第7話 レトリー家の影響力
「ここは親方たちに任せましょう。親方、楽しみにしてるわよ。シン、ちょっと行きたいところがあるの」
「任しときな、若奥様!」
親方は毛深く長い手をサムアップして、外で働きなれた日焼けした顔を、皺だらけにしながらニカッと笑った。
安心できる、いい笑顔だ。
その笑顔に見惚れて、マリーは親方の言葉に対し、一歩遅れた。
「お、奥さん!? 違う、違います。シンとは昨日、初めて会った知り合いです。だいたい、シンの事だから、大勢の女性と遊んでるでしょうに」
「おいおい、人を遊び人みたいに言うなよ。ほら、俺って奥手だから……ね、親方」
そう言って、シンは親方を落としにかかるように、ウィンクを投げた。
それを受けた親方は、涙をぬぐうように目の端をタオルで拭きながら答えた。
「ボンは女性と一緒にいるところを見たことが無かったんで、やっといい人ができたのかと思って……こりゃ、悪いことをしましたな。若奥様」
「だから、私の名前はマリーですよ」
「ああ、マリーさん。ところで、どこかに行くつもりじゃなかったのですか?」
「あ、そうだった。シン、行きたいところがあるの。案内して」
マリーは何かを思い出した様にシンに向かい直すと、手を取ると引っ張った。
暖かく、大きな男性の手。
マリーはシンに異性を感じて、思わず手を放してしまった。
「なんだ? 急に手を放して」
「な、なんでもないわよ。それより行くわよ」
マリーは照れ隠しもあって、思わず強い口調になってしまったことを後悔して、シンの顔を見た。
しかし、シンはそんなマリーの言葉を気にしていないように不思議そうに聞き返した。
「おいおい、どこに行くんだよ。街のことわかんないだろう。どこに行く気だよ」
マリーはホッとして、目的地を告げた。
「警察よ」
「ちょっと待て!!」
シンは急ブレーキをかけて、マリーを引っ張った。
身体の大きな男性に急に引っ張られたマリーは、勢い余ってシンの胸に飛び込む形になってしまった。
海でも見た厚みがありながらも引き締まった胸。王子の細い身体とは違う、安心感のある男の身体に包まれる。
マリーの心臓がどきんと大きく跳ね上がり、思わずそのまま動けないでいると、シンは謝った。
「ごめん、強く引っ張りすぎた、大丈夫か?」
「えっ、大丈夫……それより、何で急に止まるのよ」
「ああ、そうだ。なんで警察なんかに行こうとしてるんだよ」
シンは息がかかる程の距離で、マリーに文句を言う。
ダンスでもないのに、ただの知り合いの男女でいる距離ではない。
マリーは、シンの胸を手で押して距離を取ろうとしながら、質問に答える。
「あいさつに決まってるでしょう」
「あいさつ? お礼参りか?」
「なんでわざわざ警察に喧嘩を売りに行くのよ。これから、ここで子ども達を預かるのよ。万が一何かあったとき、警察にあいさつしておいたら、力になってくれやすいでしょう。警察に行ったら、次は消防署、病院。保育園はね、ここだけで成り立っているわけじゃないのよ。子ども達に万が一がないように。万が一があっても適切な対処が出来るように先手を打っておくものなの。わかった?」
マリーの真剣な説明に、気圧されるようにシンはただ、頷くだけだった。
先ほどまで、顔を近づけるなと言わんばかりに距離を取ろうとしたマリーは、鼻と鼻が触れあう程までシンに近づいて熱く語りかけている。マリーの良い香りがシンの鼻に届くほどに。
「ちょっと、離れてくれ。その匂いに我慢が出来なくなるぞ」
「我慢って? あ!?」
昨日のモレナの様にくんくんと匂いを嗅いでくるシン。匂いを嗅ぐだけならともかく、舐めてきそうな勢いに驚いたマリーはまた、シンをぐっと押しのける。
友人とは言え、イケメンが至近距離にいるのは心臓に悪い。
興奮すると距離感を間違ってしまう癖を反省しながら、マリーは落ち着いた声を出した。
「だから、まずは警察に案内して欲しいの。わかった?」
「わかったから、もうちょっと……」
「もうちょっと、な、に?」
マリーはドキドキしている気持ちを押し殺して、伯爵令嬢であったころを思い出してシンを睨むと、シンは怒られた子犬のようにシュンとする。
ちょっと、ちょっとそれってなんだか卑怯じゃない。大型犬がシュンってしてる見たいで、可愛いんだけど。
マリーは、シンを胸に抱きよせて頭を撫でたくなる衝動を抑えて、気を取り直した。
「紳士は淑女にそんな事をしないのよ。さあ、行くわよ」
シンの案内で警察署に着いたマリーは、まっすぐ窓口に向かった。
悪いこともしてないのに警察に行くのはなんか嫌だと、シンは入り口で待つことになった。
受付に座る豹の獣人は、マリーを一瞥すると横を向いて新聞を読み始める。
「ねえ、街の警備をしている人に取り次いで欲しいのですが」
「……」
「聞こえてますか? それともあなたに話をすればいいのですか?」
「……人間が何の用だ?」
豹の獣人は、不機嫌そうな声を隠そうともせずに答えた。
それは、マリーが人間だからか、よそ者だからか、女だからか、もしくはその全てだからかもしれない。
しかし、そんなことはマリーにもわかっていた。最低でも話を聞いてくれるということは、話し次第ではちゃんと話を聞いてくれるかもしれない。そう思ったマリーは怒りを笑顔の仮面の下に隠して、話をつづけた。
「ねえ、お兄さん。子供はいるのですか?」
「ん? なんだ、急に……まあ、いるぞ」
「まだ小さいの?」
「まあな。小さくてかわいいぞ」
子供の話になって、豹の獣人の心が少し開いたことにマリーは手ごたえを感じた。
これならば、保育園のこともすんなりと受け入れられる。そう思ったマリーは明るい気持ちになった。
「今度、そんな小さな子供たちを預かる保育園を作ろうと考えているの」
「預かるだと!? うちの大事な子供たちをなんで、お前のような人間に預けなければいけなんだ? さては、お前は誘拐犯か!」
「違う、違うの。ちょっと落ち着いて、話を聞いてください」
「うるさい! さては人間どもの誘拐組織の一員か? わざわざ、捕まりに来たのか、この間抜けめ!」
そう言うと、豹の獣人はそのしなやかな体でマリーを捕まえる。
マリーが逃げようとしても、警官をしているような者にか弱い女子の抵抗など何の役にも立つはずがなかった。
かろうじて、マリーは声を上げることができた。
「シン……助けて」
その言葉を発し終えた瞬間、マリーは捕縛されていた力から不意に解放された。
「おい、おっちゃん。何もしていない女性に、それはないんじゃないか?」
そこには、豹の獣人の手首を握りつぶさんばかりに力を込めているシンがいた。
豹の獣人はシンの顔を見ると驚きの声を上げた。
「お前は、レトリー家の悪ガキ」
「おっちゃん、悪ガキはもう卒業したんだって」
苦笑いをするシンは、豹の獣人の手を離した。
シンは豹の獣人から守るように、マリーを抱き寄せた。
「大丈夫か、マリー」
「あ、ありがとう。助かったわ」
「それで、シン。なんでお前が人間なんかと一緒にいるんだ?」
知り合いに会って落ち着いたのか、豹の獣人はシンに握られた手首をさすりながら、元の椅子に座る。
シンもマリーにケガ一つなくホッとして、捨て人だったマリーを拾い、今はマリーがやろうとすることを手助けしていることを説明した。
そして、マリーは今回、ここに来た趣旨を話し始めた。
「私は、子供たちの成長を手助けしたいのはもちろん、お母さんたちの手助けをしたいんです。そのために、あなたが言ったように子供たちが事故や犯罪に巻き込まれるなんて本末転倒です。だから、あなたたち警察の手助けをお願いに来たんです。ずっと、保育園についていてくださいなんて、お願いしません。保育園を巡回コースに加えて欲しいんです。定期的に警察が保育園に立ち寄ると分かれば、犯罪者は簡単には子供たちに手を出そうと、考えなくなります。お願いします」
「それで、その保育園とやらは、どこでやるんだ?」
豹の獣人の質問に、シンが今、保育園に改造している場所を説明する。
それを聞いて豹の獣人は納得したようだった。
「わかった。ほかの者にも説明しておく。ところで、その保育園はいつからオープンするんだ?」
「え? 一応、半月後くらいを考えていますよ」
突然の問いに、マリーは驚いて、思わずなんとなく考えていた時期を伝えた。
すると豹の獣人はにやりと笑った。
「じゃあ、うちのかみさんにも話しておくよ。さっきは悪かったな。あんたがレトリー家の関係者だって知らなかったから」
こうしてマリー達は警察だけでなく消防署、病院に赴き、保育園の開園、それに伴ったサポートをお願いして回った。
そして、どこに行ってもシンの存在は絶大だった。改めて、シンの、シンの家の影響力を実感する。初めからシンを表に出すと、みんな素直に話を聞いてくれたのだった。