23.二度おいしい、ハマークレイフィッシュ①
グリーンの頭が生えているところに白い手も生え、「こっちこっち」とでもいうように手招きされる。マーメイドさんは浅瀬にはあがってくることができないので、話そうと思うと桟橋まで行かなければならない。
「じゃ、俺ちょっと行ってきます」
「待て、私も行く」
すかさずアンネさんが剣を背負い直した。警戒心の塊なのはウルリケも同じで、ただしこちらは「あ、私は冷めないうちに食べるね!」と座ったまま動かない。相性的には魔法を使えるウルリケのほうが強いと思うんだけどな、そういう問題じゃないのかもな。
少し古い桟橋を歩き始めると、マーメイドさんもスーッとこちらに向かって泳いでくる。黒っぽいグリーンの髪だけでは分からなかったが、段々と近付くにつれて顔も分かり、誰なのか分かった。以前マーメイドの涙をくれたジルヴィアさんだ。
「こんにちは、ジルヴィアさん」
「久しぶり、リューガ。今日はずいぶんきれいな子を連れてるのね」
桟橋の足場に腕をのせ、ジルヴィアさんは垂れ目を細める。こうしていると人間が海から顔を出しているようにしか見えないのだが、なまじ海がきれいなせいでその半身が鱗に覆われているのがよく分かってしまう。底まで透き通った海の中では、髪と同じ色の光沢のあるグリーンの、イルカのように大きな尾が動いていた。
アンネさんは、マーメイドに会うのは初めてらしい。怪訝そうに、しかも不躾に海の中へと視線を向けるのが視界の隅に映った。でもジルヴィアさんは気にした素振りなく「あら、剣士だったのね、失礼」とクスクス笑った。
「前は冴えない男を連れてたのに、趣味が変わったのかしら」
「転職したんです。それよりジルヴィアさん、よく俺が来たって分かりましたね」
マーメイドって耳もいいんだっけ? いいとして海の中から砂浜の向こう側の足音まで聞き分けられるのか? 首を傾げていると「おいしそうな匂いがしたのよ」とその視線がウルリケに向けられた。遠目にも、その肩が跳び上がったのが分かった。安心しろ、おいしそうなのはホーンラビットであってウルリケではない。
「リューガの食事はいい匂いがするからすぐに分かるのよ。でも今日はちょっと獣臭いわね」
クンクンと、その高い鼻をセンサーのように動かす。ホーンラビットの肉にはあまり癖がないのだが、肉を食わないマーメイド達にとってはそうらしい。
「リューガこそ、私に会いたくてあんなところで食事を作ってたんじゃないの?」
「そういうわけじゃないんですけど、でも会いたかったのはそのとおりで」
ちょっと涙を流してほしくて――と言いそうになって寸でのところで思い留まった。失礼だし、なにより誤解を生んでしまいそうだ。
ジルヴィアさんは「あら、そう」と桟橋に腕を預けたまま微笑んだ。
「いいわよ。色々方法はあるもの」
「え、本当ですか?」
口にしてないけど以心伝心か? 海に向かって身を乗り出すと、文字通り白魚みたいな冷たい手にぺっとりと顔を挟まれた。
「ええ、だってたまにあるのよ、マーメイドと人間が添い遂げることも。男はマーメイドにはなれないけれど大丈夫、海で暮らせるように魔法をかけてあげるから」
「いやいやそうじゃなくて!」
冗談じゃないぞ、味噌を作りにきて海底に引きずり込まれるなんて。水の中で暮らしたら食えるものが魚と草だけになるじゃないか!
ぐぐぐと顔を上げようとしたが、ジルヴィアさんは「海の底は眩しくもなくていいわよ?」としつこく頭から引っ張りこもうとする。それは「眩しくない」じゃなくて「暗い」って言うんだ。
「いいから放し――ぐえっ」
苦しい! 急に首を絞められたかと思うと、桟橋に放り出された。どうやらアンネさんが襟首を掴んで引っ張ってくれたようだとは分かったし(さすが『力業』だ)、ジルヴィアさんの指先もするっと離れたが、マジで首が絞まった。なんで同時に二人に殺されかけなきゃいけないんだ!
「あら、邪魔しないでくれない?」
「人が殺されかけているのに邪魔もなにもあるか」
「いやアンネさんも殺しかけましたけどね……」
ボソッと呟くと黒曜石のように鋭い目で睨まれた。ごめんなさい、助けていただいてありがとうございます。
「大体、リューは食材の調達に来たんだ、勘違いしないでいただきたい」
「あらそう、リュー、ねえ……」
ジルヴィアさんとアンネさんが意味深に睨み合った。
「魚でも採りにきたの?」
「いや、魚ではなくてですね……」
実は以前もらった涙が大変貴重な調味料・味噌を作るのに不可欠だと判明したことなどなどを説明すると、ジルヴィアさんは「なーんだ」と残念そうに眉を上げた。
「そういうこと。私の涙目当てだったってことね」
「いやそういうわけでは……あるんですけど……あ、もちろんお礼にフィッシュバーガーは作りますよ!」
ぐっと拳を握りしめたが、ジルヴィアさんは「あー、あれね」とあまり興味なさそうな反応をした。
「おいしかったしまた食べたいけど……どうせなら別のものが食べたいわねえ。しかも今回は涙をくださいっていうお願いでしょ?」
「おっしゃるとおりでございます……」
何も言い返せない。がっくりと項垂れると、ジルヴィアさんはそのまま仰向けに海に浮いた。腹のあたりまであるグリーンの鱗が露わになり、アンネさんがまたじろじろと眺めている。
「でも、私って交渉事とか駆け引きとか、そういうことは苦手なのよねえ。だから、あれとは別においしいものを作ってくれたらいいわよ。枯れるもんじゃないしね」
「あ、ありがとうございます!」
「その代わり、私が食べたいものをおいしく料理してちょうだい。ちょっと待っててね」
悪戯っぽく微笑み、ジルヴィアさんは体を仰け反らせるようにして脳天から海に沈む。ドボンという音と共にグリーンの尾が翻り、水しぶきをあげながら海の中へ消えてしまった。
「……食べたいものってなんでしょう」
「さあ。大体何を食べるんだ、アイツらは」
「生魚だそうです。焼き魚が嫌いなわけではなくて、火が苦手だから扱えないんだとか」
「詳しいな」
「魚のフライを分けたときに多少話もしたんで。……アンネさん、機嫌悪いです?」
マーメイドのことを“アイツら”呼ばわりしたり、妙に返事がぶっきらぼうだったり、アンネさんらしくない。しかも「悪くない」と返ってきたので、これは絶対に機嫌が悪いやつだ。
もしかして、涙をもらうためとはいえ、ジルヴィアさんのリクエストに応えることに怒っているのか? 有り得る。
「……アンネさんも、食材のリクエストがあればいつでもお持ちいただいていいですよ? この間ロック鳥を持ってきてくださったみたいに」
「なんだ急に」
「いや、それはもちろん、僕が好きに料理をできるようにしてくれたのはアンネさんなんで、そのリクエストにはいつでも最優先でお答えしますよと」
「そんな話はしていない」
余計に機嫌が悪くなった……。暗い曇り空の下、桟橋の上で海風に吹かれながら重たい空気が落ちた。
助けを求めてそっと海岸のほうを見たが、ウルリケはジルヴィアさんが怖いらしく、鍋の隣にちんまりと座りこんでいた。俺はアンネさんが怖いんだけどな。
ただ、幸いにも、ジルヴィアさんは五分と経たずに戻ってきた。しかし今度は頭ではなく、獲物を掴んで掲げた両手から現れた。
「これ、おいしく食べられないかしら?」
その両手に握られていたのは、黒いザリガニだった。




