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第51話 故郷の風、フィレンツェの街

長い旅路を経て、ついにトスカーナの丘陵が視界に広がった。

乾いた土とオリーブの木々、羊飼いの歌声。

幼い日に見慣れた景色が胸に迫り、思わず足を止めた。

ミラノの喧噪やヴェネツィアの潟とは違う、素朴な大地の匂いが鼻を満たしていた。


一度は遠ざかった故郷。だが戦乱に追われ、再びこの土地に立っている。

胸に去来するのは安堵と同時に、拭えぬ敗北感でもあった。

《最後の晩餐》を残したはずのミラノは、もはや他人の手に落ちている。

僕にできるのは、再び筆を取り、ここで生き直すことだけだった。


やがてアルノ川を渡り、フィレンツェの街並みが姿を現した。

赤茶けた屋根が連なり、遠くにはサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の大円蓋が輝いていた。

ブルネレスキの偉業は、十数年を経てもなお街の誇りとしてそびえていた。


街に入ると、往来は若い芸術家たちの熱気で溢れていた。

彼らの姿は、かつてこの街で夢を追っていた若き日の自分を映す鏡のようでもあった。


フィレンツェの街並みに目が慣れはじめた頃、僕はかつて修行を積んだ工房を訪ねる決心をした。

少年の日々を過ごした場所――そこで過ごした時間は、今の自分を形づくった礎だった。

胸の奥に高鳴りを感じながら、石畳を踏みしめる。


工房の扉の前で足を止めた瞬間、胸の奥に懐かしい匂いがよみがえった。

木屑と石膏、油に混じる顔料の匂い――若き日を過ごした時間の残り香だ。


思わず手を伸ばそうとしたとき、背後から声が飛んできた。

「……おい、まさか、レオナルドか?」


振り返ると、ひとりの男が目を丸くしてこちらを見ていた。

マルコ――かつて同じ徒弟として師ヴェロッキオの下で机を並べた同僚だった。

髪には白いものが混じり、皺も増えていたが、その笑みは若き日のままだった。


「マルコ……!」

互いに驚き、次いで声をあげて笑った。

「お前、すっかり老人の顔になったな」

「お前だって! 昔はひょろ長いだけだったのに、今はすっかり貫禄があるじゃないか」


笑い合いながらも、どこか胸が締めつけられる。

年月は確かに流れ、かつての仲間を変えていた。

だが、この再会の温かさは失われていなかった。


「師匠は……いるのか?」


マルコの笑顔が翳り、短い沈黙が落ちた。


やがて彼は重い声で言った。

「……十数年前に亡くなった。工房で急に倒れてな。腕のいい医者がヴェネツィアにいると聞いて、必死に連れて行ったんだが……間に合わなかった」


言葉が胸に突き刺さった。


マルコはさらに続けた。


「だが、墓はこっちにある。後で顔を出してやってくれ。お前が戻ってきたと知れば、師も喜ぶだろう」


視界が滲んだ。

振り返れば、かつての工房の壁が今もそこに立っている。


「入れよ。師が残したままになっている」


工房の中は驚くほど昔の姿を留めていた。

石膏像が並び、机の上には定規やコンパス。

壁には色褪せた素描が掛かり、棚には乾いた顔料の壺が眠っている。

時が止まり、僕が去った日のまま封じ込められたようだった。


マルコは工房を見渡しながら、静かに言った。


「師はな、この工房を片付けなかったんだ。

お前が何かあったときに、戻ってこれる場所であるようにと――そう言っていた」


僕は机に触れ、目を閉じた。

若き日々の記憶が浮かび上がる。

師が笑い、導き、叱咤してくれた声が、工房の空気にまだ染みついている気がした。


やがてマルコが棚の奥から小さな包みを取り出した。

「これをお前に渡すよう、師に託されていた」


差し出されたのは羊皮紙の束だった。

封蝋には、見覚えのある師の印。

掌に載せると、ずしりとした重みが伝わった。


「最後までお前のことを案じていた。誇りに思っていたよ」


僕は言葉を失い、手紙を胸に抱いた。

まだ封を切ることはできなかった。

今はただ、この工房の沈黙と、師の影を受け止めるしかなかった。


外の鐘が遠くで響き、夕暮れが街を包む。

僕は工房を後にし、懐に手紙を抱いたまま歩き出した。

その一枚の紙が、これからの道を指し示す――そう信じながら。

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