第三話
母の引っ越しは既に済まされ、面会できるのは明日だと言われた。
教育のことはこれからマーサと相談すると伝えらられ、マーサとは違う若い侍女に寝室に連れて行かれる。
部屋はお義姉様の部屋のから扉を二つ挟んだ場所だった。
客間にあった寝具を運び込み、大急ぎで私の部屋として整えてくれたらしい。
お礼を言って部屋に入る。侍女が去って一人になると、奥のベッドに深く腰掛けた。
漠然とした不安が湧いてくる。当然だ。下女として働きに来たはずが、こんなに良いドレスを来て今日からは貴族だなんて。急に遠くへ来てしまったみたいだ。
部屋にはうちの家より数段上質な家具が几帳面に置かれ、塵ひとつないよう掃除されている。
なんだか落ち着かない。原作「きせデレ」のヒロインもこんな気持ちだったのだろうか。
夕飯は部屋に持って来てもらえることになり、手早く済ませた。湯浴みを手伝ってもらってベッドに入ったが、私は寝付けず寝返りばかり打っていた。
目が覚めた時には、窓から明るい太陽の光が差し込んでいた。いつ眠りに落ちたのか記憶にないが、眠れそうになくとも疲れていたのだろう。
そっと部屋の扉を開けて様子を伺うと、廊下には何人かの侍女が行き来していた。ふかふかの絨毯で足音が響かないから目が覚めなかったのだ。
部屋に持って来てもらった朝ごはんを食べるとドレスを着替え、母に面会できることになった。
このドレスも今は義姉のおさがりだが、近いうちに私に合わせたものを仕立てるらしい。
鏡の前で不安げな表情を浮かべた自分を見た私はきゅっと口角を上げた。
こんな弱気、ヒロインにふさわしくない。
「大丈夫です。行きましょう」
控えていた侍女に声をかける。
母が引っ越したという離れは屋敷の裏庭を挟んだところにあった。
母はどこか遠くを見るような目で、美しい刺繍の施された布ばりの椅子に腰掛けている。
「お母さん」
声をかけると、茫洋とした瞳がわずかに動く。
「勝手に行動してしまってごめんなさい。でも大丈夫よ。お医者様を呼んでくださるそうだから、お母様も長生きできるわ」
私が続けると、ハッとしたように母は声を上げた。
「リラ!リラなの?」
「ええ。お母さん、私よ」
「ここはどこなの!?わらわら入って来て家具を持っていくのよ。そしたらここに……」
「ここはヴァイオレット伯爵家のお屋敷よ」
「まあっ!それじゃあ伯爵様に会えるのね!」
「そうね。会えるかもしれない」
母の目は私を見ているようでいて、微妙に焦点がずれてどこか別の場所を見ていた。伯爵様の話を終えると糸が切れたように黙り込んだ母に私は背筋を伸ばして微笑んだ。
「大丈夫よ、お母さん。私が守るからね」
小さい頃はときどき、私たちの家に伯爵様が訪れていた。青紫色の瞳を持つ紳士で、たまに三人で街に出かけて。その頃の母は優しかった。美人で優しい母のことが幼心にも誇らしかった。
母は商家の娘だったらしい。何不自由なく育った母は、お忍びで下町に来た伯爵様と恋に落ちた。
実家の商家は反対したが、恋に盲目だった母は実家を飛び出した。
しばらくはそれで幸せだった。だけど私が物心ついて少しした頃、伯爵様は家に来なくなった。
それでも支援は滞りなかったから生活に問題はなかったのだけれど、夢見がちな少女だった母は会いに来てくれない伯爵様に不安を募らせて、精神的に不安定になっていった。
魂が抜けたような姿が痛ましく見えて下くちびるを軽く噛むと、医師だという男性が前に出て来た。
「アリス様のことはお任せください。お嬢様」
「はい。よろしくお願い致します」
スカートを持ち上げてお辞儀をする。私は侍女に導かれるままに離れを出た。
昼食はお義母様たちと一緒に摂ることになった。お義姉様は相変わらず、バイカラーの目を伏せている。
お義母様からこれから受ける教育について告げられた。
幼い頃伯爵様から教育を受けていたお陰でマナーはそこまで見苦しくないそうだ。これなら想定より早いペースで教育を進めていけると言われた。
翌日から授業が始まった。
前世の記憶のこともあり、数学なんかは早い段階で学園に入学できるレベルまで追いついた。
「貴族というのは外聞が大切ですからね。貴女がこの屋敷に乗り込んできたとき、すぐに屋敷に入れられたでしょう?」
ある日、お義母様の従姉妹だというマナーの講師にそう言われた。
はい、と私は頷く。
あの時のことは反省している。でも後悔はしていない。
母に長生きしてもらうにはこうするしかなかったのだ。
母の状態はカウンセリングや治療を経て落ち着いて来て、時々微笑みを浮かべるまでになった。時々離れに訪れ、危うさを孕みながらも穏やかな母の周囲の空気にホッとしている。
会いたがっている伯爵様には、母はまだ会えていないが。
晩餐時には伯爵様が帰ってくる。私も同じ食卓につくが、幼い頃とは違って全くの他人みたいだ。いつも固い顔をして食事をし、固い顔で部屋を出ていく。
ぽつぽつ交わされる世間話の合間にも、私のことに触れたことはない。
そんな状況だからもちろん母に会わせる訳にはいかない。私の処遇をどう思っているのか顔色でくらい覗かせて欲しいものだが、全くの無視。
私はいまだに距離を測りかねていた。
話したことがないといえばお義姉様もそうだ。尤もこちらは不思議はない。父の浮気相手の子供が突然乗り込んできて妹になっただなんて、受け入れられるはずもない。
お義姉様と顔を合わせたときには会釈して、できるだけ大人しくするようにしている。
そんな大変な伯爵家での生活だが、魔石を扱う瞬間だけは心奪われる素敵な時間だった。
庶民にも魔石が浸透しているとはいえ、一部の裕福な商家で使われているくらいだ。伯爵様の支援で暮らしていた私はほとんど魔石を見たことがなかった。
伯爵家では下町と違って、家事のほとんど全ての過程で魔石を使う。料理でも洗い物でも掃除でも。
さらに色入りの貴族が魔石を扱うと、魔石からふわっと光が溢れでてくるのだ。
明かりを消した部屋でポットの青い魔石に手を翳し、あたたかくなーれと心の中で唱える。ここの呪文は意味さえわかればなんでもいいらしい。
すぐに青い光がぽおっと魔石からこぼれ出てきて、部屋を優しく照らした。
「わあっ!ファンタジー!」
何十回目のセリフで声を弾ませる。この瞬間は本当に、何度見ても飽きない。




