再発
生きるとは、忘れていく事である。
人は忘れる生き物である。
忘れる事が出来るからこそ、人は生きていく事が出来るとも言える。
つらい事や悲しい事、うれしい事も、同様に・・・
強烈に印象に残った事ですら、その時の感情をそのまま覚えておく事は難しい。
忘れる事が出来ないまでも、時間の経過と共にその感情は薄れていくものなのである。
あの日から、2年と少しの月日が流れていた。
『おめでと~!』
『幸せにネ!!』
『姉貴!しっかりな!!』
『坂田さん!一美姉泣かしたら、あたし達が放って置かないからね!!』
仲間達が口々に祝いの言葉をのぼらせ、一美が結婚したのが一昨年のクリスマス…。
『出産おめでとうございます!』
『わぁ、可愛い!』
『一美さん、抱かせてもらってもいい?』
『どうぞ、どうぞ』
まるで、自分達の姪ッ子を見るようにして、坂田家を訪れたのが3ヶ月前のことである。
『叔父さん』と呼ばれるようになって、江崎が憤慨した事は言うまでも無い。
それが、きっかけなのかはわからないが、よく江崎が結婚という言葉を口にするようになっていた。
一番には、美咲が一美の子を抱いた時の、幸せそうな顔を見たからではないだろうか?
というのが、仲間内での見解だが、江崎と美咲が秒読み段階に入った事は疑いなかった。
もっとも、他の連中もその気にさえなれば、皆秒読み段階ではあるのだが…。
喜ばしい事には違いないのだが、一人だけ、本気ではないにしても納得できないという表情をする者がいた。
吉村である。
『はぁ・・・』
『なんだよ、吉村、祝福してやれよ!姉貴の事だろう?』
溜息をつく吉村に上森が怪訝そうに言う。
『そうは言ってもなぁ…』
『なんだよ?』
『うぅ…ヤツ(と、江崎を指差し)が俺の義兄になるんだぜ?』
『あっ・・・あぁっ!』
いつだったか、田神が言った事に、皆が納得した声をあげる。
『そりゃぁ、災難だねぇ、吉村君達!』
丸山が茶化すように言いながら、吉村と隣にいる吉岡の肩を叩く。
『えぇっ?、そ…そしたら、あたしにとっても?』
『・・・いずれは・・・な・・・』
『え~!いやだぁ~!!』
『お前等なぁ…』
先日、皆で集まった時に、そんな会話が交わされた。
さて、江崎は彼女になんと言ってプロポーズするのだろうか?
《いずれ、聞き出してやろう!》
男性陣にとっても、女性陣にとっても、一番興味のあるところだった。
―― * ――
「ただいま!」
誰もいない事がわかっていながら、田神は部屋の中へ声をかけた。
「おかえり!」
後ろから美智子が声をかける。
「さ、どうぞ!」
「お邪魔します」
夕食を外で済ませ、『寄ってくか?』の田神の言葉に美智子は頷いた。
「今日は月曜だから、泊まらないよ?」
「…あのなぁ、まるで、俺がそれだけを目的にしてるような言い方やめてくんない?」
「ふ~ん…違うんだ?」
「…ほら、いいから」
階段下でそんな会話を交わし、田神は美智子の背を押すようにして階段を登った。
「コーヒー飲む?」
「うん!」
二人分のお湯をヤカンに入れ、コンロに火をつける。
後ろでにどうしようかなぁ…と、美智子がわざと台所にいる田神まで聞こえるように大きな声で言った。泊まるかどうかを迷っているようだ。
彼女のお泊り道具は着替えも含め全て揃っている。最初は小さな旅行用バックが置かれていたのだが、いつの間にかタンスの引出しの上2段は彼女用になっていた。
見たければ、彼女のいない時に見れるという事は承知しているのにも関わらず、いる時にわざと引出しを開ける真似をすると彼女が怒るのが面白かった。
―― トゥルルル…
「はい、もしもし田神ですが」
電話が鳴り、咄嗟に美智子が出た。田神が台所から顔だけを覗かせ、彼女が電話を取った事を確認して、また引っ込む。
『あぁ、松本さん?』
「あ、お義父さんですか?どうもこんばんは、ちょっと待ってください。今替わりますから」
電話は田神の父からだった。
お目通りというわけでもないのだろうが、一昨年、田神の家に二人で訪ねた事がある。
大学時代には、既に田神が一人暮らしをしていたからという事もあって、田神の実家を訪れるのはそれが初めてであった。
田神の妹とは何度か会ったことがあるのだが、父親と会うのは初めてという事になる。
彼の父と会う事に多少の緊張はあったが、彼女は暖かく迎えられた。
『息子をどうかよろしくお願いします』
そう言われた時、恐縮すると共に幸福感が彼女を包んだ。
『こちらこそ…、不束者ですがよろしくお願いします』
急いで言葉を返し、《優しいお父さんでよかった…》と安心した事が思い起こされる。
美智子は受話器を押さえ、台所の田神に声をかけた。
「秀雄!お義父さんから電話!」
受話器を渡し、田神と入れ替わるようにして美智子は台所へ入った。
テーブルの上に置かれたカップにインスタントのコーヒーを入れ、お湯が沸くのを待つ。
可愛らしい動物の絵柄の書かれたそのおそろいのカップは、美智子の買ったものだ。
さすがに可愛らしすぎて、田神は一人の時は別のカップを使っているらしいが、二人の時はこれを使うようにしてくれている。
ただそれだけの事なのに、美智子には嬉しく感じられた。
電話で話す田神の声が微妙に変化した。何かに驚いて、そして声のトーンが下がった事に美智子は首を傾げる。
「わかった…。それじゃ」
話が終わったらしく、受話器を置く音が聞こえた。
「お義父さん、なんだって?」
「ん…、あぁ…」
「?」
「どうするんだ?だってさ…。」
「え?なにが?」
「いや、俺等の事…。」
「えっ?…も…もしかして…」
「そう、どうするんだって…」
「…」
美智子はなんと言ってよいか分らなかった。まさか・・・今のがプロポーズということは無いだろうとは思うのだが…。
田神が溜息をつく。
美智子は不安そうな表情をつくった。
「再発したってさ…」
「え?」
「ほら、3年くらい前に親父、手術したじゃん。」
「再発って…まさか、癌?」
「あぁ…。来月の3日に担当医が説明があるから来てくれって…」
「・・・」
「まぁ、心配ないだろうけど、毎月診察に行ってて見つかったんだから…」
田神の表情は電話の前と変わらないように見える。
それがつくったものなのではないかと美智子には思えてしかたなかった。
《声の調子が…さっきまでと違う…》
私に心配をかけまいとしているのではないだろうか?
「ねぇ…今晩…泊まってこうか?」
美智子は心配そうに田神に抱きついた。
「…大丈夫だって。」
ヤカンが湯の沸いた事を音で知らせ、田神は彼女の腕からすり抜けた。
田神の背中はいつもと変わらないように見え、なぜだか知らないが彼女のほうが不安に駆られた。
《私が不安になってどうするのよ!》
自分が不安がったところで、何がどうなるわけでもない。田神の不安を増す事になるだけだと思い直し、美智子は心の中の不安を静めた。
台所から田神がコーヒーを運んできた時には、もう美智子の表情から不安は消えていた。
そしてコーヒーを飲みながら、他愛のない話をして、何事も無かったかのように田神は彼女を車で送り届けたのだった。
―― * ――
『肝臓癌です』
しかも、既に末期だという…。
患者に説明をするための部屋とでも言うのだろうか?
診察室とな若干異なる部屋で説明をする担当医の言葉に田神は耳を疑った。
田神の隣には父が座っている。
「なんでですか!毎月診察に来てたっていうのに!」
「・・・」
医者は黙っていた。
1ヶ月の間にそれほど癌が進行するはずがなかった…。そう…そんな筈はないのだ。
もう60歳近い父の癌が、それほど急激に育つ訳は無い…
3年前に田神の父は大腸癌の手術を受けた。かなり大きなものではあったが、転移はまずないでしょう。という話だった…。
以来、父は毎月定期的に検査を受けていた。しかし、それは大腸癌の検査であって他の検査はしていない。
年に一度、人間ドックで体の隅々まで検査を受けているが、去年の検査時には発見されなかった。
来月人間ドックに行くはずだったのだが、今回大腸に小さな癌が見つかり、詳しく検査をした結果、他からの転移であることが判った。
「田神さんの細胞は…とても50歳を超えている人のそれではないんです…。 細胞の年齢で言えば30才くらいの若い細胞なのです。」
単純に聞けば喜ばしい事に違いない。しかしその病気は細胞が若い程に進行が早いのである。
再発というよりも、別のところに新たな癌が出来た…。
それが診断結果だった。そしてそこから転移した…。大腸癌の再発よりも始末が悪い。
「あと…どの位、生きられるんですかね?」
今まで黙っていた父が、重苦しく口を開く。
「…今のままで行けば…持って半年でしょう…」
「…」
「手術をすれば?」
「…今見つかっている物を全て摘出すれば…あるいはもっと永く生きられるかもしれません…ですが…」
「判りました。ありがとうございます。」
病院を出て…
この人は本当に癌に侵されているのだろうか?と思うほどに、父は元気に歩いていた。
車に乗って、田神が運転する助手席で、ボソッと父が呟く…
「今からじゃ…、孫は見れんかな…」
ちらっと田神の方を向いて微笑をこぼす。
「まったく、さっさと結婚せんからだ!」
笑いながら言う父の言葉に、しかし田神は返答に窮した。
きっと、今のは父の本音に違いない…。早く結婚をしなかったからという事ではない。
孫を見たい…見たかったという事がである…
―― * ――
~ 人は、思ったように生きられる。 ~
『人の人生とは、実はその人が思い描いた物に相違ない。』
無意識の意識というものがある。
ほとんどの場合その意識によって人は人生を歩んでしまう。
だからこそ、思いを強く持たなければいけない。
そうする事で人は、本当の意味で『思ったとおり』の人生を歩むことができるのだ…。
「自分の人生ならば…な…」
パタンと分厚い本を閉じ、田神は目を閉じた。
何度読み返しただろう?
何度、この本によって救われただろう?
この本に出合ってはじめて自分の人生を歩み始めたように思う。
全てが思い通り…とはいかないが、自分自身としては上場の結果だと信じている。
思い込みと言ってしまえばそれまでだが、それ以上の何かを感じるのだ。
「今度も、きっと大丈夫だ。」
父に対して言った言葉を、田神は自分にも言い聞かせた。
―― * ――
「お兄さん、はじめまして…」
まさか、病院で初めての挨拶を交わすとは思ってもみなかった。
和江が連れてきたのだろう。妹の婚約者と田神は初めて顔を合わせた。
「あなたが上川さんですか…。はじめまして、和江の兄の秀雄です。」
「挨拶が遅くなってしまって…。お義父さん、どうなんですか?」
「…なんとも…」
お義父さんという響きが奇妙に聞こえた。自分がそうなのだから、父からすればもっとだろう。
もっとも、既に式の日取りも決まっているのだから、文句をいう筋合いでもない。
和江のお腹の中には彼の子がいる。
彼が家に来てしばらくして、父は入院した。
腹がまだ目立たないうちにと、式の準備が進められていた矢先の出来事であるから、彼も動揺を隠せないようだった。
自分のせいではないかと、責任を感じているようでもある。
「あ…、これ、見舞いです。」
そう言って、彼は果物の詰め合わせの入った袋を差し出した。田神はそれを受け取り、
「親父に会っていくかい?」
と尋ねた。
「…いえ…、また興奮なされると、まずいでしょうから…」
彼が家に来た時は大変だったらしい事を、田神は妹から聞いている。
彼は怒鳴り散らされ、拳ではなかったものの、頬を引っ叩かれたという。
父の世代からすれば無理からぬことなのだろう。今でこそ『出来ちゃった婚』などという俗語まである結婚のケースに父は腹を立てた。
もっとも、多少は事情が異なるとはいえ、両親もそのケースに当てはまるという事を田神は知っていたのだが…。
《自分の娘の事となると、話は別らしいな…》
田神は和江にその事を話してはいない。彼女にはただ、『親父が孫を見たがってる…』とだけ伝えてある。
彼女の子供こそが、父が見る事のできる本当の孫であるに違いないのだから…。
「お見舞い、ありがとうございます。あなたが来たことはちゃんと父に伝えますよ。それと、父に代わって誤っておきます。引っ叩かれたんですってね?」
「はい…あぁ、でも、お義父さんからしてみれば、当然でしょうから…。私の父にも殴られましたよ。」
「うちよりも大変だったんだよ…」
その時の様子を和江が語った。彼の父は激怒し、母親はすまなそうに妹を見た。
彼の父は彼を殴ったあと、妹に土下座するという始末…。逆に妹は恐縮したという。
「うちの両親も、お義父さんと同意見なんです。でも、僕等はその前から…」
彼が和江の方をちらっと見る。
「うん。結婚するつもりでいたから…」
式の日取りを急いで決める事にはなってしまったが、来年には結婚しようと考えていた事を、少なくとも田神は半年以上も前に妹から聞いている。
『あのなぁ…そういう大事な事は、もっと早く言えよ。大体、お前に彼氏がいる事は知ってるけど、俺が会ってないって事は当然親父も会ってないんだろう?』
『別に…、お父さんが結婚するわけじゃないんだからいいでしょ!それに、私は彼の両親に会ってるんだし。それとも私の目が信じられない?』
『お前の目は信じてるけどねぇ…。そういうもんじゃないだろう?』
『わかってるけどぉ…』
その後も父と彼の対面は果たされず、結果として最悪の対面となったわけだ。
『だから言っただろうに』
と、いまさら言ったところで意味が無い。
いまさらとは思ったが、入院後に以前和江から結婚の話を聞いていた事だけは父に告げている。
『なんで、お前に言うんだ?』
『兄妹だからだろ?』
理解のある父親だと自負していた父は憤慨していたが、間髪入れず田神が返答したためにグウの音もない。
『そうか・・・』
とだけ言って、理解を示したその表情はなんとなく寂しそうに見えた。
やさしい男に出会えてよかったな…。
田神は二人を見送りながらそう思った。
今の一部始終を聞かせれば、十分彼の人となりは父にも伝わるだろう。
いや…、本当は父には既にわかっている筈だ。和江がバカな男に引っかかるはずはない。
恋が盲目であったとしても、である。
母が亡くなって、一番しっかりしたのは彼女だった。家事のほとんどは彼女が担ったのだ。
自分も男としてはかなりいろいろと出来る方だが、どちらかと言えば祖父と過ごす時間が多く、家にいる時に費やす時間が彼女とは逆だった。
彼女も武術を少しばかり学んだ。恐らく、そんじょそこらの男よりも強い事は間違いない。
もしも彼がバカな男であれば、後々の事を考えると可愛そうに思う。
もっとも良い男であったにしてもその思いは十二分にあるのだが…。
田神は苦笑すると、父の病室へと向かった。
―― * ――
「いったい、何て言ったんだよ!いいかげん白状しろ!!」
吉岡と上森が江崎をはがじめにして、プロポーズの言葉を聞き出そうとして必死になっている。
姉に合わせた訳ではないだろうが、二人はクリスマスに挙式を挙げたばかりだった。
式をクリスマスに挙げるとなると、年内は新婚旅行から帰ってきてないだろうから、今回の忘年会は中止だな…。
と、誰もがそう思っていたのだが、美咲の希望もあって旅行は年が明けてからという事になった。
喜んだのは江崎というよりも、その他のメンバーかもしれない。
恒例の忘年会ではあったが、田神は一人だけ輪の中に入れないでいた。
父の入院の事を知っているのは丸山と美智子だけ。丸山は部署が同じでなければ知らなかった事だ。
ともえには悪いと思ったが、丸山には口止めしている。だから丸山は普段のように振舞っている。
田神もそうしているつもりだが、今ひとつ盛り上がりにかける。もちろん吉村と上森が必死になっている事に興味が無いわけではない。
少なくとも、同じような台詞を言ったら相手になんと思われるか知れないのだから、聞いておくに越した事は無いのである。
美智子は、他の女性陣と共に美咲を取り囲んでいる。女性陣は女性陣で美咲に『なんて言われたんですか?』と、こちらもまた興味津々で聞いていた。
『心配だろうけど…、今日と明日は忘れよう?その為の忘年会なんだし…』
江崎の家までの車中で、美智子はそう言っていた。
彼女とて心配には違いないだろう。父の事はもとより自分の事までも心配しているのが伺える。
別に看病疲れとかそういうものは全くない。父の入院した病院は完全看護制なのだから…。
妹の結婚式は江崎達よりも先の6月にとりおこなわれた。外出許可を貰い、花嫁の父を勤めた彼は再び病院にいる。
『 ~ 持って半年でしょう…』
医者の口から聞かされたリミットは既に過ぎていた。それが原因である事は言うまでもない。
病院には携帯の番号を知らせてある。何かあればポケットの中の電話が音を立てるはずだ。
《心配しても、仕方ない…か…》
「なんだよ、まだ白状しないのかぁ?」
田神は立ち上がり、チラッとこちらを心配そうに見た美智子には気づかぬフリをしながら吉村達に力を貸した。
携帯が鳴らない事を祈りながら…
―― * ――
「『康江』か…。良い名だな…」
一週間ほどの外出許可を得て、実家に戻った父の元を妹夫妻が3人で訪れていた。
本人の希望は退院ということだったのだが…。
半年と言われてから、既に1年近くが過ぎている。
もしかしたら?
田神の脳裏にそういう思いがないわけではない。
父の目が優しく手の中の孫を愛でる。
上川家の祖母の名から1字をとったらしいその名は、父も気に入るものだった。
孫は目に入れても痛くないという言葉通り、父も例外ではなく、康江が訪れるとまるで病魔が立ち去ってしまったかのように元気になった。
康江はなんどか病院にも連れてこられた。
多少環境は違うのだろうが乳児にとって病院は慣れた場所であるのか、病室で彼女が泣き出す事はなかった。
看護師さんに言わせると『不思議』としかいいようの無い彼女の振る舞いは、赤ん坊ながら父に気を使っていると皆に評されていた。
父がお気に入りにするのも頷ける。
父の病状については田神だけが知らされた。父は既に覚悟を決めている。
普通であればモルヒネを使い、痛みを紛らわすところを『意識が混乱する』の一言で彼は拒否した。
医者からは、点滴に薄く紛らせて…とも言われていたが、田神は父の意向を尊重してそれを断った。
痛み止めで耐えられるはずは無い。そう医者は言っていた。
『あまりにも苦しむようなら、その時は使いますからね?』
医師の言葉に頷くしか方法は無かったが、にも関わらず彼は耐え続けていた。
それが意思の力であるのか元々痛みに強い体質であるのかはわからないが、医者も驚く程の我慢強さだった。
思いのほか病気の進行が遅いのは、その為でもあるのかもしれない。
逆にそれが、彼の苦痛を長引かせる事にもなる可能性はある。
しかし、進行が遅れているという事は、逆の可能性もあるのではないか?
という奇跡に近い思いを浮かばせた。
《もしかしたら…》
しかし、その想いは簡単に裏切られた・・・
―― * ――
アパートから病院までは悠に2時間を要する。会社からは1時間ほどだった。
日曜日に会いに行った時に父は元気だった。
最近は仕事の分担がうまくいき、田神が休んだ時の仕事は丸山に回る。
おかげで仕事が溜まっているわけでもないのだが、なんとなく先の仕事もやっておこうと、残業していた。
病院から電話があったのは20時38分。いつもなら、アパートに着いている時間。
容態が急変したという…
田神は急いで準備をして駅に向いながら和江に連絡をした。彼女の驚きは尋常ではなかった。
それはそうだ。彼女は元気な父の姿しか見ていなかったのだから・・・
~ 何故だか落ち着いていた。
《もう…急いでも意味が無い…》
なんの脈絡もなく…、何故だかそう思った。 ~
田神が駆けつけた時、父の意識は既になかった。誰にも看取られる事無く…
医師の判断で、人工呼吸器が付けられていた。一度、心停止したという。
《確かに…》
医師の判断は正しいと言えよう…。
家族の到着まで彼の肉体を生かす、文字通りの延命措置。確かに肉体はまだ生きているだろう…
しかし…
「お兄ちゃん!!」
到着した和江が父を見た後、泣きながら田上に抱きついた。
田神は彼女を抱きしめながら、目を細め父の姿を見た。
呼吸器から空気が送り込まれる度に、跳ねるようにして上下する胸…
《もう…いいよな…》
妹を放し、田神は父の手をとった。
「看取れなくて…ゴメンな…」
一瞬…父の手に力が入ったように思えたのは、しかし、気のせいであるに違いない…
「もう…楽にしてやろう…な!」
妹にそう言うと、田神は医師に人工呼吸器を外してくれるように頼んだ。
二人でそれぞれの手を握る。泣き崩れるように、彼女はベットに顔を埋めた。
心電図のピッピッという音がだんだんと遅くなり、そしてピーという長い音に変わる…
『あ~ん!』
突然…、今まで一度も病室で泣いた事の無い康江が大声を上げて泣き出した。
ビクッとして和江が康江の顔を見て、そして父の顔から医師の顔へと視線を移す。
医師がペンライトを取り出し瞳孔を調べ、脈を取る。
「22:22分…ご臨終です」
田神は父の手をそっとベットに置いて立ち上がり目を伏せた。妹はそのまま声を大にした…
6月22日・・・
それは奇しくも、母の命日だった。




