全部見ているのよ」
ベアトリスは微笑んで去っていった。
エドヴァルト王太子から手紙が届いた。
「コレット嬢。体調はすこぶる良い。君の薬のおかげだ。隈も薄くなったと言われた。これから改革に全力を注げる。感謝する」
手紙の最後に、小さな追伸があった。
「レオンが最近よく笑うようになったと、幼馴染として報告する。原因は明白だ」
(……王太子にまで見抜かれている。)
フランが走ってきた。
「コレット! ギルバート先生が来てるよ!」
「分かった。行くわ」
ギルバートは実験室の隅に座っていた。
「おい。わしの改良カモミール、育ってるか」
「はい。元気に育ってます」
「よし。次はこれを使って新しい処方を考えろ。解熱だけでなく、慢性痛にも効く薬を」
「慢性痛……前世の知識なら、いくつかアプローチが——」
「前世の話はわしにだけしろよ。レオンの若造にも話したんだろうが」
「先生も知ってたんですか」
「わしの目は節穴ではないと何度言えば分かる」
ギルバートは不機嫌そうに去っていった。
でも最後に振り返って、小さく言った。
「よくやった。わしの後継者として、合格だ」
涙が出そうになった。
「先生——」
「泣くな。薬が塩辛くなる」
——実験ノートの左端に、今日のカモミールは二輪だった。
ノートの最後のページに、小さく書いた。
「この世界のすべての人に届く薬を作る。前世の夢を、この世界で叶える」
その横に、カモミールを二輪描いた。
一輪は私。もう一輪は——隣の席にいる人。
レオンが顔を上げた。
「何を書いている」
「秘密です」
「秘密か」
「いつか見せます。全部終わったら」
「全部とは」
「薬が国中に届いて、誰もが健康でいられるようになったら」
「長い道のりだな」
「ええ。でも——隣にいてくれる人がいれば、歩けます」
レオンは答えず、ただ静かに自分の書類に戻った。
けれど——指先がかすかに震えていたのを、私は見逃さなかった。
——実験ノートの左端に、今日のカモミールは二輪だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
もし、この物語を少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや★評価などの形で応援をいただけますと、大変励みになります!!




