名を継ぐ者
「組長が命かけたって女性はどんな人っすか?」
新しい組員が入り、幹部の一人が引率し、斎藤の所に挨拶に来た。
ひとしきり挨拶も終わり、何か聞きたい事は有るか?という斎藤の言葉に対し、新人の中の一人がした質問がそれだった。
「あぁ…『シュウ』さんの話か?」
もうその名がこちらの世界で有名になってから久しい。今だこの世界に入る者達にとってその名は憧れであるのか…と斎藤は思わずにはいられなかった。
「お前、そりゃ初代の事だろ?俺は女の為に命かけた事は今のところねぇよ」
「…初代って、えっ?あの…」
新人の顔に当惑の色が浮ぶ。
無理もない…。彼等にとって恐らくその名は一人の人物に当てはめられている。
数ある伝説のなかの一つは確かに自分ではあるのだが、最も有名なエピソード、その名をこちらの世界に知らしめた話は、『あの人』、すなわち初代のものだった。
噂の出どころは、まぁ、分かっているのだが…。
女性達の中で噂されたその話は理想の男性像として広まり、ついには男達までも魅了した。当然の事だ。200対1でのケンカ…、考えただけでも震えが走る。
「俺は二代目だ。っていっても初代と面識があるわけじゃねぇがな…。勝手にこっちが初代って言ってるだけであの人は知らねぇ事だ。お前の言ってる『シュウ』さんは今じゃサラリーマンやってるよ」
「えぇっ、そうなんすか…。なんか『金太郎』みたいっすね」
「ばぁか、そんなんじゃねぇよ。あの人はもともとこっちの世界の人間じゃねぇんだよ。あの件以来、こっちじゃかなり有名になっちまったがな…。」
斎藤は、懐かしそうに目を凝らす…。
当時彼は高2。
仲間3,4人でつるんでバイクを走らせるのが、唯一気持ちの晴れる瞬間だった。
その頃このかいわいでは安西組が勢力を拡大していた。斎藤組を束ねる彼の父はそれを快く思っていなかった。父はことある毎に安西組と小競り合いをしてた事が今でも記憶に残っている。
そんな時、仲間の一人が夜バイクを走らせている時に族に絡まれ大怪我を負った。
彼は安西組が高校生に麻薬売買をやらせているのだという…。その情報を急いで斎藤に伝えようとした時に、たまたま通りかかった族に絡まれたのだった。
そして、その族とは、彼のいう『初代』が潰した族だったのだった。
あの日…
あの集会のあった現場に、仲間の仇を討とうとして、彼も来ていたのである。
『どうする斎藤…』
『どうするったって…』
200人を超す族に対して3人で何が出来るというのだ…。斎藤は族の集会の現場まで来てはみたものの手を出す事が出来ないでいた。
その時…。
『お…おい…』
それは信じられない光景だった。徒歩の男が一人現れ…。その、200人を越す族に対して、たった一人でケンカを仕掛けたのだ。
――ヘッドはどいつだ!!――
彼は叫び、そして狂ったように暴れまくった。人はこんなにも激しく動けるものなのか、こんなにも速く、高く、そして永く…。
乱闘の後、彼の後姿を見送りながら、斎藤達は涙を流していた。
感動したのか、それとも悔しいのか…。
それはわからなかったが、彼がそこを立ち去るのをただ、ただ見送っていた。
乱闘の最中、彼等が耳にしたのは、
『誰だお前は』
という声に対した
『俺は…シュウだ!!』
という言葉と、ヘッド以下50余名を叩きのめす際に口走っていた
『お前等が、彼女の夢を奪った!!』
という呪詛の言葉だった。
後日、斎藤達は驚きをもって知ることとなる。
その『シュウ』なる人物が族でも不良でもなく、ただの一般学生だと言う事を…。
そして斎藤は当時の斎藤組の若頭、和泉と今の斎藤組を支える幹部達数名という少人数で安西組を壊滅させる事になる。
最終的には警察による摘発と、麻薬というご法度を犯した安西組に対する安西組の親組にあたる清水組の圧力によるものではあったが、『シュウ』に会った事がきっかけで斎藤は腹を決め行動を起こしたのだった。
―普通のヤツがあれだけの事をやるんだ…。だったら俺はこれくらいできねぇとな…
今では、その想いは憧れに近しいものとなっている。そもそもあの件の後暫く『シュウ』を名乗っていたくらいだ。
あの時、もう既に魅せられていたに違いない。
「いいかお前等、『シュウ』の名を軽軽しく口にするな!」
「はい」
もっとも、今でもその『シュウ』の名は生き続けている…。
組員達にそう言いながらも、斎藤は三代目として名を受け継いだ八神の事を考えていた。
―― * ――
「向こうも片付いたみたいだってよ…」
「これでもうここいらで悪さをするヤツらも少なくなるだろ…。なぁ、シュウ!」
「…あぁ…でも、まぁさみしい気もするな」
「ぜんぜんいなくなるわけじゃないさ。でかい組織がなくなるってだけで、それにしたってほっときゃまたいつの間にか出来てるしな。もっともしばらくは静かだろうがよ」
「そうだな…」
『シュウ』と呼ばれた男は陸橋の上に立ち、河川敷のグランドを見下ろしていた。
10分ほど前から何台ものパトカーが押し寄せ、そのランプから発せられる光によって、あたりは赤く染め上げられている。
力を使い果たした族のメンバー達は次々と検挙されていった。既に一時間ほど前に乱闘は終わっていたのだ。警察には彼が電話したのである。
『荒川の河川敷のグランドで暴走族が…』
族のメンバーから取り上げた携帯で電話をしながらバイクのアクセルを吹かし、言葉を途中で切る。携帯を壊し、それを声色を変え何度か繰り返し、そしてその場を離れた。
程なくパトカーが一台遠巻きにやってきて、無線で応援を呼んだのか、その10分後には数十台のパトカーが軒をつらね、装甲車と機動隊員が押し寄せていた。
相手は、300名から成る”真夜中<ミッドナイト>天使<エンジェルズ>”と200名から成る”地獄の血<ヘル・ブラッド>”という暴走族だった。
対するは、『シュウ』こと八神秀人。以下3名。
あまりにも無謀といえる戦いであった。
―3代目としては、せめてこれぐらいはしないとな…
もちろん、正面切っての戦いではない。そもそもケンカを売るのも買うのも族同士だった。そうでなければ自殺行為というものだろう。
―それでも…。
と八神は思う。それでもあの人はやっただろうけどな…。と…。
彼の憧れるその人物は、何の策も無く武器も持たず、200人を越す族の集会に一人現れ、そしてケンカを売った。
ただ一人の女性の為に…。
たまたまそのケンカの最中に族が内部分裂をしたものの、それは偶然の出来事であり計算されるべき事では有り得ない。
200対1でも勝てると思ったのだろうか?それとも死ぬ気だったのだろうか?。
それでも彼は50人近くの人数を叩きのめしていた。
当時、自分は族に憧れる一人だった。あの日のあの瞬間まで、確かにそうだった。あの瞬間、その思いが一変する。
あの日も自分はここに…、今いるこの場所にいた。あの時の光景は今もまぶたに焼き付いている。あの人の姿も…そしてその形相も…。
《もしも…》
と、時々八神は思う事がある。
《もしもあの時、族が内部分裂をしなかったら…。もしかしたら『シュウ』の名はもっと強大なものになっていたかもしれない…》
200人がたとえ1000人であったとしても、倒してしまいそうな…そんな気さえした。
もちろん、現実にはそんな事が有り得るとは思わない。
しかし、『もしかしたら…』そう思わせる何かを確かにあの人は持っていた。
奴等をぶつけさせる。2つの族をぶつけて潰し合いをさせる。ヘル・ブラッドは何年も前からあるグループだった。
そこに来て最近、昔にあった族の名を持ち出して立ち上がったミッドナイトに対して良い印象を持っていない。
ミッドナイトのほうもミッドナイトのほうで『前からあるからどうした?縄張りなんて犬みてぇなこといってんじゃねぇ』
と、ヘル・ブラッドを見下していた。数的に云えばミッドナイトの方が上だったが力関係は互角と云ってよい。
《どのみち放っておいてもこのグループはぶつかる…》
ならばいっそのこと、あまり人の迷惑にならないところでぶつけさせてやろうというのが彼等の考えだった。
もう、あの人のような思いをする者が二度と出ないように…。
抗争の最中、彼等はその中に入り込んだ。
「何だお前等!!」
と、八神達を見て取り言ったのはどちらのグループの者だったのか…。
八神はすかさず、「俺は…『シュウ』だ!!」と返した。
その名に怯まぬ不良は、この地にはいない。数々のエピソードは今や伝説と化し、プロですらその例外ではなかった。
彼等の少ない人数が、なおさら伝説を呼び起こさせる。
4人の周りの者達は、その場から離れるか、さもなくばその場に凍りついた。
元々が1対1には絶対の自信を持つ4人であったから、その雰囲気で彼等にかなう者などいるはずも無く…。
彼等はそれぞれのグループの中枢でその力を発揮し、ことごとく幹部達を叩きのめしたのだった。
全てを見届け、帰ろうとする八神に、持田信也が声をかけた。
「あぁっ?」
「お前から二代目に知らせたほうがいいんじゃないかと思ってな…。どっちかっつうと、俺等の出る幕じゃなさそうだぞ…」
「確かなのか?」
「この辺の不良どもには安西の顔は知れてるからな…。また学生が使われちゃたまらんからってシュウさんが写真配ってくれたろ?見まちがうわきゃない。それにベンツのナンバーも一致したってよ。」
「わかった。後で行ってくる。」
持田の知らせに、八神はあまり驚かなかった。どちらかといえば、今までおとなしくしていた事のほうが驚きだといえる。
『必ず、薬を使って何かやらかす…もしも見つけたら手を出さずに俺に知らせろ!』
斎藤の言葉が思い出される。
「あぁ…それからな…」
次の持田の言葉に八神は目を丸くした。
「な…なんだってぇ…」
うわずった声を持田に返す。
―現場で『あの人』を見たという者が何人かいる。――
持田はそう告げたのだった。
―― * ――
つじつまが合わなかった。
このパソコンは起動時にメールをチェックするように設定してあるのだ。
姉が設定をいじるなどの面倒な事をしてメールをチェックしないようにしたとは考えられない。しかし、姉の書いた最後のメールと、江崎が同じ日に出した3件の日付を見る限り、つじつまが合わないのだ。
パソコンの日付は合っている…。とすると…。
考えられる事は一つ、最後のメールを姉貴が打った時、この部屋の電話は使えなかった…という事だ。明らかに、どこかへの連絡を絶つ為の…。
しかも今その電話が使えるという事が、その者の巧妙さを物語っていた。
《間違いない…。姉貴は攫われたんだ…》
吉村がその結論にたどり着き、もう一つの可能性が消えた事にとりあえず安堵の息を漏らした丁度その頃、江崎は父、裕太郎の前に立っていた。
「その、美咲という娘はお前の何だ?」
「…友達の…姉さんだって言ったろ」
「…では、なんで内密に探さなきゃならん?」
「…」
「どうした…、言えんのか?」
「…まるで警察の取り調べだ…」
「なに?」
「根掘り葉掘り聞かれたくないから頼んでるんだって事がわからない?そんなに俺の頼みを聞くのがいやなわけ?」
「…そうじゃない。そうではないが、私とて無条件に、何も分からずに警察に頼む事は出来ない。頼む以上、必要なことは伝えないといかん。それにだ…。息子の友人の姉…というのでは、頼んだところで真剣に取り組んでもらえるのかどうか分からんぞ…。警察とて遊んでいるわけではないのだからな…。」
「…」
「お前が私に面と向かって頼みごとをするなど初めての事じゃないか…。いつもは一美か秘書を通してだったのに…だ。何がお前にそうさせた?本当の事を教えてくれんか?」
一瞬…父の言葉を真に受けてしまいそうになった自分がいた。
正直に話して助けを請おう。そう思ってしまいそうだった。
だが、その考えを江崎は一蹴した。いま本当の事を全て話せば、警察に任せろ…の一言で片づけられてしまうかも知れない。しかし、明らかに父は気付いている様子だ。
《どうする…》
まさか、こんな展開になるとは思っていなかった。考えが甘かったといえばそれまでだがここで諦めるわけにもいかない。
「…本当の事を言ったら、頼みを聞いてくれるっていう保証があれば…」
言葉に窮した江崎は、つい本音を漏らした。
「契約…という事かな?」
《…そう、契約…契約だ!》
江崎の脳裏に、昔の父の言葉が蘇る。
『いいか、この世界では契約というものが全てを支配する。契約を取り付けたら取り付けた者の勝ちだ。それが口約束だろうがなんだろうがな…。いいか広太、滅多やたらと人と約束を交しちゃいかんぞ…』
「…はい。そうです。契約です。」
「フゥ…。まぁ、いいだろう。…何なら一筆書こうか?」
「いえ…」
「それじゃあ、聞こうか。」
江崎は父に本当の事を話し出した。もちろん彼女との出会いや職業は別にして…である。裕太郎は、江崎の顔を見て話を聞いていた。この時彼は、以前上森がこんな時の為にと話してくれた事を思い出していた。
―…ウソを見抜かれない方法ってのはだな…
《確か…》
本当の事とごまかしたい事を混ぜて話し、本当の事を言う時に相手の目を見て、ごまかすところは目を伏せて話すんだったな…。
本来はその逆を行うのがプロである。が、上森は江崎にはそれは無理だと思って次策を教えていた。目をみて話す場面が多ければ、相手をだますことが可能だからだ。
裕太郎は大きく頷き、江崎の話を聞いていた。どうやらうまくいったらしい。
「…分かった。お前がそれだけ大事に思う相手だ。頼んでみよう。但し…」
「…」
父の出した条件は、彼女が無事に帰ってきたら、家に招待する。という事だった。
「いいな?」
「は…はい」
江崎がその問いに答えるより早く、裕太郎は受話器を取り友人に電話を掛けていた。
江崎が父に頼んでから一週間が過ぎようとしていた。この一週間ろくに寝ていない。もっとも吉村と江崎に関して言えば、それどころの騒ぎではないのだろうが…。
まさか、自分がそんな風に見られているとは思っていない田神は、いつものように会社に向かう電車に乗っていた。
まだ昨日であれば気付いたに違いないであろうその気配に田神はついに会社の近くに行くまで来るまで気付く事がなかった。
《あれ?》
田神はショボショボとする目を顰めながら後ろを振り向くが、既に気配は無く視線の先に怪しい人物を見て取る事は出来なかった。
《…気のせいか…。》
親指と人差し指を眉間にあて、少しでも目をちゃんと開こうと、揉み解した。
《まったく、なんだってこんな時に限って仕事が山ほどあんだよ…》
愚痴をこぼさずにはいられない状況だった。
あまりベラベラと他人にしゃべる事ではないが故に、このことはあの3人と、江崎の父と、江崎の父から頼まれた警察のお偉いさんと…、限られた者しか知らない。
もちろん田神は人一倍口が堅かったから、同僚の丸山が何を聞いても、あぁ…とかうーとかしか言わず、丸山にとって、田神の寝不足の理由は謎のままだった。
《いかんいかん…。寝不足とはいえ、何をいらついているんだ、えっ?田神さんよ…》
自分で自分に皮肉を言いながら、オフィスでもう一杯コーヒーを飲もうと思いながら、彼はエレベータに乗り込んだ。
時計を見ようとして携帯の電池が切れている事に気付いたのは、丁度エレベータが目的のフロアに着いた時だった。
エレベータを降り、自分の席に着くよりも先に自販機でコーヒーを買う。
コーヒーを片手に席に向かう田神を、珍しく先に来ていた丸山が見つけて声をかけ、駆け寄ってきた。なんだか慌てているように見える。
「おう、珍しく早いな…」
「冗談いってる場合じゃない!」
「…?」
「坂田さんが…」
「なんだって?」
「だから、坂田さんが警察に捕まったって…知らないのか?」
「はぁ?」
頭の中が混乱した。丸山は何を言っているのだろう?
「…知らないのかって…な、なんで?」
「…お前の寝不足って…、それが原因じゃなかったの?」
「…」
丸山の思考にも困ったものだ。何でも結び付けたがるその癖は何とかならなものか…。
「アチッ!」
田神は寝不足も手伝ってコーヒーを持っている事も忘れ、頭を抱える仕草をしようとしてコーヒーを少しこぼした。
「おい、大丈夫かよ…」
あぁ…、そう答えて田神は坂田が捕まったということについて丸山に尋ねた。
「今朝、江崎からお前に連絡がつかないって電話があって…。」
坂田が警察に連れて行かれた、という事を田神に伝えてくれ…。田神に連絡をよこすように伝えてくれ…と、丸山は頼まれたという。
「もちろん、逮捕された訳じゃない。ニュースでも報道されてないしな…」
「…」
何てことだ…。連絡がつかないのはありまえだった。電池切れのアラームを聞いた覚えはない。とすると、ちょっと寝た隙にでも切れたのだろう。
田神の部屋に電話はなかった。江崎が何時連絡を入れようとしたのかは分からないが、電池が切れてからという事は間違いない。
「ちょっと悪い…」
丸山にそういうと、田神はカバンから携帯用の予備の電池を取り出して屋上に向かった。丸山も心配そうにその後に続く。
屋上に着くと、田神は江崎に詳しく話しを聞くために電話をかけた。
丸山に電話をしていた時は、坂田が警察に連れて行かれたということで慌てていた江崎も、既に落ち着いており、田神は順序だって話を聞く事が出来た。
江崎は、父からその連絡を受けた。彼女の事を追っていた刑事と、別の事件を追っている刑事が同じ所にたどり着いていた。それが坂田だった。
彼は別の事件で麻薬の運び屋としてマークされていたのである。
吉村の姉を探す刑事は聞き込みを行なった結果、彼女のアパートに何度も訪れている男がいるという事が分かり、その男の身元を捜した結果、坂田にたどり着いた。
オフィス街ではおなじみのバイク便も、住宅街ではそれほど知られておらず、毎日のように訪れるバイクを見て、
『あの部屋を訪ねる男だ。』
と住人達が勘違いするのも無理からぬ話ではある。
一方、麻薬の運び屋という話は、全くの別ルートからの情報だった。垂れ込みによるその話はネットを使って麻薬が売買されている…。というものだった。
バイク便は、運べるものなら何でも運んでいる。中身が何であれ…である。
言い方は悪いが、それを『運び屋』と言っていたのであって、警察も今のところは本当の意味で坂田を『運び屋』と言っているわけではなかったが、その可能性がゼロではないと思っている事は疑いない。
思うに、仮に坂田が麻薬を運んでいたとしてもその中身について彼が知っているという可能性は低いだろう。
しかし、注文を受けての配達であるから、当然料金の支払いはあるし、顧客情報というものだってあるだろう。その線から洗えば、少しでも元締めに近づけるかも知れない。そう警察は考えていたのだ。
坂田が捕まったといっても参考人として、事情聴取を受けている。あるいは捜査の協力を要請されているというほうが正しい見解だろう。
であるから、この情報は、一般には知られていない。田神の携帯の電池さえ切れていなければ、間違いなく丸山の耳には入らない事のはずだったのである。
《こうなっては仕方が無いな…》
当り障りの無いように丸山には事の顛末を話さなくてはならないだろう…。
仕方が無い。面倒だが、自分のミスだ。
電話を切った田神は、心配そうに見守る丸山にこの件について、簡単に説明した。
《そうだ、どうせ知られてしまったのなら…》
説明しながらも、田神にはちょっとしたたくらみを思いついた。
『…出てきました』
オフィスビルの1階には受け付けと、待合用の椅子とテーブルとが置かれている。その一画にいた男が慌てて携帯を取り出し、誰かに電話をかけていた。
いくつもの会社がフロアを借りるこういったビルではそういった風景は珍しくもない。それに他にもフロアには待合の人がおり、彼がその男に気付くはずが無かった。
『はい…はい、間違いありません…はい、…分かりました。』
彼が通り過ぎ、正面玄関を出たあたりで、その男は携帯をしまうと、ビジネス用のカバンを抱え、彼の後を追うようにしてビルを出た。
フレックス制を導入している会社も多く、まだ10時前だったこともあり、ビル前の通りには人の往来が多い。
ともすれば見失ってしまうところだが、これだけ人の往来があれば、気付かれる恐れも少なかった。
逆に人通りの少ない路地などに入られるほうがよぽど始末が悪かったろう。
男は人の流れになるべく逆わないようにして、気付かれないように彼をつけていった。
吉村も江崎の家にいるらしい。とにかく、江崎ん家に行こう…。
そう田神は思っていた。
《あいつらを寝させて、俺も少し寝よう…。》
自分もそうだが、江崎もかなり寝不足のはずだ。吉村に至ってはその前にも徹夜しているという話だったから尚の事だ。
丸山には、少し気の毒だな…。
知られた以上は利用…もとい協力してもらおうと、田神は彼に仕事を押し付けた。
「…という訳だから、俺の仕事頼みたいんだけど…」
丸山に断れる訳がなかった。それを知っている上でのお願いなのだから…。
「わ…分かった」
もともと部署も同じで仕事も同じように出来るのだが、仕事よりもプライベートをかなりのウエイトで優先させる彼の元に急ぎの仕事はまわらなくなっていた。
その分田神にそういった仕事がまわってくるのだ。
まぁ、たまにはこういうのもいいだろう。そもそも丸山があんなだからこそ田神が忙しいのだ。それに、今回の事は”プライベート”に関ることなのだから彼の主義にも反する事もないだろう…。
『分かった』
と言う時の丸山の本当に渋々という表情がなんともいえなかった。
《事が収まったら、まずは丸山に報告してやらないとな…》
考えながら、田神は駅へと向かっていた。
京浜東北線の電車に乗り込むと、空いている席に座った。目を瞑った途端、眠気に襲われしばしの間記憶を飛ばす。
――・・・田、蒲田…
・・・ん?
ガバッと席から立ち上がると発車ベルが鳴り終わる前にホームへと駆け下りた。別に乗り越してしまった所ですぐに引き返せる事に気付き、慌てた事に少しだけ後悔する。
とりあえず、車内に残してきた物が無い事を確認してから、田神は改札へと階段を駆け上がった。そして…
田神が駆け上がったその階段を男が登っていった。




