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くすり

 誰かに支えてもらいたい。誰かに慰めてもらいたかった。

 彼女がそう思っていた時、安西が現れたのはまさに最悪のタイミングと言えた。


 この数ヶ月、というよりもっと以前からと言ったほうが正しいだろう。

 安西は彼女の事をつけていた。あるいはつけさせていた。

 彼女はほとんど部屋に居た。ちょっとした買い物と、仕事に出かける以外は、ほとんど部屋に引きこもっていた。それがほんの数ヶ月前からよく出かけるようになった。

 自分以外の男に会う為に…。

 それが判った時、『俺と言うものがありながら…』と、彼は激怒した。


 しかし、彼にはまだかろうじで自制心があり、その後も彼女をつけさせ、その行動を知る事で満足した。

 彼女をいつも見守っているのは自分だけなのだと…。


 彼女のアパートに女性が訪ねてきたという連絡を受けた時、彼は驚いた。なぜなら彼女に女友達がいる等という事を自分は知らなかったからである。

 急いで車を出させると、彼はその女の後を追った。するとその後を彼女がつけている事を知ったのだった。


《違うな…》

 その女が決して彼女の友達では無い事を彼は悟った。そしてその女が男に抱きついた時、その様子を彼女と共に遠目で見て、そして彼女が流す涙をも彼は見たのだった。

 彼はそのまま暫く彼女を追い、そして声をかけたのだった。


 まるで、それは彼にとって夢のような時間だった。

 何度店に行ってもデートを取り付ける事が出来なかった彼女が今、自分の隣の席に…。

 しかも自分にすがりつくようにしてこの手の中にいるのだ。

 何でも手に入れてきた者にとって、手に入らないと思った物はこの上なく美しく尊いものとして映る。

 彼にとって彼女がまさにそれだった。


 逆に、彼女からしてみれば誰でも良かったのだ。泣きつける相手が欲しかった。

 ただそれだけの事だったのだが、力強く彼に抱きしめられ、そこに安堵感を覚えたのもまた事実だった。

 それに誰でも良かったとは言っても、文字通りとはいかない。

 私生活では別としても、店の常連客であった安西は知らない人ではなかった。

 その彼にやさしくされ、寄りかかったとしても仕方の無い事だと言える。

 そして、車は安西の家へと到着した。


 やさしく抱きしめられ、そのまま美咲は一時間余りも泣きつづけた。彼女がようやく泣き止み、安西はベットへと誘おうとした。


『ごめんなさい…今は…』

 ムラサキにそう云われた時、安西の顔は恐ろしいほどに歪んだ。しかし彼女はうつむいており、それに気付く事はなかった。

 無言のままその場に立ち止まり、ほんの少し時間を置いてから、安西が口を開く。


「い…いいんだ…君の…ムラサキの気の済むようにしたら…いい…」

 彼は気を静めようと努力したのだろうが、その声は震え、少しだけ怒気をはらんでいた。一方、彼女も泣き疲れていて、その事に気付く事はなかった。


「そ・・・そうだ!」

 突然彼は何かを思いついたように、ベットサイドのテーブルの引き出しからなにやらビンを取り出し、その中から錠剤を2錠取り出して、彼女に差し出す。


「とりあえず、これを飲むといいよ…。」

 精神安定剤だと云って、安西はそのくすりを彼女に渡した。自分もつらい事や悲しい事があって気持ちが乱れ、落ち着かない時などによく飲むのだと云って…。


「アパートまで送らせよう…」

 ムラサキがそのくすりを飲んだのを見て、彼はそう云った。


「2時間後に、もう一度飲んだらいい。それと…」

 これは自分にだけつながるホットラインだ。何かあったら電話して…。そう言って安西は、くすりを2錠と携帯電話をムラサキに渡した。

 彼女を送り出した彼のその顔には、勝ち誇ったような笑みがあった。


 その電話が鳴った時、彼は彼女のアパートのすぐ下の駐車場にいた。

 そして、その日のうちに、彼女は再び彼の家へと運ばれる事となる…。


「不安で…たまらないの…」

 そう、受話器から聞こえてきた彼女の声は一種独特の、彼が幾度となく聞いてきたものと同じように、禁断症状からくる発作によって震えていた。彼は彼女の部屋に行き、あらかじめ用意しておいた鍵でドアを開け部屋に入った。

 怯えるように部屋の隅に隠れるようにしている彼女を見つけ、まず最初に彼はくすりと水を差し出した。


「家にくる?」

 飲み終えた彼女は、その言葉にだまって頷き、そして彼と共に車に乗り込んだのだった。


―― * ――


 一瞬、ここが何処なのか、彼女にはわからなかった。キングサイズのベットが置かれた部屋に、サイドテーブル以外に物はなかった。美咲は、そのサイドテーブルに見覚えがあった。彼はその引出しからくすりを出したのだ。

体を起こそうとして彼女は自分が裸である事に初めて気が付く。服はベットの下に落ちていた。


《一体…》

 訳がわからなかった。ただ、今自分が安西の家にいるという事は確かな様だった。アパートに帰って、また少し不安になって…。言われた通り2時間後にくすりを飲んだ…。そこまでは覚えているのだが、どうもその後の記憶がはっきりとしない。その後にここに来た事になるのだろうか?

なんだか体がだるく、思うように動かない気がした。


「うっ…」

 軽いめまいが彼女を襲う。そこへ安西が入ってきた。


「おはよう『ムラサキ』…気分はどうだい?」

 安西は明るく振舞っていた。


「あのくすり…」

「そうだ、もうそろそろ切れる頃だと思った…」

 彼女がくすりと口にした瞬間、安西はくすりを取り出し、彼女の口に滑り込ませた。すかさず彼は口に水を含むと、すばやく口移しでそれを流し込み、くすりを飲み込ませた。そしてそのまま安西は喋り出したのだった。

 昨日の夜の電話が嬉しかったとか、昨日二人で話した事などを彼女にはまったく口を挟む隙をあたえないようにおよそ5分もの間喋り続けた。

 美咲は急に体が軽くなった気がした。考えていた事もなんだかもうどうでもいい事に思えてきて…。そしてまた、彼女は記憶を失った。


「あれは…本当に精神安定剤なの?」

 かろうじで口に出来た質問がそれだった。その質問にしかし彼は答えようとはせず、その口元の笑みだけが異様に目に付いた。


「ねぇ…教えて…」

「いいじゃないか…そんな事はどうでも…」

 安西の家に来てから既に2週間が過ぎていた。もっとも彼女に日にちの感覚は当に無く、ほんの2・3日にも、あるいは、もっと長くも感じられていたのだったが…。

 何度あのくすりを飲んだだろう?

 彼女にはそれさえも判らなくなっていた。確かに飲んだ時は辛いことが全て忘れられる。気分が高揚し、楽しい感じがする。

 でも、2度目以降くすりを飲んだ後、その効き目が切れた時の不安感が大きくなっているように彼女には思えた。どうしようもない喪失感と絶望感に襲われ、それから逃れたいが為に、またくすりが飲みたくなるのだ。それに飲んだ後の空白の時間…気分が楽になったと思って暫くすると、彼女は記憶を失うのだった。

 ここにいる間、何度安西に抱かれたのだろうか?

 それも全てくすりのせいではあったのだが、しかしその事が彼女をさらに苦しめていた。


 今にして思えば、何で彼に直接確かめなかったのだろう…という後悔の念が、くすりの効き目の合間のハッキリした意識の頭に浮んでいた。そして、それが誤解であったなら…。

 自分の方こそ彼を裏切っている事になるのではないか…。


「アパートに戻りたい…」

 何度も彼女はそう云ったのだったが、もうすでに彼女の体はくすりによって蝕まれ、数時間後にはくすりを求め彼に懇願するようになっていた。

 半分ほど意識のある中で、彼女は安西にすがりつき…、


『お願い…くすり…。くすり…ちょうだい…お願い…』

 そう言って、涙ながらに懇願するのだった。


―― * ――


 20分弱という短い時間ではあったが、電車での睡眠で頭の中が少しスッキリしたように感じていた。


《つけられている?》

 彼がその気配に気付いたのは、駅から出てすぐの事だった。もちろんなんで自分が尾行されるのか理由は分からないが、その気配に彼は今朝の事を思い出す。どうやら気のせいではなかったらしい。

 このまま目的の江崎のところに行く事も考えたが、何の目的で自分がつけられているのか分からないままというのは気持ちが悪いし、場合によっては江崎の家に迷惑が掛かるかもしれない。

 田神は相手に気付かれないように道を変え、角を曲がったところで待ち伏せる事にした。


 田神が角を曲がったのを見届け、暫く時間を置いてから男は角まで走った。

 この辺一帯の地形は嫌というほど頭に入っており、何処に何があるのか大体わかっている。確かあの角を曲がってしばらく行くと、右手に空き地があったはずだ。

 男は角を曲がると、小さく舌打ちした。


『やられた!』

 しまった、気付かれた…。同時に頭の中をよぎる言葉に彼は耳をかさなかった。

 ここで慌ててしまっては、相手の思う壺という事もある。彼は慎重に歩を進め、しかし、生垣の隙間からの手には気づかずに、空き地へと突き飛ばされた。


 田神は後ろに廻り込み相手の手をねじ上げて動きを封じるつもりだった。しかし、寸前のところで身をよじって避けられた。相手もかなりの体術を使うらしい…。

 よく見るとかなり怪しげな出で立ちだった。サングラスをして、帽子をかぶり、髭も偽者のようだ。


「なんで俺をつける?」

 田神は問いをぶつけたが、その男は声を出さず、口元に小さく笑みを浮かべるだけで答えようとはしなかった。この状況を楽しんででもいるのだろうか?まるで仕合うかのように田神とその男は組み手をはじめていた。

 拳が、掌が、肘が、膝蹴り、上段蹴り、廻し蹴りが繰り出され、そしてかわされた。

 組付いてお互いがお互いを投げようとして、それもかわされ、さらに間接技をかけようとするが、それすらもかわされた。

 いつのまにか、田神もそれを楽しむかのように口元をほころばせる。

 何故だか分からないが、懐かしい感じがする。


 額から汗を流し、男は帽子を脱ぎ捨てた。付け髭は取れかかり、気持ちが悪かったのか、それも引き剥がした。


「いくぞ!」

「あぁっ!?」

 田神はその顔と声に覚えがあった。忘れるはずも無い。その男はずっと彼の憧れだったのだから…。



「…イテテ…」

 後頭部をさすりながら、男は田神を見上げていた。


「さすがに…強いな…」

 田神をつけていたのは守山修一だった。守山は田神の祖父の元で共に武道を学んだ、言わば田神の兄弟子にあたる。

 守山は、警察官として二十数年の経歴を持ち、警察内の武道大会では常にトップクラスにいた。そこそこに上役の覚えもよく、出世の機会は幾度となくあったのだがやはり現場がいいと、所轄に居座っている。

 彼はようやく、自分がなぜ田神をつけていたのか?の問いに答えた。


「いや、何…、お前に聞きたい事があって、久し振りだからつい…な…」

「…まったく…」

 田神は頭を抱えるほかなかった。まったく、40過ぎの大人が何をいっているやら…。

 ここじゃぁなんだからな…そう言って守山は場所を移そうと立ち上がった。

 田神はとりあえず江崎達に会ってからと思い、待ち合わせの場所を聞いて守山と別れた。



 江崎の家に着いた時、吉村はもうそこにいなかった。


「お…おう…」

 江崎の目はかなり充血しているようだ。


「お前…ずいぶんと寝てねェだろ?」

「寝れるわけねェだろ!!」

 田神はこの先がどれほど時間が掛かるのか分からない状態でこのまま江崎を放っておくのは危険だと判断し、江崎を説伏せた。

 彼女が見つかった時にお前が疲労困憊でどうする?と…。


「いざって時に動けるように、寝れる時に寝ておけよ。彼女を助けるのはお前の役目なんだぞ!」

 やっとの事で江崎を寝かしつけ、再び田神は守山と会うために、江崎邸を後にした。


 待ち合わせたのは、守山の友人がやっているという喫茶店だった。まだ昼飯を食べていなかった二人は、そこで食べながら話すことにした。


「あんまり、顔みせてないんだってな、おやじさん心配してたぞ…」

「はぁ…。まあ、でももう独立したようなもんですから…」

 他愛の無い会話から始まった守山の話しは、昔話へと続き、だんだんと核心へと進んだ。


「まったく、ごまかすのに苦労したぞ、あの暴走族の時は…。」

「なにがです?」

 八年前の出来事の時、守山はあの事件の事後処理にあたっていた。彼らはまるで呪文のように『シュウ』という名を口にしていた。


「惚けるなよ、お前がやったという事は分かってたんだ…。もっとも証拠はないがな…」

「・・・」

 ニイっと歯を見せて守山は笑って見せた。証拠は無かったが、彼はそれが田神の仕業だと確信していた。だいたい、他の誰がこんな事をするか?こんな無謀な馬鹿げたことを…。

 実際のところ守山は、その数ヶ月後に起こった、ヤクザの裏の抗争に現れた『シュウ』も田神ではないかと、勘ぐったくらいだ。


「それは、違います…。だいたい俺になんの関わりが?」

 暗に、その前の件が自分である事を肯定しているその言い回しに守山はまた歯を見せてわらった。ヤクザの件は田神ではないようだなと守山は思った。関係が無いわけではない。

 奴等は田神と同年代の者達に『くすり』を売らせていたのだから…。田神がそれを知っていたなら、あるいはそうかもしれないと考えていたのだが、どうやら本当に知らないらしい。


「なら、そこに現れた『シュウ』は、誰かが名を語ったんだろうな…。もしかしたら、誰かさんの信者かもしれんなぁ…」

「信者?」

「知らんか?あの件は巷じゃ有名だぞ。特にレディースの間では伝説の男ってな…。俺がパクッたヤツの中にも『シュウ』の名を聞いて震えるヤツもいたし、羨望の目で見る奴もいたよ。俺が『シュウ』だっていったらな」

 そこで、守山はウィンクをして見せた。

 もともと『シュウ』の名は守山のものだった。田神の祖父に『シュウ』と呼ばれていたのは守山だったのである。そして田神は彼に憧れ…。


『俺もシュウになりたい』

「確かに『秀』の字も『シュウ』と読めるな…。」

 そう云ったのは祖父だった。そして守山が祖父の元を離れ警官になってから田神が祖父からそう呼ばれるようになった。

 高校時代、あの件があってしばらくするまでの間、田神は仲間からもそう呼ばれていたのだった。

 もっとも、その後は皆彼のことを『田神』と呼ぶようになったのだが…。


 ところが、守山の話しでは、『シュウ』の名が今もなお、生きつづけているという…。

 別に何かの事件というわけではない。今回守山は別の件と一緒に少し前にあった族同士の抗争を単独で調べていたのだった。族のメンバーはあらかた検挙されたのだが、ほとんどの者が『シュウ』にやられた…。そう言っていたというのである。


「とにかく、お前は関係ないらしいな…ところでお前はなにしてるんだ?」

 質問され、田神はどうしようか迷った。聞いてみるのもいいかもしれない。しかしいくら馴染みの守山だからといって、江崎らに断りもなく勝手に判断してよい問題でもない。


「ちょっと友達の間でゴタゴタがあってね…」

 と言うに留めた。


「…ゴタゴタね…まさか今朝からお前の事を付けてた奴等とは関係ないよな?」

 守山の問いに田神は驚愕する。


「えっ?だって俺をつけてたのは…あなたじゃ?」

「あぁ?、お前、気付いてなかったのか?俺の尾行に気づいたってのに?」

 今度は守山が驚く番だった。なんてこった…俺はあんな素人同然の奴より尾行が下手になっちまったのか?


「もっと…こう、尾行はどうみても素人って感じの…。さっきなんか電車に取り残されたしな…。お前…何か隠してるだろ?」

「・・・」

「まぁいい、とりあえず今日のところはな…。だが気をつけろよ。」

 守山は言った。


「あいつらはどう見ても、ヤクザ者だったからな…」

 と…


―― * ――


「兄貴、ちょっと…」

 なんだって!サツが?…


 安西がその情報筋で手に入れたのは彼女の事を嗅ぎ回っている刑事がいるという話だった。

 今まで安西になびかなかった女性は彼女が初めてだった。何度となく同じ事を繰り返してきた安西にとってそれは大きな驚きであったし、だからこそ手に入れたいと思ったのだ。

 もっとも今までの女性は自ら進んでくすりを試したのであって、彼女の場合とはいささか事情が異なるが、そんな事は彼にとってはどうでもいい事だった。

 涙を流しながら必死に自分に懇願する彼女を見て、安西は思った。

 なびいてしまえばこんなものか…。

 くすりの魅力を自分のものと錯覚している事も気付かず、彼は彼女に対する興味をなかば無くしていた。

 そんな時、彼女の事を警察が嗅ぎ回っているという。父の時代であれば、このまま海外に売ってしまうところだが、そのルートは既に途絶えて久しい。

 しかし安西は彼女をここに連れて来る時既に、その後彼女をどうするかを決めていた。


『最後にはあの男と一緒に…』


 復讐…という事ではない。恋敵…という訳でもない。今となっては自分の方が上なのだから。

 ただ、あの男が彼女を好きだというならば、一緒にしてやろうというわけだ。


―― それに…


 そうすれば、『シュウ』の名も少しは地に落ちるだろう。そもそもあの名は気に入らない。

 組を潰される前にもあの名は何度も耳にした。そして、その後もあの名を耳にする度に、女達は皆うっとりとした表情を浮かべた。一体なんだというのだ!

 安西は何度憤慨な思いをしたか知れない。その男がこの女を好きだというのだ。そうしてやるのが親切というものだろう。

 この女にも飽きた。これ以上金をつぎ込む事もあるまい…。


 それから数日に渡り、安西は『シュウ』の事を調べさせた。そこで浮かび上がったのが田神だった。『シュウ』の名が最も有名となったエピソードがゆえにである。

 最初の日、安西の舎弟の一人が駅前の喫茶店から会社までつけた。彼等の知る『シュウ』とは実は斎藤の事で、その男は田神の事をまるで別人のようだったと報告する。

 10時頃、田神が帰る時にオフィスビルの玄関ホールで待ち伏せ尾行した男は元暴走族で、田神の顔を見て震えがはしり、『シュウ』に間違いないと報告する。

 その後も彼をつけたが電車に取り残されてしまう。

 次の日、安西の運転手を勤める男は、駐車した車から田神を見るが、彼が知る『シュウ』とは遠目に見た江崎の事で、やはり雰囲気が違うと言った。


 しかし…。まさか、伝説の『シュウ』が今やサラリーマンだとはな…。安西は笑わずにはいられなかった。


「判った。どのみちアパートはわれてるんだからな…。」

 彼がアパートにいる時に行動を起こせばよいのだ。そう安西は言った。


「あとは手筈通りにしろ…。それまではこれ(と、ムラサキを指差して)を好きなようにしていいぞ。俺はもう飽きたからな…」

 ニヤリと笑って安西は言った。


「ただし…」

 安西は男に向かって言葉を付け足した。


「ただし、殺すなよ…」

 指示された男は口元にいやらしい笑いを浮かべ、黙って頷いた。



 くすりをちょうだいという彼女に、安西の舎弟である佐賀は、すぐには与えようとはしなかった。


「俺達を楽しませてくれたらな…」

「!?」

 彼女の表情は一変した。安西が何処にいるのかを尋ね、佐賀を罵倒する。


「ふざけないで!とにかく、くすりをちょうだい。あなた、安西の部下なんでしょう?」

 一瞬眉を吊り上げ、しかし彼はその安西から好きなようにしろと彼女を任されたのだという事を思い出し。彼は彼女の顎を掴み、その事をゆっくりと言い聞かせた。


「安西の兄貴とは何度も楽しんだくせに、俺達はお預けか?あぁ…?」

 そう言い放ち、彼女を突き放した。


「ふざけるな!しばらく頭を冷やして考えろ!!」

 バタン!とドアを乱暴に閉め、佐賀は部屋から出ていった。扉には外から鍵がかけられ、美咲はその部屋に閉じ込められた。

 佐賀の言葉は、美咲を苦しめた。彼女の頭の中に、『兄貴と何度も…』とその言葉がまるで山彦のように繰り返された。


『何度も…何度も…』

「やめてっ!」

 彼女以外には誰もいないその部屋で、彼女は叫び、頭を抱え蹲り、そして泣き伏した。



 その発作には周期があった。落ち着いた気持ちでいられる時と、くすりを飲む以前の状態の時と、そしてどうしようもなく不安になりくすりがほしくなる時と。

 もっとも今では、初めのころとは比べ物にならないほどその周期は短くなっていて、くすりを飲む以前の状態でいられる時間はごく限られたものになってしまっていたが…。


 まだ美咲には意志の力が残っていて、そのくすりについて考えることが出来た。

 そういえば店で働いている時、店の女の子が、『あんたは心配ないかも知れないけど…』

 そう言っていた事を思い出した。その時はそれほど気にしていなかった事だったのだが、確か彼女は冗談めかしたようにこう言っていたのではなかったか?


『…くすり漬にされて、売られないようにね…』と…。

 ゾッと、背筋に冷たいものが走る。まさか…もしかして…でも…。

 そう思った途端、また急に不安が彼女を襲った。今、彼女はくすりについて疑念を持ち、その不安はさらに大きなものとなっていた。どうしようもない不安。何故こんなに不安な気持ちになるのか分からないほどの…。


 ドンドン!とまるで狂ったかのように彼女はそのドアを叩き、


「くすりー!!くすりちょうだい!!」

 と、彼女は叫びつづけた。心の中で『飲んではダメ…』そう繰り返しながら…。





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