第二十四話 「何かを取り戻せるかもしれない」
12月1日。
その日は雪が降っていた。
北海道の中央部より少し北西に位置する三沢市にとって、この時期の降雪は特別な事ではない。
まだ積もらないであろう駅のホームに降り注ぐ淡い雪を踏みしめ、影山真琴は電車のドアをくぐった。
しっとりした温風に包まれた車内で、まだ時刻でいえば夕食時を前に、既に深夜のような暗さの外を眺めながら一定のリズムを刻む走行振動に身を委ねる。
札幌へ向かう車内は、まばらな人々で座席には空きがあった。
粗い感触の座席に腰かけると、強く効いている暖房のせいか、あるいは日中の学校における疲労からか真琴は強い眠気に襲われる。
あらがう事無く、しばしの仮眠とする。
彼とは違って自分の見る夢に、特に意味は無い。
そう思いながら脳内が勝手に創作する追憶の景色、夢に興じる。
道内で最も大きい、真琴にとっては故郷と言える都市に向かう道中は、気だるい日常の一幕に相違なかった。
*
その男は、何度も脳内で夢想する。
空席の目立つ車両の中、座席にもたれ腕を組み、思考を巡らせる。
常人には無い異能を手にすることが出来れば、何に用いるか。
今更、時を巻き戻す事を望めるのなら、それに勝るものは無い。
しかし、現実はそううまくいかない。
けれど、不思議なことに異能の力という物は案外身近に存在していたようだった。
とある晩夏の日。
空腹を紛らわせるようにドリンクバーのコーヒーを何度も吸い込んでいたその時。
隣席からの会話がやけに耳に残った。
人の言葉の真偽が分かる能力。
そんなものが存在するならば、今の男にはそれだけで十分なのかもしれない。
寝ても覚めても、どんなに体を酷使して労働に勤しんでいても。
思い出すのは後悔だけであった。
もしも、あの時の俺に力があったならば。
そんな後悔も筋違いなのかもしれない。
執念のような炎と、凪のような虚無感が交互に訪れる。
けれど、それを上回る程の熱量を持ってすれば、何かを取り戻せるかもしれない。
少なくとも、罪を罪として償う事をしない者を罰することが出来るかも知れない。
凡人の自分には不可能でも、天罰神が如きあの力を利用できれば。
ほんの一瞬でも、真実を手に出来るかもしれない。
そう思うと、普段は鉛のように重く、サビが固まったかのような思考回路が、滑らかに、強力な馬力を持って回転していくのを感じた。
まるで、この電車のように。
計画は脳内を駆け巡り、焦燥感に男の目は冴えていく。
*
「……さん、影山さん」
「はっ……?」
真琴が目を開けると、そこは煌々と蛍光灯が光る講堂だった。
佐々木ゼミナールの大学受験対策講座は、高校生四名に対して大学生以上の講師が一人着く指導スタイルだった。
受講生の高校生は佐々木ゼミが作成した対策問題をひたすら解いてゆき、自己採点を行う。
その中で分からない箇所があれば手を上げ、講師役の大学生が解説を行うというのが基本形態だった。
札幌駅から徒歩数分圏内の佐々木ゼミナールに通う高校生は皆、全国区の難関大学への進学を希望しており、学校の授業は当然、この塾の時間は惜しむほどの貴重な勉強時間であり、日々の睡眠時間でさえも削り参考書にかじりついていた。
しかし、この影山真琴という生徒だけは雰囲気が違った。
あくまで体裁は難関大学を目指す高校生としていたが、どこか本気が感じられず、今日この場でも居眠りを始める始末だった。
「すみません」
淡々と謝られると、それ以上非難することはできない。
「いいのだけれど。居眠りは他の生徒達の集中を削ぐことに繋がるから。疲れたのなら休憩室で寝てもいいのよ」
大学生の講師役は、しょせんはアルバイトである。
それでも自身も高偏差値の大学に通っており、受験の苦労を味わってきた先輩でもあった。
的確なアドバイスに相違ないが、真琴は首を横に振る。
「いえ、休憩室も結局は真剣に休息を取りたい人ばかりで気が休まらないので。もう少し耐えます」
「……そう、あくまでこの時間は退屈であることは否定しないのね」
講師役の大学生は苦笑しながら真琴に合わせる。
「ふふっ、担当が沢木さんで本当に良かったです」
真琴は自然な笑みのつもりで、少なくとも真琴自身はなんの意識も無く笑いながら告げた。
しかし、その瞳は蛇のように鋭く、視る者を緊張させる事も知らずに。
この場の担当講師、沢木詩織は少し身じろぎをして座り直した。
茶色のふわりと内向きにカールしたショートボブの髪を耳にかけ、眼鏡を直す。
彼女は人を安心させるようなたれ目がちの目線を手元の参考書に落とす。
ベージュのタートルネックセータが良く似合う、ふくよかな胸元と流線形のくびれの上体を姿勢よく正した。
沢木が他の生徒達、主に男子生徒からの羨望の的であることを真琴は知っていた。
なんとなく、真琴はそのまま沢木の横顔を眺め続けていた。
高校二年生の冬に入り、学内は受験モード一色になっていた。
三年生になれば、否が応でもカウントダウンが始まる。
進学校になれば二年の夏休みから、もっと言えば高校に入学した時点から大学入試に向けた挑戦が始まっている。
しかし、真琴自身は特に目標も無ければ必死になる理由も無かった。
成績は常にトップを維持しており、志望校も前回の模試で合格圏内である。
この佐々木ゼミ予備校の受験対策講座に参加しているのも学校側から勧められた祖父母の意向であり、主に難関大学への合格実績が欲しい高校側の差し金である。
夜十時になれば、予備校内の高校生向けクラスは解散となる。
その後は自習で残る人もいるが、さすがに夜が遅くなると高校生の身分で出歩くのが難しくなる。
エレベーターホールに続く廊下はビル外側面のガラス張りとなっており、建物下に並ぶ迎えの車のハザードランプがあちこちでオレンジ色の光を放っていた。
真琴はそれをしばし眺めていた。
解散時は出入口が混雑し、地元へ帰る電車にも同じ学校の生徒が多くいる。
なんとなく喧噪を避けがちな真琴はのんびりと帰り支度をして一本遅い便で帰るのが常だった。
「影山さん、お疲れ様」
そんな真琴を見つけ、沢木が自然な歩調で横に並び立つ。
毎回の恒例のように、真琴はここで時間をつぶし、それを見つけた沢木が雑談をする。
真琴は、この時間が嫌いではなかった。
「どうもありがとうございました。沢木さんの卒業研究は順調ですか?」
「うん。この間、ようやく頼んでいた試験片が完成してね、いまから研究室に戻って顕微鏡とにらめっこよ」
沢木は弾んだ声で進捗を教えた。
彼女は札幌駅にほど近い大学の研究室に所属する四回生で、主に工学を専攻している。
鉄の元素の配合を変え、これまでにはない特性の材料の研究をしているそうだが、専門外の真琴には異国のラジオの様で雰囲気を楽しむ程度に聞き流していた。
「いいですね。……卒業後は、どこへ行くんですか」
「うーん、このまま研究室に残ってドクターを目指さないかって教授には誘われているんだけどね。まずは手に職をつけて貯金をつくるつもり。資格は教員免許とか図書館司書とか、関係無い奴までたっくさん取ってるからね」
姉妹ほど年が離れている二人でも、沢木はまるで同級生と喋るかのように砕けた調子で話をした。
それは、真琴が他の高校生とは異なり達観した空気を纏っているからかもしれない。
「そうですか……くしゅん」
「あら、風邪? 体調不良は受験生の大敵よ」
「……まだ二年なので、本番は一年以上先ですし」
「あはは、そうだね。今から気を張ってても疲れるよね」
そもそも、影山さんはそこまで本気じゃなさそうだけど、とは言外に匂わす程度の微笑に包まれた。
二人の背後を、掃除用具の入った台車を押す清掃員が静かに通り過ぎた。
磨かれた窓に反射するその姿を目で追いながら、口を開く。
「そういえば、沢木さんは彼氏は居るんですか」
「……ほーう、影山氏も実はそっち方面に興味アリですか?」
「いえ、一般的な大学生の事情を知識として入れておこうかと」
真琴は早口に述べると、沢木はくすぐったそうに微笑をもらす。
「私は正直、色々忙しいからそっち方面は遅れてるかなぁ。影山さんはどう? 学校だとモテるでしょ?」
「……いえ、なんだか妙なあだ名が付いている程度です」
「……そう? もったいない。でもまぁ、恐れ多いといえばそうか」
「どういう意味ですか?」
真琴の詰問にも、沢木は笑ってごまかすばかりだった。
「さ、ほらほら。もう帰らないと。影山さんは地元まで結構かかるんだから」
沢木に促され、真琴はすっかり人気の減った予備校を後にした。
家に帰り、入浴を済ませばもう日付が変わる時頃だ。
真琴は一日の体感時間の短さにうんざりしながらも帰路に着いた。




