第四十三話 「誰かが居なくなるのは、嫌なんだ」
「……あなたなんですね、最初の出題者は」
意外なほどに、強い声音で彼は言った。
その腕に深々とナイフが刺さろうとも、西条と真琴の間に入り込み、頑として動かなかった。
八十川拓志は、右腕を真琴の眼前に差し出し、肘と手首の間に切先が突き刺しながらも西条の顔から視線を動かさなかった。
「お前……」
西条は驚きの余り、我に返る。
「真琴! 大丈夫かッ」
ややあって、懐かしい声が届く。
真琴の背後に駆け寄り、彼女を抱き寄せながら西条と八十川から真琴引きはがしたのは、息を切らした幹人だった。
彼に背後から抱えられ、彼の着ていたダウンコートを被せられる。
かなり走ってきたのか暖まっているコートの、その温もりは真琴の体を包み込んだ。
「ええ、あたしは一切外傷は無い、けれど……」
真琴の視線は、鮮血が溢れ出した八十川の腕に注がれる。
けれど当の本人はそんなことも意に介せず、西条に向かって吠える。
「僕の事を、ユウちゃんとの思い出を使って騙したことは、許せないけど、もういい。だけど……その人まで傷つける必要はないだろ……あなただって、もう誰かを襲う必要はないはずだ。僕は、僕はもう……誰かが居なくなるのは、嫌なんだ」
八十川は静かに、けれどハッキリとした口調で告げた。
それは、西条の両肩から力を消滅させるのに十分だった。
あの時、あの場所で。
一人の少女を囲んで過ごした二人の男たちには、共通する感情。
誰かが急に居なくなることへの悲しみ、痛み、後悔は、もう二度と御免だった。
「あ、ああ……」
膝から崩れ落ちた西条に、周囲の人は着目する。
すべては、この降り注ぐ雪のように、一瞬の存在として世界を漂い、そして消えていく。
西条はすべてを失くしたような気持ちだった。
「少しだけ、よろしいでしょうか」
その場に、女性の声がする。
西条と真琴は、その人物に目線を注ぐ。
茶色のふわりとカールした髪の女性は、人を安心させるようなたれ目に掛けた眼鏡を直しながら、歩み寄ってきた。
沢木詩織は、赤いマフラーを巻いてベージュのコートに身を包み、八十川と幹人と同じく息を切らしてこの場に馳せ参じていた。
「誰だ……」
西条は彼女を睨み返す。
もう凄む気力も残っていない。
「私は、佐々木ゼミナールで講師をしております、大学生の沢木です。少しの事情は、久田君と八十川君から聞きました」
そう前置きをして、彼女は冷たい空気を吸い込み、言葉を選びながら言った。
「……私は、塾講師という仕事柄、沢山の学生さんと関わります。その中で仲が良くなった人とは、多少なりともご家庭の事情などの話も聞きます」
静かに、西条に言って聞かすようにゆっくりと説明を続ける。
「数年前、筒井優子という学生が居ました。彼女とは話しがよく合い、とりわけ昔好きだった小説の話で仲良くなりました。……彼女は言っていました。自分の家には父は居ない、けれど時折感じたそうです」
「父のように優しい眼差しで、見守ってくれている人が居るのだと」
「その時間は、彼女にとってとても大切な時間だったそうです。もう、あの人たちと、あの場所に戻ることはできないけれど、彼女の中で大切な思い出として、この先も大事に抱えていくのだと」
沢木は、昔を懐かしむように目を細めて言った。
「『ルナシカに乗って、エルムヘヴンにみんなで行くから。だからきっと寂しくない』って、それが合言葉なんだそうです」
彼女の一言に、二人の男は顔を見合わせた。
欠落した記憶の中で、最後のピースが合わさった。
八十川と優子が空想した、物語の続きのオリジナルな世界。
中でも優子が考えた、『エルムヘヴン』という街は、見上げても見通せない遥か遠く、雲の上まで育つ大木の上にあり、そこでは自由に旅する人達が集い、交流する待ち合わせ場所なのだという。
世界を旅したそれぞれが、思い出話で歓談する楽園のように楽しい場所だと言っていた。
沢木の語る優子の存在は、噓ではない実像を持った。
八十川も、今の今までその合言葉を忘れていた。それほどに優子が突然いなくなったのがショックだったと言える。
西条も、傍らで見守りながら話半分に聞いていただけだったから、具体的な中身は忘れていた。
けれど、二人は確信を持って、沢木の言葉を嚙み締めた。
「……あの子は、あの子は幸せそうでしたか」
最後に、西条は尋ねる。
沢木は、静かに笑みをたたえて、頷くだけだった。
「彼女は、ちゃんと勉強して、普通に友達たちと笑いあって、色々な青春を楽しんで、普通に卒業していきました。……残念ながら、塾講師の私としてはその後の進路や所在地までは知りませんが、元気に暮らしていることでしょう」
やがて、サイレンの音が鳴り始めた。
警察と救急車が駆け付け、辺りは事件現場としての様相を呈する。
ナイフで暴行をした西条と、負傷した八十川はそれぞれの車両に連れていかれた。
「二人は、もう行ったら? 取り調べとかいつ帰れるか分からないよ」
沢木は幹人と真琴にそう言うと、二人は顔を見合わせながらも頷いた。
彼女はその場に残り、警察の聞き込みに流暢に対応する。
その時間稼ぎの間に、二人は足早にその場を後にした。
*
「それにしても、君はどうして今日ここに辿りつけたの?」
真琴の疑問に、幹人は少し照れながら答える。
「まあ、お前が出した謎解きの答えから言うと、『その日』はクリスマスだと思ったんだ。多分正解だろ?」
幹人の悪戯っぽい笑みに、真琴は素直に頷く。
それは、西条が告げた計画の実行日がクリスマスをミスリードしており、真琴が勘違いをして出題をしていたからだ。
「だけどさ、まあ、俺の見た夢の景色があっただろ。夢の景色はクリスマスとは違ったんだ」
幹人はそう言って、公園の奥にそびえる建造物を指さす。
そこには色とりどりの豪華絢爛な電飾で彩られた、シンボルタワーがあった。
「クリスマスまでの三日前からは、特別仕様になって緑と赤に光るって春田が言ってたろ。だけど、俺が夢で見た景色では、今日と同じカラフルな色だったんだ」
幹人は何気ない日常の一コマを想起して言った。
幹人は、これまでクリスマス仕様のシンボルタワーを見たことは無い。
それは、”夢の中での出来事を含めても”だ。
おのずと、夢の出来事はクリスマスより前となる。
そして、今日は12月20日。
イルミネーションが今の仕様で輝く最後の日だったからだ。
夢の景色が実行されるのは、今日しかない。
真琴は、息を吐きながら苦笑した。
「君の夢の景色の、背景描写まではあたしは分からない」
「だよな……そこは俺も反省してる。けどよ、普通そこまで分からんだろ」
言い訳がましく言うが、事が終わってみれば取り立てて責めるような話ではない。
「むしろ、君がそのことに気が付いてくれて、助かった」
真琴が目指した、西条と沢木を引き合わせるという目的は、幹人のおかげで無事果たされたのである。
「それにしても、お前はあそこまで先を読んでいたのか? 以前に沢木先生から、ええと、筒井優子さんの話を聞いたりしていたんだよな?」
幹人の疑問には、真琴は曖昧に頷く。
「まあ、そう、ね。そういう結末になったまでのこと」
「ん? まあ、いいか。こうして真琴も無事だったし、八十川のヤツの腕はヤバそうだったけど、まあ何とかなるだろ」
西条は無罪放免では済まないだろうが、それでも確かめたかった事の、ほんの一端でも掴めたはずだ。
代償は大きい、けれど全くの無駄ではないと知れただけ、少しは報われたのだろう。
「……君が、ちゃんとすべての謎を解いてくれて、本当に助かったわ。ありがとう」
真琴は、彼からかけてもらったダウンコートの前を手繰り寄せ、その温もりを感じながら言った。
一方の幹人は、寒空の下、トレーナー姿で震えていたが、男の意地として強気にはにかんだ。
「俺だけの推理じゃないぜ。姫野や春田、八十川もだし。それに藤木とか……あとはまあ、色々な。みんなで見つけた真実だ。みんなも寂しがってる、帰ったらたっぷり話してやろうぜ」
幹人は、もはや友達と言える戦友たちの顔を思い出しながらそう言った。
そして、その輪の中にはもちろん真琴もいる。
全員揃っての、人間関係なのだと実感していた。
「ええ。君も寒そうだし、早く帰りましょう」
「ああ。だけど、せっかくだから……」
幹人は、周囲を見回す。
喧騒から離れれば、公園は綺麗なイルミネーションに包まれていた。
まるで、幻想空間に訪れたかのような、青い光に包まれる。
二人は帰途に着く道中で、人工的な光による景色に見惚れていた。
「もう少しだけ、眺めて居ようぜ」
暗がりに立ち並ぶ二人は、その景色を目に焼き付けるかのように眺めていた。




