第十六話「エンターテインメント」
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美術準備室は、沈黙のまま真琴を迎える。
一人きりの静かな空間で、真琴は集中しながら手がかりを探した。
入り口脇の机には、以前窓の外から見た通り、この部屋の元々の鍵が残っていた。
それを片手に、誠は部屋を見回す。
この部屋は、美術部用に改造され、特別棟の小部屋でも水道がある。
廊下から入って左側の壁際に流しが備え付けられ、先ほど幹人が蛇口をしっかり閉めたが入室時には少量がずっと流れていた。
流しの排水溝には絵の具が固まっており、流れなかった水が溜まっている。その水がやがて溢れ出していたのだった。
床上の水は、マネキンに染み込み、川のように伝って廊下まで流れている。
水たまりは床の埃を吸ったのか、僅かに白濁していた。
「……繊維?」
マネキンが沈んでいた水溜まりには、繊維状の不純物が浮かんでいた。
右側の壁際には棚があり、備品の雑貨が並んでいる。
一番手前の棚の下段には灯油ストーブが保管されており、奥側の棚には型式の古いデスクトップパソコンが鎮座していた。
パソコンを使った作業をする時はこの場所を使うのだろう。
黒澤が行いたかった作業も、もしかしたらこのパソコンを使用したかったのかもしれない。
「……電源が入れっぱなし」
真琴がマウスに触れると、画面が光り、ログイン画面が立ち上がった。
モニターの脇に付箋が貼られ、パスワードらしき文字列がある。
試しに入力すると、ログインできた。
杜撰な管理だが、机周りが汚い人はよくやる事だ。
しかし、画面は通常のデスクトップが表示され、何かの作業途中のものやメッセージらしきものは残されていなかった。
最後に扉の正面、奥の壁には窓がある。
窓の鍵は確実に施錠されており、破壊された形跡も無い。
窓の下には背の低い棚があり、その上にはデッサン用のリンゴの模型やガラスの瓶、ワイングラスが並んでいた。
以前外から見た時と同じく、カーテンは括られ窓の外には裏庭に植えられた樹木の枝が風でそよいでいた。
「……これは、そういうことなの……? それなら、理由を……」
真琴が独り言を呟いたとき、乱雑な足音が近づいてきて顔を入り口側に向けた。
そこには、鬼の形相をした笹島純一郎が立っていた。
すでに見慣れたその怒り顔を相手に澄ました声で「なにか」と真琴が聞くと、彼はズンズンと近づいてきて真琴から手紙をひったくった。
「これか! 奴が送ってきたメッセージは……全く……貴様は本当に犯人と関係ないんだろうな」
「ええ、あと、返してもらえるかしら」
「これは俺宛の手紙なんだろ! 俺が証拠として押収する。……ったく、黒澤も妙なヒステリーを起こしやがって……この場はもういい。余計な詮索はするな!」
怒りに任せて叫ぶ笹島に押され、真琴はその場所を立ち去らざるを得なかった。
*
「それで、何かわかったか?」
幹人は保健室から出たところで、合流した真琴に尋ねた。
「……ええ。それなりには。けれど、最終的には笹島に追い出され、手紙も奪われてしまった」
「マジかよ。……あれ、という事はあいつにとって暴露されたくない秘密はまだあるってことなんだな?」
どんだけやらかしてるんだよ……と呟きながらも、二人は歩き始めた。
「とにかく、手紙はもう少し調べるべき」
「だな。生徒会室に行くか」
生徒会室の戸を開けると、そこにいたのは一年の須田だけだった。
彼は相変わらず愛想のない表情でパソコンに向かっていた。
「なあ、会長は来なかったか?」
「はい、先ほど来て、また出て行きました」
画面から顔を上げず、幹人の問いに答える。
「手紙は持っていた?」
「……手紙かどうかわかりませんが、何か紙を持っていました。それを、そこのシュレッターに入れたあと、そのゴミを持って出て行きました」
「おいおい、証拠隠滅じゃねえのか……?」
幹人は呆然と呟く。
その様子を怪訝に思ったのか、須田はようやく顔を上げた。
真琴は一応、シュレッダーの廃棄ケースを開けて中を確認するも、紙屑一つ残っていなかった。
「まだゴミ捨て場に行けば回収できるか?」
「……あたしが笹島なら、まあ燃やすなりトイレに流すなり、絶対に復元できないようにするけれど」
だよなぁと項垂れる幹人は頭を抱える。
「まあ、それもおみとおしの想定の範囲内ということなのでしょう。手紙の内容や存在を知られたくない人間の行動は読みやすい」
『おみとおし』本人がやらなくても、笹島が証拠隠滅を図ってくれるという予測まで織り込み済みだったということだ。
あの手紙はそれ程彼にとって都合が悪いものらしい。
「……先輩たちも、おみとおしに興味があるんですか?」
生徒会唯一の一年生は、初めて真琴たちに向かって質問を投げかけた。
その顔は純粋な質問というよりも、俗物的な流行を嫌悪するような忌避感が含まれていた。
「ええ。具体的には、その正体を特定する約束を笹島と交わしたまでだけれど」
真琴が業務的に答えると、須田は興味を失ったかのように鼻で笑った。
「お前は、別に関心も無ければ恐怖もないのか?」
幹人は一年坊に向かって尋ねる。
生徒の多くは、ゴシップに湧くか、あるいは暴露を恐れるかで好奇心と恐怖心が入り乱れたカオス状態になっている。
その中でも、須田のように冷めた目線で俯瞰している生徒もいるのだと実感していた。
「はい。僕は別に暴露されて困ることも無いですし。誰かのゴシップにも興味はありません。ただ、正直な感想を言うとガッカリですね」
「ガッカリ?」
意外な感想に、思わず幹人は聞き返す。
「高校生……それも三沢高ぐらいにもなれば、もうちょっと分別があるものだと思っていたので。これじゃあ歴史に出てくる愚かな群衆みたいですよね」
辛辣な言葉に、おもわず幹人はたじろぐ。
普段無口な奴ほど言葉がきついんだよな……と内心で嘯く。
「まあ……ある意味で、平和だろうよ。他人のニュースに一喜一憂してエンターテインメントとして噂話に興じれるのはな」
幹人も、自分も分かったようなクチのきき方をするもんだと自己嫌悪しながらも、後輩に話を合わせる。
その応答に興が乗ったのか、須田は独り言のように続ける。
「そんなことに時間を割くなんて、本当に無意味ですよね。人生なんて。どうせみんないつかは死ぬんです。生物として、子孫を繁栄させ種を保存する本能がある。だけど、現代社会人ではそんな本能は上書きされているんです。ただ余暇を楽しむために生きて死ぬ人間が多すぎる」
「まったく同感だわ。自己と他人を比較して価値を見出す必要性など無いのだけれどね」
思わぬところから同意の言葉が飛んできて、幹人は閉口する。
真琴はその言葉のついでとばかりに、最後の質問をする。
「それと、須田君。君は『おみとおし』の正体について心当たりはある?」
「……いいえ。見当もつきませんよ」
「そう」
そのやりとりに、幹人は思わず目線だけで結果を問う。
真琴は首を横に、わずかに振るだけにとどめた。
「それじゃあ、あたしたちはもうここに用はない。別な方向を調べにいきましょうか」
そのまま、足取り早く真琴は部屋を後にした。
後輩に一応別れの挨拶を残して幹人も部屋を出る。
「なあ、あいつの主張とお前の同意の言葉って、微妙にかみ合って無くないか」
追いつきざまに、真琴の肩に向かって尋ねたが、返事はなくそのまま廊下を歩き続けていった。




