彼女の行方
自分の部屋に帰ってくるのは10日ぶりのことだ。
新聞屋には暫く留守にする旨を伝えておいたので、郵便受けに入っているのはダイレクトメールなどが主だった。
郵便物を取り鍵を開け、やれやれ…と、彼はアパートの中へと入り込む。
部屋は殺風景ではあるが、きちんと整理されていた。必要最小限の物しかないのだから、散らかすものといえばゴミくらいのものだ。出かける前に掃除をしていったので、もちろん汚れているはずもない。
郵便物の束をテーブルの上に置き、コートを脱ぐとベットの方へと放り投げ、とりあえず、コーヒーを飲もうかとヤカンで湯を沸かす。
一人分のお湯を沸かすのにそうは時間は掛からない。
彼はインスタントのコーヒーを啜りながら、テーブルまで来ると椅子に座り郵便物を眺めた。
テーブルの横には雑誌入れがあり、そこには『DM-3月②』と書かれた書類ケースが納まっていた。
10ヶ月も前からダイレクトメールの行き先はゴミ箱ではなくその書類ケースだった。書類ケースは月毎に分けられ、何度もいっぱいになっては会社に持って行き、変わりに新しいケースを持ち帰るという繰り返しを行ない、今月分の二つ目のケースがここにあるという訳だった。
このケースも今日でまたいっぱいになるだろう。
《まったく誰だよ、こんな企画考えたの…》
20、30、40代のそれぞれ前半後半の東京に住む男女にダイレクトメールの類は年間どのくらい届くのか?
どんな種類のものがどれだけの割合を占めているのか?
郵便で届けられものと、直接郵便受けに入れられるものはどんな割合なのか?。
また、月毎ではどんな傾向が見られるのか?…。
そんな企画を打ち立てたのは、彼の後輩にあたる女性社員だった。
吉村は今でこそ雑誌社に勤めているものの、つい2年ほど前まではフリーのルポライターをしていた。
当時配っていた名刺のおかげで彼の元には、年間数百件にも及ぶダイレクトメールが届けられる。
名刺にはメールアドレスも記入していたので、電子メールを入れればその数はもっと増える事だろう。
もっともメールアドレスは住所とは違い簡単に変更できるのでとっくに変更しているからその心配は無かったのだが…。
《ん?》
ダイレクトメールの束の中に普通の手紙の封筒が紛れ込んでいるのを発見した。彼は封筒を取り上げると、その裏を返して差出人を確認する。
「なんだ…姉貴から?」
姉からの手紙など何年ぶりだろう?だいたいそんなに離れて住んでいる訳でもないのに…
《まぁ、ココに来たところで俺が留守の時が多いか…》
表を見ると切手は貼っていない。という事ははとりあえずココには来たんだな…。どうしても話したい事でもあったのだろうか?。
少し疑問を抱えながら吉村は封筒を開けて便箋を広げた。
10分後、吉村は脱いだ上着を着なおして、その手紙をポケットに入れて姉のアパートへと駆け出した。
徹夜明けだというのにその顔は晴れ晴れとしていた。
姉の家に行った吉村は、まず表札が変っている事に気付いた。手紙に書かれていた事はどうやら本当らいし。でも…。
《どういう事だ?》
郵便受けには新聞が一週間分ほどたまっている。吉村は、持っている部屋のスペアキーで鍵を開けると部屋へと入った。
手紙に書いてあった彼の趣味だろうか?その、誰もいない部屋に吉村は違和感を覚えた。この前に来た時よりもだいぶ違うように思える。
もっとも、彼が姉のアパートを訪れるのは、実に1年ぶりのことであったが…。
吉村は奥の机の上に彼が作ったパソコンがか置かれているのを見つけて、違和感があったのはそのせいだと思った。
前に来た時は最近はほとんど使わなくなり部屋の隅に置かれカバーをかけっぱなしになっていた状態だったのが、今は机の上に置かれ、コード類もきちんと差し込まれている。
吉村はなんとなくパソコンの電源を入れ起動してみた。
起動するとまず最初に電話回線に接続しメールのチェックが行なわれた。新着メールが3件…。
――!?
吉村は目を丸くした。
《おいおい…これって…彼って、まさか?》
メールの差出人の名には、『シュウ』という名が表示されていた。
メールアドレスは…。
吉村は急いでメールソフトのアドレス帳を開き、シュウの名前を選んでプロパティを表示した。
《”echo@telline.es”…エコー?》
そこに表示されたアドレスは、田神のものではなかった。もちろん普段とは別のアドレスを使っているという事は十分に考えられるが、それにしても田神がこんなアドレスを考え使用しているとは思えない。
《しかし…このアドレス…》
どこかで聞いた事があるような…そんな気がした。
画面を眺めながら考えていた彼は、送信待ちのフォルダにメールが1件ある事に気付き、フォルダを開く。そのシュウなる人物宛のメールがそこにあった。タイトルは無い。
一瞬…人の日記を勝手に読んでしまうような罪悪感を覚えたが、彼は躊躇しながらもそれを開いた。
そこにはその彼に彼女がいたという事が書かれており、『さようなら』の文字が書かれていた。もちろんまだ送信されていないから、その彼がこの内容を知る由は無い。
《な…なんだと…。姉貴がいないのは…》
アパートに来るまでの嬉しさがその時逆に作用した。彼が徹夜明けだという事もその時の思考に大きく影響した。
幸福感からの転落…。それは怒りへと変化し、冷静に考えれば分かるはずの事が、頭に血が上ってしまった吉村には考えられなくなっていた。
今まで考えていた事は全て頭から吹き飛び、
『姉は”シュウ”に騙されたんだ、そして傷ついて…。』
怒りに拳を握り絞め『シュウ』のせいだと思い込んだ。
怒りのあまり混乱した吉村の思考回路は『シュウ』→田神、そし妙に冴えた頭は江崎が大学時代にキャンバス内で使用していたアドレスがエコーだったと思い出し、なんの脈絡もなしに二人が結託して姉を苦しめたのだと勝手に思い込んだ。
《…あんのやろ~!!》
パソコンを消すと、吉村は鍵を閉めアパートを出た。
その頃江崎はコンビニのある道の角を曲がり、ムラサキのアパートのある通りへと入った。
田神は坂田の会社のホームページ作りの手伝いに、坂田のアパートに向かう途中だった。
偶然にも、その時その道を3人が同時に歩いていた。
吉村は江崎の家へと向かう。田神はアパートの前を通り過ぎる時、道の先に吉村の歩く姿を見つけた。見た目には吉村はいつもの彼だった。だから、田神は後ろから彼に声をかけたのだ。
「おう、吉村!!」
吉村は立ち止まった。遠目では分からないが、その肩はわなわなと震えていた。
《…た・が・み…》
拳を固く握り、吉村は顔をあげる。前を見ると江崎が歩いてくるのが目に入った。
《…え・ざ・き…》
田神にも吉村の向こうから江崎が歩いてくるのが目に入った。江崎は、田神の声に気付き、顔を上げた。
一瞬、江崎は何かに躊躇するように見えた。
それは単なる驚きであったのだが…。吉村にはそれが姉を裏切った男の何かをごまかす仕草のように見えた。
「てめぇ~!」
突然、吉村は江崎に向かって走り出した。
《なんだ?なんか変だぞ!》
田神が吉村を追うよりも早く、吉村は江崎に詰め寄っていた。
――ドカッ!
鈍い音が響き、江崎が吹き飛んだ。
「な…なにすんだ!」
「うるせぇっ!!」
倒れた江崎に吉村は馬乗りになり、そして拳を振り上げる。
「何やってんだ、やめろよ」
吉村に駆け寄った田神は、振り上げた右手を掴んだ。途端に振り向いた彼の形相に田神はハッとした。吉村は立ち上がりざま左肘を後ろに突き出した。
「グガッ!」
声を上げたのは吉村だった。
「わ…悪りぃ…力入れすぎた…」
反射的に肘を交し持っていた右手をひねり上げ、田神は吉村を地面に伏せるような形に、押さえつけていた。
「吉村!」
江崎が立ち上がり、吉村に蹴りを入れようとしたのを田神が止めた。
「畜生…」
最初のうち、二人を罵倒する言葉を吐いていた吉村だったが、その状態では何も出来ない事を悟り、ようやく落ち着いてきた。
不思議なもので落ち着いてくると、自分が何をしていたのだろうかと、何でそんな考えにたどり着いたのかとバカらしく思えてくる。
田神は吉村が落ち着くのを待ってから彼を解放した。
「…はい、すいません。じゃあ来週伺います。」
田神は坂田への携帯を切り、吉村に案内されてアパートへと向かった。
《俺は用があるんだよ…》
そうは思っていたが、目の前で田神が用事を断っているのを聞いてしまったからには、江崎もそれに渋々従うしかなかった。
《えっ???》
吉村は、姉のアパートに二人を案内した。もちろん田神は初めてである。
「きょうだいか…」
表札に目をやって田神が言った。
「…ん…あぁ…。姉貴のアパートだ…。今、居ないけどな…。まぁ、入れよ…」
吉村が先に、それに続いて田神がアパートの中へと入った。
「・・・」
江崎は表札を見つめ、立ちつくしていた。
《吉村美咲…そうか…並び替えてたのか…》
その時、彼女の前の表札が本名を並び替え、漢字を変えていたのだという事が判った。
『吉村美咲』『村咲吉美』『村崎良美』なんでそんな単純な事も判らなかったのだろう?
「入れよ、江崎!」
吉村に呼ばれ、江崎は我に帰り、少しきまづい思いを感じながらアパートへと入った。
すぐさま、吉村はパソコンを起動した。そして手紙を江崎に放ってよこす。
「…読めよ」
パソコンに向かいながら吉村が言う。江崎はその手紙を読み始めた。
健ちゃんへ…
ずっと健ちゃんに言われてたけど、借金もなくなって、
健ちゃんも独立してもう立派にやっているので、私一人なら贅沢しなければ
当面は暮らせるだけのお金もあるので、仕事をやめようと思っています。
先日お店にはきちんと話をしてきました。
実は、私の事を真剣に考えてくれる人が現れました。
(もちろん健ちゃんもその一人だけど…)
その人は健ちゃんと同い年で始めて会ったのはお客さんとしてなんだけど、
いろいろと自分の話をしてくれて、また私の話も聞いてくれて…。
それでね、この年になって初めてデートというものもしました。
フフッ…。バカみたいでしょ?こんな仕事してるのにね…。
仕事を辞める事をその人はまだ知りません。辞めたら私から告白してみるつもり…。
もしダメだった時は…。
健ちゃん、慰めてね。
でも、もしダメだったとしても、もうこの仕事はしないつもり。
私に何が出来るのか分からないけど、何か見つけるつもりです…
・・・
手紙の中には、メールのやり取りをしている事や、その人を『シュウ』と呼んでいるという事が書かれていた。
《…》
江崎の胸に込み上げてくる物があった。
「エコーってアドレス…お前が大学時代に使ってたハンドル名だろ?これ…」
吉村がパソコンに向かいながら後ろにいる江崎に声をかける。
「…」
江崎には返す言葉が無かった。もしかしたら…という思いは当初あったにはあった。しかし、まさか本当に吉村の姉だとは…。
吉村は怒っているのだろうか?でも…。そんな事は関係無しに江崎は彼女の事が好きになっていた。
「『シュウ』って名乗ってたって?」
「あぁ?」
田神が口を挟む。
「なに、お前、人の名前使ったのか?ひっでぇなぁ…」
「あ…いや…わりぃ…。」
江崎が口篭もりながらもようやく口を開く。
「吉村、俺…、お前の…」
「ありがとな…。」
「えっ?」
吉村は怒っていなかった。いや、むしろ…。
当時、彼は姉が体を売って働かなくてはならない事に耐え兼ね、このアパートを飛び出したのだった。
だがそれは逆に姉にその仕事を長く続けさせる理由の一つになった。一つの所に住むよりも分かれて住むほうが家賃がかさむのは当然の事といえる。
彼はずっと姉の仕事を辞めさせたかったが、それは叶わない事だったのである。
数年前、やっと借金が返し終わり、これでやっと仕事を辞めてもらえると思ったのだが、『…今更他の仕事に着くのは難しいと思うの…』
姉の言っている事は間違いではなかった。それが現実というものだ。
『これが私には向いてると思うし…。私は大丈夫だから、健ちゃんこそシッカリやりなさいよ…』
仕事を辞めてくれ…。と吉村が言った時、姉はそう云ったのだ。
『だったら…、一緒に暮らそう!』
『…私が一緒に住んでたら健ちゃんに彼女が出きにくくなるでしょう?今、彼女が居るとしたら、もっと悪い気がするし…。小姑みたくなるのは私はいやだから、今のままでいいの…』
何を言っても、姉は仕事を辞めてはくれなかったのだった。それが江崎のおかげで、自分から仕事を辞める決心をしてくれたのだ。
感謝こそすれ、咎めるつもりなど毛頭無かった。
もし江崎が姉の告白を断ったとしても…、である。
「姉貴が仕事をやめる気になったのは…お前のおかげだ…それに…」
吉村はそこで言葉を切った。これ以上礼をいうのもなんだかおかしいな話だし、むずがゆい感じがする。それに、パソコンで目当てのものを見つけたからでもあった。
「これ見ろよ!これがさっき俺がお前の事を殴った理由だ。勘違いして悪かったけどな…」
吉村はそういい、送信されていないメールを見せた。
「これって…」
『昨日彼女がアパートに来ました…』
から始まるそのメールは『さようなら』で終わっていた。そのメールが書かれた日付を見て江崎は愕然とする。
《姉貴だ…》
「江崎、すまん。ちょっと考えれば分かる事なんだ。ここに書かれてる彼女って…一美姉の事だろ?」
「…たぶん…」
「二人とも…吉村を入れて3人ともに勘違いって事か…」
「いうなよ田神。悪かったって…」
「でも、彼女は何処にいったんだ?」
「…」
誰も、江崎の問いに答えるものはいなかった。
吉村宛の手紙を見る限り、江崎に振られたとしても、一週間もの間、このアパートからいなくなるのはおかしな話だった。
そもそも何処へ行くあてがというのだろう?…。
メールはそれが最後に書かれたものだった。
ショックのあまり、失踪してしまったのだろうか?
《早く誤解を解きたい…》
彼女からのメールが無かった理由がわかった今、江崎はそう思えてならなかった。
「…あれ?」
部屋の様子のおかしい箇所に最初に気付いたのは江崎だった。
「コートが駆けっ放しだ…それに…」
居間と玄関を繋ぐ扉の近くにハンガーに駆けられたままのコートがあった。そして、そのコートのすぐ下に、バックが置かれている。
《いつも彼女が持っていたバックだ。》
江崎はそう思い、バックを取ると吉村に断りバックを開けた。
「…」
江崎がバックから取り出した物を見て、3人は眉をしかめた。
「姉貴はいくつも同じものを持たない…。コートは別のを着ていったとしても、財布を持っていかないって言うのは…」
吉村が視線を彷徨わせながらそう云った。
「…おかしいな…」
「俺が部屋に入った時に感じた違和感はそれだったんだ…。姉貴は着ないコートをそこにかけておかない…。別のコートを着たならそのコートはしまっているはずだ…」
3人は共に自分の鼓動は早くなっていくのを感じていた。この状況から推測し、導き出される事は少ないからであった。
しかもどれも楽観できるような事ではない…。
「…」
「吉村、どうする。警察に連絡するか?」
しばらくの沈黙の後、口火を切ったのは田神だった。ビクッとして吉村と江崎が顔を上げる。
「どう見たって俺達で解決できる問題じゃなさそうだぞ?お前の姉貴が一人だって可能性は考えたくもないからな…」
田神の言わんとしている事は二人にも理解できた。可能性は2つある。彼女が連れ去れたかそれとも、もうこの世にいないか…。という事だ。
二人ともまさに田神と同じ意見だった。ただそれがすぐに警察に通報という話になるかといえば話が別だ。警察を呼んだ時の事を考えると、吉村は躊躇せずにはいられなかった。
「…」
もしも警察がくれば、大げさでなくともマスコミも騒ぎ出す。しかも姉貴の職業は…。
身内でなければ、自分とて取り上げるネタだろう。
『人気ソープ嬢、謎の失踪!』
しかも、数日前に仕事を辞めているというこのタイミングだ。いろいろな憶測を呼べるものになる事はまず間違いない。そうなれば各週刊誌が取り上げるだろう。
姉の店での評判や、写真、経歴…。なにからなにまでが白日のもとへとさらされる事に成りかねない。
ついには江崎のころまで取材がいくかも知れない。
自分がマスコミ関係の仕事をしているからそう思う訳ではない。いや、しているからこそマスコミの取材力の物凄さを知っているのだ。
たとえ紙面の端に載る記事だからといって、取材に費やされる時間は他の記事と大差はない。場合によっては紙面の隅に考えられていた記事が、トップと変わる事さえあり得るのだ。
自分の事はいい…。吉村はそう思う。
ただ姉のこの先の人生を考えた場合、それが最善な考えかどうか判断する事ができなかった。
それに、そんな事が公になれば、江崎の父とて黙ってはいまい…。
そうなれば、江崎の意志などは関係なくなってしまうだろう。
「吉村…」
出口の見えない、思考の迷宮を彷徨う吉村は、江崎の声で現実に引き戻された。
「…あ…あぁ…」
「できるなら…警察は呼びたくない…。そうだろ?」
江崎の言葉に吉村は半ば驚き、あぁ…とだけ言って頷いた。
「おい、お前ら…」
割って入ったのは田神だった。信じられないという表情で二人を見つめる。
「警察呼ばなくてどうすんだよ、お前らだけで…」
「警察呼んだらどうなるか分かってんのか?」
「なっ?」
江崎は田神に食って掛かり、吉村の思考を読んでいたかのように、彼が考えていたのとほぼ同じ事を田神に聞かせた。
「…それじゃぁ…、どうすんだよ…」
「…親父に…頼んでみる…」
「!?」
吉村と田神は顔を見合わせた。構わず江崎が続ける。
「親父には、警察のお偉いさんにも知り合いがいるから…、内密に探して貰えるように頼んでみるよ…。そうすれば、少なくとも彼女のことは公にはならずに済む…」
それは江崎にとって苦渋の選択と言えた。
確かに公にはならないだろう。しかし、彼女の事を江崎の父親が調べないはずはない。息子が庇おうとする女性なのだから…。
友人の姉…。おそらくそれだけでは済むまい。江崎とその女性が交際していた事は知れるだろうし、辞めたとはいえ彼女の職業も知れる事だろう。そうなればどうなるのか…。考えるまでもないことである。
「…」
吉村に言葉は無かった。しかし、それが今出来る最善の事である事は間違いないだろう。
「いいかな?」
「…頼む…」
江崎の問いに、吉村は短く答えた。
――これだからマスコミは…
田神はその言葉を飲み込んだ。目の前にいる吉村もまたマスコミ関係者には違いないのだ。別に彼の事を非難するわけではない。マスメディアが必要でないというつもりも毛頭無い。
現代では必要不可欠と言って良い部類に入る事はまず間違いが無いだろうから…。
しかし、田神は現在のマスコミという職種に対しての嫌悪感を、どうしても拭い去る事が出来ないでいた。それは紛れも無い事実だった。
彼女の時ですら…。
彼女が失意のどん底にいる時に奴等は彼女の家にまで取材に訪れていた。ほぼ一ヶ月の間、週刊誌には、彼女の記事が載った。
『腱の切れたピアニスト』だの…『未来のプロピアニスト、悲劇の瞬間』だの…。事故現場や、病院の様子…。そして、彼女の写真…。
コンクールで優勝した時などとは比べ物にならないほどの取材陣の多さに恐ろしいほどの嫌悪感を覚えた。
”人の不幸は蜜の味”
その聞きなれたフレーズが、どれほど彼女の心を抉ったか知れない…。
興味本位というものだけでどれだけ人が残酷になれるのかを、その時田神は見たような気がした。
《もしかしたら、自分にもそういうところがあるのだろうか…》
世に言う『野次馬根性』とはきっとそれをさすのだろう。ただ、本人達がそこで楽しむ分には、まだいいだろう。噂話もまだ許せる範囲だ。
けれど、それを公にすると言うのは別次元の話ではないだろうか?
確かに知りたいと思う人がいることも事実。需要があるからこその供給だと言われればそれまでなのかも知れない。
もちろん、今回のこの件が、『マスコミに必ず取り上げられる』かといえば、誰にもそんな確証は持てない。
しかし逆にこの件に『マスコミが食いつかない』かと問われれば、Yesと言える確証もまた無いのだった。
「ハァァ……」
田神は深いため息をついた。
《マスコミがこんなんじゃなければ…》
なにもかもうまくいくかもしれないのに…。そう思わずにはいられなかったのである。
ピロロロロ…
暗くなった3人を励ますかのように、携帯の着メロが流れる。
「はい、もしもし…」
江崎は何も考えずに少し曇った声で電話に出た。
「…ツーツーツー」
電話はすぐに切れた。一瞬、男の声が聞こえたような気がした。間違い電話だろう…。
着信履歴にはどこかで見た覚えのある、メモリには登録されていない番号が表示されていた。




