第四十四話 「旅に立つ者」
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真白なタイルは均一に並び、天窓から差し込む日差しを反射させていた。
広い空間にまばらな足音が響く。
早朝の新千歳空港国際線乗り場付近には、いくつかの東南アジア系のグループが居るほかに、人の姿は少なかった。
黒いサングラスと黒いエナメル質の革ジャンを着た女性は、赤いリップの口元を真一文字に結び、壁際のベンチの腰かけた。
彼女はハンドバッグ片手に軽装である。既にトランクを預け荷物として手続きを済ませたからだ。
一冊の文庫本を取り出し、目を落とす。
もう何度も読み返したのその本は、読むわけでもなく儀式のようにページをめくる。
やがて手を止め、バッグに仕舞い視線を上げた。
あの一件から、はや5日が過ぎていた。
警察の聞き取りもその日の内に終わり、過ぎてみれば何気ない日常に変異は存在しなかった。
「おはようございます」
眼前に立つ人物に初めて気が付き、女性は口元を綻ばせた。
「おはよう。影山さん。こんなところで奇遇ね」
「いいえ、そうでもありません。あたしは、沢木さんに別れのご挨拶に来たので。今から、どこへ行くのですか?」
真琴は、いつものように淡々とした口調で告げた。
そして、服装は普段の学生服ではなく、大人びた黒のタートルネックにロングスカートとという格好だった。
「うん? 私はただ一週間ほど海外旅行へ行くのだけれど」
沢木は余裕の態度を崩さずに告げる。
別れだなんて仰々しいと笑い流す。
「……そうですか。それなら構いません。けれど、あたしはあなたに感謝と、そして謝罪をしておきたかったのです」
真琴は一切目を逸らすことなく、言葉を告げる。
沢木は肩をすくめ、腕を抱くように続きを促した。
「まずは、これまで講師としてお世話になりました。予備校で学ぶことにあまり意味を見出していませんでしたが、沢木さんと話せる機会を素直に楽しみにしていました」
真琴は、過去を振り返り感謝を述べた。
これまで人と関わる事を絶ってきた真琴にとって、沢木は心地いい距離感で、よき恩師と言えた。
「そして、もう一つはごめんなさい。あたしは、結局は最初から最後までズルをしていたことになります。そうでなければ、今回の真実も分からなかった……あなたは完璧に立ち振る舞っていたことになりますから」
「どういうことかしら」
沢木は冗談の続きを促すように、真赤な唇を曲げた。
「あたしは、人の言葉の嘘が分かります。そういう体質なのです。だから、あなたが最初から最後まで、徹頭徹尾の嘘を吐きつづけて居ることに気が付いているのです」
真琴の言葉にも、沢木は態度を変えない。
その代わり、微笑みも返さない。
沢木が話す彼女自身の話は、全てが嘘だった。
大学に通っていることも、彼女の出生地の話題も、生年月日も。
すべてのプロフィールを真琴が尋ねると、全て嘘の答えが返ってきた。
けれど、雑談の話題はそうではない。
彼女は無駄に嘘を重ねているわけではなかった。
あくまで、普段の日常会話や最近の出来事は真実しかなく、彼女自身の出自の話に至った場合のみ嘘が返ってきた。
その徹底したスタンスを、真琴は短い付き合いの中でも理解していた。
けれど、真琴は佐々木ゼミナール事件があって、最初に沢木に質問をした。
彼女は八十川の事をそれ以前に見たことも無いと言っていたが、嘘だった。
しかし、八十川自身があの日初めて佐々木ゼミナールに行ったという言葉は、真実だった。
何故、沢木は八十川の事を知っていたのか。
そして、なぜ彼女はそのことを嘘で偽ったのか。
それだけが気がかりで、やがてある疑念を真琴は抱いた。
八十川は沢木の過去に関係している。
「そう、そうだったのね」
「でも、あなたと交わした会話が意味が無かったわけではないのは確かです。実は最近、気が付いたこともあります。嘘には種類があって、その匂いは微妙に異なるのです」
真琴は、少し弾んだ口調にかわり自身の発見を披露する。
こんな話をできる相手も、限られる。
「あなたの嘘は寂しくて、それでも優しかった」
「誰も傷つけたくなくて、自分自身が何かを得ることも諦めて、霞の中で微笑むような。居心地がいいのに”くしゃみ”が出てしまいそうな嘘でした」
「あはは。なかなか詩人だね、影山さんは」
確かによく、くしゃみをしていたね。と、沢木はようやくいつものように笑った。
つられて、真琴も唇の端を僅かに上げる。
「そうです。最近、たまに趣味で文章を書いたりしている影響でしょうか。沢木さん……いいえ、山崎優子さん」
真琴の言葉にも、彼女は表情を一切変えずに静かに頷いた。
「影山さんには嘘は通じないんだもんね。いいわ、全てを教えてあげる。色々苦労掛けた分のお詫びとして、特別講義をしようかな」
それまでの人のよさそうな笑みも、全身に身に纏った鎧のような服装も。
すべて剝がれ落ちたように、出てくる声はひたすらにフラットで少し疲れた少女の物だった。
「私は山崎愛子の娘であり、元は山崎優子という名だった。今は、”お金を払えばある程度の事をやってくれる人達”のおかげで、『沢木詩織』という名で、実年齢よりも4歳年を誤魔化している」
偽装された身分。
すべてを嘘で上書きし、過去を消して生きている女性。
それが、沢木詩織だった。
「父親の名は……本当のところは知らない。けれど、推測はしている。私の母親は少しどうしようもない男性を愛していて、けれど母は結構しっかり打算的で、最終的に何を優先すべきかを考えて、考え抜いて。色々な物を捨てる覚悟で、私を選んでくれたんだと思っている」
未来が無い男性との共同生活か、子供の未来が生きる可能性を少しでも目指すか。
通常なら、考えつかない方の選択肢を、山崎愛子は選んだ。
「愛だけでは、二人の大人が食べて行って、さらには赤ん坊まで育てていくのは無理だと、あの人は考えたんだと思う。だから非合法で、倫理観なんてまるで無視した手段を取って、金だけは持っている愛の無い男性の元に身を置くことで、私を少なくとも健康的に育てる事に専念した」
真琴は静かに、その過去に耳を傾ける。
「けれど、さすがにカンの悪い男でも察するときは来る。DNA鑑定を迫られた母は、最終手段として繋がりを持っていた、いわゆる裏社会に身を投じ、私に少しばかり顔の手術を行って新しい身分を用意してくれた。その頃はもう色々理解できる年ごろになっていた……もちろん、気持ちの面では強がっていないと、とてもじゃないけど耐えられなかったけれどね」
泣き言一つ言わないなんて、そんなことは不可能だっただろう。
沢木の泰然として達観した空気感も、相応の過去から生まれたものだった。
そうして、山崎愛子は消息を絶った。
「身寄りがない子供として公的機関の援助を受けつつ、私は現在の立場を何とか掴み取った」
それが、沢木詩織のすべてだった。
そして、西条の前ではその話をすることなく、最後まで嘘を突き通した。
存在しない、筒井優子という名の少女まで創り出して。
「沢木さんの、選択について、あたしは何も言えません。だけど、きっとあの場に引き合わせられたことに疑問を持つと思いましたので」
真琴は謝るように視線を下げた。
せめて、沢木に対して疑念を残したくないと、運命が引き寄せた奇跡でもないのだと伝えたかった。
「いいの。私も……最後に、あの人と言葉を交わすことが出来て、本当に良かったと思う。だけど、未練は残したくなかったから」
決断を、ぶれさせる気は無かった。
だから、最後まで嘘を選択した。
真琴は西条の計略を聞いた時、消えた山崎優子という女性と、過去をすべて偽り八十川を知らないと嘘を吐いた女性の姿が急に重なった。
だからこそ、西条と沢木を引き合わせておきたかった。
西条の未来は破滅しかない。
だからせめて、沢木がどのような選択をして、答えを返すのか真琴には分からなかったが、西条の目的ぐらいは達成してほしい。
西条が成澤への襲撃を実行する前に、なんとかシンボルタワーの下へ沢木を連れて来てくれて、二人を引き合わせる事を幹人に託していた。
今日、12月25日。
それは、世間ではクリスマスでもあるし、山崎優子にとっては誕生日でもある。
そして今年におけるその日は、本来の山崎優子にとって18歳を迎える日である。
子供が成人として認められ、親との法的なつながりである親権が、意味を失う日でもある。
西条は、その日までに優子の行方を見つけることが出来れば。
例え意味が無いとしても、ほんの一時と言えるかもしれない期間でも。
家族としての繋がりを得られるかもしれない、そんな可能性に賭けていた。
自分の存在すべてを賭けた大立ち回りは、全てそのために行われたものだった。
「もう、お別れなんですね」
真琴の言葉に、彼女は頷く。
「ええ。私は、沢木詩織は旅に出るの。誰も知らない場所へ行って、まだ人が通ったことない道を探して、私は私を探しに行くの。ごめんなさいね、影山さんを色々なことに巻き込んだのも、きっと私のせいなんだと思う」
沢木は立ち上がった。
そろそろ時間だ。
搭乗ゲートが閉まる前に、保安検査場を通過する必要がある。
そのまま、女性は足を鳴らしゲートへ向かった。
真琴はその場に立ち、その背中を静かに見送った。
「待ってくださいッ、……はぁ、はぁ、……ユウちゃん」
国際線ロビーに男子高校生の声が響く。
それは、息も絶え絶えで、声変わり直後のまだ垢抜けない不格好な叫び声だった。
その腕は包帯が巻かれ、首から吊るされていた。
「……僕は、僕はいつまでも待ってます。たとえ君が姿を変えても、名前を変えても。僕は、君を待ち続けます」
その背中に向かって、声を投げかける。
一方的に、自分勝手に叫ぶことを許されるのは、彼はまだ少年であるからだ。
一瞬止まった彼女の、その背中は静かに震えると、再び歩を進めた。
一度も振り返ることなく、けれど僅かに歩調を緩めて、旅立ちのゲートへ向かう。
その状況に、真琴は僅かに混乱し呆然と立ち尽くしていた。
そんな彼女の傍らに、もう一つ人影が並んだ。
「待ち続ける、あるいは、どこまでも探し続けるのかもな」
真琴の隣で悪戯っぽく付け足したのは、幹人だった。
「どうして? 君たちは何故ここにいるの?」
素直な疑問に、幹人はバツが悪そうに苦笑するも、清々しい顔で言い訳を始めた。
「まあまあ。男ってのは諦めが悪いもんでな。ついつい一途に引きずっちまうんだよ」
その言葉に、真琴は眉間にしわを寄せる。
「そして時には、泥臭く行くのが男子ってもんだ」
「まさか……尾行したのね、あたしを」
睨む真琴にも、幹人は白々しく腕を後頭部に回し伸びをした。
事実、事件後の真琴の動向を逐一観察し、まだすべてが解き明かされていないような気がした幹人は、真琴がどこかへ行かないか見張っていた。
「ま、こんな景色も夢に見たんだよ」
「……それは嘘でしょう。でも、まあ、いいわ」
真琴は咎める気もそがれ、旅立つ女性と見送る少年の背中を見つめた。
それを並んで見届ける幹人は、独り言をつぶやいた。
「会えない時間が続くと、気持ちはそのまま固まって一途になるんだろうな。だけど、一緒に時間を過ごして関わり合っていくと、人の気持ちは少しずつ変わって行って、いずれは別な想いになることもある。……真琴は、もうどこにも行かないでくれよ」
幹人の言葉に、真琴は静かに頷いた。
「ええ、あたしは別に、自らの意思で失踪したいと思ったわけではない。それに、そのような言葉を向ける相手は選んだ方がよいのではない?」
真琴は幹人にだけは分かる程度に弾んだ声で、冗談を言うように返した。
それを受けた幹人も笑って、「ま、とりあえず帰ろうぜ。早起き続きでもう眠い」といい踵を返した。
そして、付け足すように囁いた。
「でも、俺の言葉に嘘はないぜ」
幹人はそのまま、少し先を歩いて振り返らなかった。
真琴は改めて問い直すことはしなかった。
早朝の空港には、徐々に人足が増え始める。
旅に立つ者、帰途に就く者。
そして、帰るべき場所へ帰る者。
時が経ち、それぞれの成長と変化を伴う旅の果て。
想いを問い直すという行為の意味を、真琴は未だ知らなかった。
【影山真琴の明日の無い旅路 END】




