25.出汁も残さず、ハマークレイフィッシュの殻①
ハマークレイフィッシュのホワイトクレイヴァンソース焼きを食べ終え、ジルヴィアさんは「んー、おいしかった」と舌で下唇を舐めた。
「やっぱり、たまには生魚以外のものも食べなきゃね。ありがとうリューガ、また作ってね」
「こちらこそ、涙をくださってありがとうございました。お陰でしばらく味噌を欠かさずに済みそうです」
瓶には、ちゃぷちゃぷと音がするほど涙が入っている。瓶に溜まるほど涙が流れるなんて、人間ならおおごとというか有り得ない気がするのだが……マーメイドというのは不思議な生き物だ。
「それで、リューガはまた旅の途中なのかしら?」
「いえ、もう旅はしてませんよ。こうやって食材を集めに出掛けることはありますけど、基本的にはエクスの麓を拠点にしようと思いまして」
「エクスの麓ね……川をのぼっていくわけにもいかないしねえ、たまにはここまで来てよね? じゃないと干からびちゃうわよ」
「……海に潜れば干からびないんじゃないんですか?」
というか俺が来ないと干からびるとは……。困惑していると「馬鹿ねえ、心の話よ」「わっつめたっ」水をかけられた。隣のアンネさんは無情にも素早く避けたので、水しぶきはかからなかったようだ。
「じゃ、そういうことで、私はこれで」
「あ、まだもう一品くらい作るんで、また2時間くらいしたら来てくださいよ」
「いいの、もうお腹いっぱい。それに私達、お肉は食べないのよ?」
別に肉料理を作るわけじゃないのだが、そうか、マーメイドは穀物がメインの食事は口にしないか。そう考えるとジルヴィアさんを呼び出すのは悪い気がしてきた。
「じゃあ……また今度、海の幸でなにか作りますね」
「そうしてちょうだい。またねー」
こちらを向いたまま、ジルヴィアさんはすいーっと沖へ流れるように泳いでいき、そのうちトプンと尾を翻して消えた。
気付けば、ウルリケは俺の後ろから様子をうかがっていた。おそるおそる沖のほうを見ながら「マーメイドさん……帰った……?」とまだ警戒している。
「帰ったけど、だからそんなに心配しなくて大丈夫だって」
「でもほら……リューガさんだって海に引きずり込まれそうになってたじゃん?」
「あれはジルヴィアさんの悪ふざけだって。ちょっと変わったところはありますけどいい人ですよ、ね、アンネさん」
「まあ、マーメイドの印象は変わったな。……ただ」
アンネさんもジルヴィアさんが消えていった沖のほうを眺めながら、少し難しい顔で小首を傾げた。
「あのマーメイド自身が話していたが、人間を歌で惑わせて海に引きずりこむのは伝説でもなんでもなく、事実らしいぞ」
「……え?」
「さっきまでここにいたジルヴィア、だったか? 彼女はしないそうだが、彼女の仲間連中は平気でするそうだ。あの色香と歌で惑わせて海に沈めるらしいぞ」
ウルリケが青い顔になってガタガタと震えている。でも待て、俺だってそんなの寝耳に水だ。だってジルヴィアさんはそんなことしないって笑い飛ばして――いやそうか、しないのはジルヴィアさんだけって話か!
「しかし、ジルヴィアは食事の恩があるしなにより――……いや、まあ、親しいし、他の連中も彼女を通じて知っているから、リューガとその仲間に手を出すことはないそうだ。だから私達も心配することはないが、あまり油断はできないな」
やれやれと肩を竦めてアンネさんは海岸へと桟橋を歩き始めたが、ウルリケは脱兎のごとく海岸へと走ったし、俺は思わぬ真実を知って愕然と立ち尽くしていた。
もしかして……初めてジルヴィアさんに会ったときも、実は海に引きずりこまれるところだったのか……? アンネさんが話していたように、俺に『剣豪』スキルがあったから手を出されずに済んだのか……? いや、あるいはあのときフィッシュバーガーを食っていなければ、そしてそれを分けなければ、問答無用で数多のマーメイドに襲われて海の藻屑となっていた可能性も……。
……怖くなってきた。これ以上考えないようにしよう。次の飯を作って怖いことは忘れよう。
そうして海岸からめいっぱい距離を取り、身を食べた後のハマークレイフィッシュの殻を鍋に入れた。アルモ密林で採集しておいたハーブ、そしてさっきのホーンラビットのトマト煮込みに使った野菜の余りを水と一緒に適当に追加し、火にかける。今度は長く煮込まなければいけないので、ウルリケには火だけつけてもらうことにした。
「この食べかすで何をするんだ?」
「食べかすなんて言わないでください。この殻からですねえ、いい出汁が出るんですよ」
さすが身が濃厚だっただけある、少し煮ただけでエビのいい匂いがし始めた。
「といっても、かなり時間はかかるんですけどね。お昼はしっかり食べましたし、これは夜に食べることにしましょう」
「となると、しばらく暇だな」
俺はのんびり海を眺めて過ごすのもいいかと思っていたのだが、アンネさんはセリフのとおり手持無沙汰なようで、腕を十字にして軽くストレッチをした。
「なにを作る予定なんだ? せっかくだから適当なモンスターを狩ってこよう」
ものすごく心強い提案だな。付け合わせになるモンスターを狩ってこようだなんて。
「作るのはリゾット――ご飯系ですね。だから肉ならなんでも」
「なるほど。しかしハマークレイフィッシュの出汁ということは、魚のほうがよさそうだな」
鍋に鼻を近づけて匂いを確認したアンネさんは「思ったよりかなりハマークレイフィッシュそのものだ」と頷いた。
「さすがの私も魚は採れないし、適当にモンスターを狩って、町で魚と交換してこよう」
「本当ですか! めちゃくちゃ助かります!」
アンネさん、エビ出汁リゾットには魚介系の主菜って分かってるな! 顔を輝かせると、アンネさんは「そんな大したものを狩る予定はないから、期待はするなよ」とちょっと照れ臭そうに口を尖らせた。
「じゃあ私は行ってくるから、あとは頼む」
「え、私もアルモ密林に戻ろうと思ってたんだけどなー……おいしそうなフルーツがありそうだったし……」
アンネさんが先に行ってしまい、ウルリケは困ったようにその後ろ姿と俺を交互に見る。
「……俺はいいけど、一人で大丈夫か? 昨日だってほら、ポタリークラブも棲息してるみたいだし……」
「大丈夫、そんなに深いところには行かないから! お米、楽しみにしてるね!」
確かにあんだけ魔法を使えるなら心配はいらないのかもしれないが、いやしかし――とまだ悩んでいるうちに、ウルリケは駆け出していた。もしかしたら一刻も早く海岸から離れたかったのかもしれない。
そういうことなら、俺は一人で鍋の番をするか……。ハマークレイフィッシュとハーブの匂いでお腹を空かせながら待つのも悪くはない。
そうして、グツグツと殻が煮込まれる隣で包丁の手入れをしてみたり、残る食材を確認してみたり……としていると、不意に視界を黒いものが横切った。
「ん? なんだ……?」
いま鍋の向こう側になにか消えたような……と体を傾けたが、何もいない。見間違いにしては妙にはっきり見えた気がするのだが、気のせいだったか――。
と思った瞬間、背中を妙にふわっとしたものが撫でた。
「なんだ!? こんなところにモンスターが――」
現れるわけない、と振り向き……、黄色い目と目が合って閉口した。
「なんだ猫か」
黒い瞳孔にじろりとでも聞こえてきそうな様子で見られ、緊張の息を吐き出すと同時に咄嗟に握ってしまっていた剣も置いた。茶と黒が混ざったような縞模様の、毛の長い猫だ。ペルシャネコっぽいな、隣に住んでたおばさんが飼っていたヤツの色違いっぽい。
「……猫?」
異世界にも猫がいるのか? 思わず二度見すると、そのペルシャネコもどきは「ミッ」と短く鳴いた。




