第四十一話 「どうにもならない関係」
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山崎愛子という女は、色素の薄い肌質に、不釣り合いなほど大きい口が印象的だった。
美人ではない、けれど男を魅了してやまない特有の色香を持つ女性だった。
1DKの築四十年のボロアパートには、黴と埃の入り混じったすえた空気が漂っていた。
くゆらせた煙は、扇風機すらない夏の夜に気だるく立ち上った。
唯一、植木鉢が一つ並べられる程度のバルコニーだけが、この借家の風情ある場所だった。
「ね、明日花火大会なんだって」
愛子が言葉と一緒に煙を吐き出す。
「ふーっ、花火ならこっからよくみえるんだ」
西条は並んで煙を吹き出し、ニッと口元を尖らせ自慢げに言う。
偶然、このボロアパートから河川敷までの間に背の高い建物が無く、バルコニーから身を乗り出すと黒い夜空に十五センチぐらいの炎の花が咲くのを見ることが出来る。
「ええー、せっかくだから見に行こうよぉ」
愛子がもたれ掛かりながら西条にねだるが、つまらない冗談を受け流すように「別にどっから見ても変わらんだろ。何かと金もかかるし」と呟いた。
西条は何かと、金がかかると理由をつけて外出を否定した。
汗をかいたグラスには、甲類焼酎の水割りが入っており、口に含むだけで頭がズキズキした。
その夜は、薄っぺらい布団に二人身を寄せ合い、お互いの体温を感じ合った。
もう何度目か、数えることすら忘れるほどの夜を二人は明かした。
交際を始めてから三度目の夏、西条は二十八歳になっていた。
そろそろ結婚を、と何度も愛子は匂わせていたが、お互い確かな事は口にしなかった。
カーテンは日光をほとんど遮らず、早朝には半ば強引に睡眠から引き上げられる。
汗で滲んだシーツが纏わりつき、気持ちが悪い。
腹を掻きながら這い出し、台所で水道水を飲むと、布団で愛子が寝返りを打つのが見えた。
どうにもならない関係であることは、西条も理解していた。
西条はいまだアルバイトを続け、ボロアパートの借家生活からは抜け出せそうにない。
学生の頃から服が好きで、自分の古着屋を立ち上げるために各地の店を転々として働いた。
けれども、この世界は人脈がものを言う。
小汚いアルバイトの男は、なり上がるのが難しく、また対人関係もあまり得意ではない西条は成功のきっかけも掴めずにいた。
バイトを掛け持ちしても長続きせず、正社員を目指して資格を勉強する気もない。
未来から目を逸らし、安い酒とバルコニーからの眺める景色、そして漠然と考える夢だけを食べて過ごしていた。
それでも、愛子が居るだけでこのままでもいいかと思えていた。
しかし、そんな矮小で平穏な日常も、危ういバランスの上に成り立っていたのだと、後になって思い知った。
愛子は夜の店で水商売をしている。
しかし、そろそろ辞めたいとよく口にしていた。
日が暮れた路地を、西条はバイト終わりの格好のままぶらぶら歩く。
愛子の出勤前に顔を出して、途中まで送って行こうか、ぼんやり考えながら彼女の住むオートロック付きの四階建てマンションに差し掛かった時だった。
マンションの前に、仕立ての良いスーツを着た男が腕を組んで立っている。
彼は俺を見るともなく、誰かを待っている風だった。
横目で見やりながら、俺はロビーに入り、彼女の部屋の番号を呼び出そうとした瞬間だった。
急に視界がブレ、強い力で外に引っ張り出される。
そのまま、俺は道路に突き飛ばされていた。
「お前か! 愛子に近づく悪い虫はッ!」
口角泡を飛ばし俺に怒鳴るのは先ほどのスーツの男性だった。
西条は一瞬、愛子の父親なのかと勘繰った。
しかし、ひたすらに怒鳴り散らされている間に俺は何かが違うと徐々に理解する。
愛子の父親にしては若い、せいぜい三十代前半の顔だ。
「あの……あんたはいったい誰なんすか」
地面にひれ伏した姿勢のまま、それでも男としての反骨精神を込めた目線で見上げる。
「私は成澤だ。愛子と交際している。彼女に客のひとりが付きまとってくると相談を受けてな。ここで待ち構えていたんだ」
「はぁ? だって愛子は俺と……」
そこで、少しずつ頭がさえてくる。
普段はぼんやりと、サビた歯車のように緩慢にしか働かない西条の頭は、こんな時ばっかりよく動いた。
「馬鹿なことを言うなッ! 彼女は私の子を身ごもっているッ、さっさと消えろ!」
成澤の印象は、一言でいえば脂ぎったオッサンだった。
黒々と日焼けした拳には、結婚指輪が光っている。
西条は悄然と上を見上げる。
いつもの彼女の二階の部屋から、彼らを見下ろす視線とぶつかった。
申し訳なさそうに伏せた視線の、その先の答えは無くカーテンが閉められた。
音信不通になり、住む家が変わってしまえば、西条はもう愛子に会うことが出来ない。
何度も通ったマンションはもぬけの殻となり、職場に行っても追い返され、電話をかけても機械音しか返事をくれない。
そこで西条はようやく愛子に捨てられたのだと理解した。
―――だけど、あの成澤とかいう男。
既に結婚指輪が付いていた。
西条を怒鳴り散らす間も、愛子の事を妻とは言わなかった。
どうせ不倫だ、愛人だ。
だがあの身なりの良い脂ぎったオッサンは、愛人さえも余裕で養えるのだろう。
愛子の、伏せた顔が何度もフラッシュバックした。
いったい、どうすればいいんだ。
西条はまだ、呆然としたままアルバイト生活を抜け出せない。
愛子が居なくなってから、際限なく酒を飲むようになった。
それは如実に日常に影響を与え、バイトを何度もクビになった。
それから、再起する気力も起きなくなり、貯金を酒と光熱費ですり減らすだけの生活に転落した。
愛子に捨てられてから、あっという間に十年という月日が過ぎた。
浮浪者寸前の西条は、けれど人生の目的も見つけられず、はたまた人生にけじめをつけるほどの度胸もない。
思い返せば、愛子の事ばかり。
生きる目的も、彼女を幸せにしたいとか、その程度の青臭い理由だった気がする。
電気が停まると、夏は生きていく事すら難しい。
例え涼しい北海道と言えど、真夏に冷蔵庫もない生活は不可能だ。
西条はいつしか、地域のコミュニティーセンターの空調を求めて逃げ込むようになっていた。
日中は、日光を避けるように図書室のソファを独占して過ごす。
日が暮れ、夜になると最低限の生活の為に、警備員や清掃員のバイトに向かう。
そんな生活を何度も繰り返しているうちに、気が付いたことがある。
このコミュニティセンターには、居場所を求めている人が集まって来る。
それは、年齢とか性別も関係ないのだと知った。
少年と少女は、孤独を慰め合うかのように、一冊の本を一緒に読んでいた。
夕刻になると少年は帰り、少女は閉館までずっと居る。
西条はその様子を、手持ち無沙汰を誤魔化すために持った新聞の隙間から眺めていた。
形のいい耳、優し気なたれ目の少女。
そして、色素の薄い肌に不釣り合いなほど大きい口。
俺は見れば見るほど、少女に愛子の面影見つけていた。
その少女は、『ユウちゃん』と呼ばれていた。
果たして彼女が愛子の娘なのかは分からない。
けれど、少年と少女。
そしてそれを見守る西条。
奇妙な時間がそこにはあった。
西条は、人生においてその瞬間だけは安らぎを感じていた。
無邪気に本を読み、友人の少年と空想の話で戯れる少女。
西条にとっても、それはかけがえのない時間となっていた。




