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売り豚は今日も世界の不幸を願う

作者: 牧村 咲希

 売り豚は、元は買い豚だった。豚になる前は無欲の人間だった。無欲すぎて人間カーストの底辺層にいた。

 生まれた時代も悪かった。少し上の世代はバブル期の恩恵を受け、たいした努力もせずにそこそこの企業に就職できたが、突然バブルが弾け、就職氷河期時代に突入した。

 たいした努力もせずに漠然とした理想を抱いていたが、すべてぶち壊された。

 正社員になることができず、派遣社員となり、派遣会社に中抜きされた給料で生き長らえてきた。コツコツ真面目に働くことだけが取り柄だった。給料は上がらずボーナスもなく、年齢だけを重ねた。贅沢はできなかった。恋人もできなかった。身綺麗にしたりデートに使う金がなかった。

 このままずっと底辺層で生きていくしかないと諦めの境地にいたが、ある日自宅でカップラーメンをすすりながら何の気なしに見ていたテレビが意識革命のきっかけとなった。

 情報番組のほんの5分ほどのワンコーナーで紹介されていたのは、とある個人投資家の1日だった。三十路くらいと思わしき男がラフなスウェット上下を着て、パソコンのモニターを何台も並べて株式の取引をしていた。1日に何度も株式の売り買いを大量にこなし、その売買益で儲けているのだと語った。元手300万円をたった3年で1億円に増やしたといい、カリスマトレーダーだと紹介されていた。

 それを見て衝撃を受けた。株で儲けよう、FXで儲けよう、為替で、仮想通貨で、そのような文言をどこかで見かけることはあっても、すべて胡散臭い詐欺臭いと思い、徹底して無視してきた。だがその日見たのはテレビで、信頼できる地上波の信頼できる情報番組だったのだ。

 紹介されていたカリスマトレーダーも全く胡散臭さや詐欺臭さを感じない、そこらへんにいる普通のお兄ちゃんという感じだった。そんな平凡そうな若い男が自宅で数時間パソコンをクリックしているだけで大金を手にしている。カルチャーショックだった。

 自分はこの十数年間、ただ職場と自宅を往復してコツコツ真面目に働き節約を心がけ禁欲的な生活を強いてきたのに、貯金はようやく百万円だ。

 会社に属するのは自分には向いていないんで、と飄々と語っていたカリスマトレーダーの資産は一億円だとそのとき紹介されていたが、その後も増え続けている。


 この差は何だと自問したとき、認めざるを得なかった。胡散臭い、怪しい、難しくてよく分からない、絶対に損をすると決めつけ、投資というものに興味を持たなかったせいだ。

 調べたところ、ネット証券に取引口座を開くのは簡単で、手軽に始められることが分かった。何十万とまとまった金がいるイメージだったが、1万円から買える株もあるということを知った。早速ネット証券の資料を取り寄せ口座を開き、10万円を入金して、低位株と呼ばれる割安感のある銘柄を買った。

 そうして、底辺層にいた無欲だった人間は欲を出して買い豚となったのだ。


 株式取引には、買う人間と売る人間がいる。それぞれ買い方と売り方と呼ばれる。そして両者は利益を得るポジションが真逆のため、対立関係にあり、お互いのことを豚と罵る。自虐的にそう呼ぶこともある。

 豚=欲深さを象徴する生き物とされるからだ。千と千尋の神隠しで豚になった千尋の両親に然り。

 買い豚と売り豚、同じ豚でも前者が善良とされる。株価が上がることを願うのが買い豚で、株価が下がることを願うのが売り豚だからだ。

 買い豚も買った株が上がれば売って売買益を得ようとするが、その行為は売り豚とは呼ばない。利益の確定、利確と呼ばれる真っ当な行為だ。

 売り豚というのは、自分が持っていない株を借りて先に売り、安くなってから買い戻して株を返済することで売買益を得る者をいう。

 つまり、これから下がりそうな銘柄に目をつけて先に売っておくのだ。これを空売りという。


 空売りした株が予想に反してぐんぐん上がることもある。値が上がれば当然損をする。10万円のものを空売りし、8万円になったら買い戻し2万円を儲けようと目論んでいたら、10万円から15万円になり5万損をすることもある。

 そして空売りの恐ろしいところは、どこまでも上がる可能性があるというところだ。10万円の株を買った買い豚は損をしても最大10万円だが、10万円の株を空売りした売り豚は50万円損をする可能性もある。5倍値上がりすることもあるのだ。そして株式取引は売買取引により精算しない限り、損益は確定しない。

 例え100万円の損をしていてもそれを確定させない限り、含み損という状態になり、いつか挽回するかもしれないとズルズル持ち続けることになる。これを塩漬けという。


 塩漬けは現物(手元の現金で買っている)ゆえ成せる長期戦であり、借りた金で買っている信用取引だと利息がかかる。

 空売りの場合は借りている株のため利息がかかる上に、前述した通り青天井なのだ。予測を外すとどこまでも上がる可能性がある。そのため損害が拡大しないうちに早めに損を確定させることも大事だ。これを損切りという。


 損切りは大事だ。理屈は分かる。しかし少し損が出るたびに損切りをして、あと数日待てば株価が反転して利益が乗ったのに、という悔しい思いを何度も経験した。

 そうして悔しい思いもしながら、失敗から学びセンスを磨き、買い豚は儲けられるトレーダーになった。最初は恐る恐る10万から始め、追加入金して元手を100万にし、それを増やして420万円にした。テレビで紹介されていたカリスマトレーダーのように3年で億り人になることなど夢のまた夢だったが、5年で元手を4倍にしたのだ。そこそこ満足のいく結果だった。


 ちょうど時代も良かったのだ。

 買い豚が日本株式をトレードし始めたのはアベノミクス真っ盛りだった。

 外国からの観光先として日本の人気が出て、インバウンド事業が勢いに乗っていた。買い豚の属していた底辺層には恩恵が感じられなかったが、街が外国人だらけになり企業の景気は上がり、日経平均は右肩上がりだった。カースト底辺層の生活は向上しないまま、大企業とそこに勤めるホワイトカラーの人々、そしてリスクをいとわなかった投資家たちが潤った。


 日銀はゼロ金利政策を続け、コツコツ貯金をして銀行に預け入れたところで年利は0.0数%だ。百万円預け入れても数円の利息。ならば元本割れのリスクはあっても投資をしたほうが賢いと、堅実主義であった人々も投資へ手を伸ばし始めた。政府もそれを勧めた。年金を当てにするな、個人で備えろと。

 一口に投資といっても投資先は様々で、比較的手堅いものもある。株式以外に債権やゴールド、ファンドや積み立てNISA。売買益で儲けることを目的とせず、定期預金に対する利息の感覚で、配当金を着実に得ていく投資スタイルは主流だ。配当金だけでなく、クオカードや品物が株主優待としてもらえる銘柄もある。


 そうして貯金一筋だった日本人の意識が変わり、投資がより一般的なものとなったわけだが、リーマンショックから立ち直り、アベノミクスで右肩上がりだった日経平均に衝撃を与える出来事が起こった。

 2020年3月のコロナショックだ。

 未知の新しい感染症コロナの感染者が日本で初めて確認されたのは1月だったが、株価の暴落は時差をともなって訪れた。

 大パニックが起こる寸前まで人々は呑気だったのだ。最初は中国の武漢という地域に限定したニュースだった。何か大変そうだがしょせん中国の話だと、まさしく対岸の火事を眺める心境だった。

 しかしコロナが上陸し拡大の危機に面し、非常事態宣言が発せられる頃には、世界中の人々がパニックとなっていた。

 株式市場もパニック売りが殺到して大暴落した。それより下の値では取引ができない、ストップ安という状態になり、米国株の取引市場ではサーキットブレーカーが発動し取引停止となった歴史的な日だ。


 このとき買い豚はそれに巻き込まれずに済んだ。それどころか大暴落に乗じて大きな利益を得ることができた。

 買い豚は武漢のニュースを知った時点で、それを対岸の火事だとは考えずに、危機感を持ったからだ。急いで手持ちの株を処分した。いくらかは損切りをして、そこから売り豚へと転身していたのだ。

 もしコロナが上陸して広がることがあれば、それまで好調であった飲食業や観光業が大打撃をこうむるはずだと予測した。そこでなるべく高値の銘柄を選び、禁断の空売りをした。


 空売りのリスクの高さは重々承知していた。と同時にハイリスクを取れる者だけがハイリターンを得られることも知っていた。

 売り豚に転身した元買い豚は全力で空売りした。この全力というのは、実際に手元にある資金以上という意味だ。

 信用取引では、手持ちの資金の3倍の金額の取引ができる。400万の資金を保証金にして、1200万円分の空売りを入れた。

 もし予測が外れて株価が上がれば、あっという間に数百万の損失が生じるというリスクを負った。

 そして売り豚は毎日コロナのニュースを追い、天に祈った。どうかコロナが拡大し世の中がパニックになり株価が大暴落しますように。

 世界の大惨劇を願う、悪魔のような願いだった。我ながら人でなしだと思ったが、売り豚はもう人ではなかった。強欲の炎に胸を焦がし、不安で夜も眠れぬ豚だった。


 そして売り豚は勝負に勝ち、4千万という利益を確定した。しかし2割は税金で持っていかれる。世の中の不幸に賭けて増やした金が、どこかで世の中のために使われるなら善いことだと思うことで少し救われた。

 目標の1億円には全然満たない。株の売買で1億円の利益を確定して億り人になることはやはり夢だった。

 そこで売り豚はさらに空売りを追加した。

 思えば、びびって買い戻しをするタイミングが早かったのだ。もう少し引っ張ればもっと利益が出たのに気弱になってしまった。


 売り豚は強気で売り豚を続けた。コロナ禍は長く続くと踏んだからだ。1年やそこらで解決する感染症ではない。

 その読みは当たり、コロナ禍は2年以上続いたが、株価は大暴落のあと劇的に回復し、コロナショック以前を越えて、ゆうゆうと上がっていった。

 経済が沈まないようにと世界中の政府がこぞって量的金融緩和を実施したからだ。大規模な給付金の支給や無利息の資金提供、金利下げなどを行い、世の中に出回るお金をじゃぶじゃぶに増やしたのだ。

 コロナショックは一転してコロナバブルとなった。日経平均はぐんぐん上昇して、2万8千円程度からあっという間に3万を越えて、さらに上昇し続けている。


 売り豚は詰んでいた。完全に読み違え、損切りをしてはまた空売りをし、いつか必ず反転するはずだと信じ、売り豚で居続けたのだ。

 そして追証の寸前まで追い詰められていた。損失が大きくなりすぎて、預けている保証金では足りなくなったのだ。さらに入金をするか、含み損を確定して精算しなくてはならない段階が来ていた。

 ここで諦めて損失を確定してしまえば、トータルで3700万円の利益を失う。元手100万円が一時は4000万円となった。そして今は300万だ。損はしていないのだが、死にたくなるほどの大損だった。

 日を追うごとに利益は減っていき、残っている300万円の利益も数日中に吹き飛ぶかもしれない。利益が無くなるどころか、マイナスに突入することも視野に入ってきた。


「買いは家まで、売りは命まで」という株の格言が脳裏をよぎった。

 買い豚は負けても取られるのは家までだが、売り豚は命まで取られるという、空売りのリスクの高さを説いた言葉だ。

 空売りを大きく失敗すると借金ができる。借金苦で自殺する者も珍しくないという。


 格言を意識し始めた売り豚の耳に、きな臭いニュースが飛び込んできた。

 ロシアがウクライナに侵攻するかもしれないという報道だ。ロシアの動きを監視していたアメリカの発表だが、ロシアは完全否定した。演習のために兵を動かしているだけであって、軍事侵攻するつもりはない。ロシアを敵対視しているアメリカの誤報であると。アメリカはそれに対して反論し、信憑性を主張した。


 売り豚は期待した。再び天に祈らずにはいられなかった。どうかどうか戦争が起こらないでくださいと世界中の人々が願う中、人でなしの豚は違う方向に祈った。

 決して口にはせず、分別をわきまえてただ強く願う。


 売り豚は今日も世界の不幸を願う。


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