第1話 前進
少年は力強く大地を蹴り、前へ出る。
「待ちやがれ!!」
その怒号は江戸の町まで轟いた。真夜中であれ、きっと誰かは聞いていただろう。少なくとも一人は、あの高々とそびえ立つ城の主には――。
『……待ってるぜ?』
城の主は独り、天守閣にて酒を飲む。けれど酔うことは決してない。その瞳は江戸の町ではなく、もっと先にある何かを観ていた。
『やはり、大空の美しさだけは不変か』
【この世界の人々には明確なモノサシが存在した。“有能”と謳われる優位な特異能力を持つ者、そして“無能”と蔑まれる劣位な特異能力を持つ者。
その少年は“無能”の中でもごく稀な、特異能力を全く持たない正真正銘の劣等種だった】
少年は息を切らしていた。
「今すぐ離せ!」
名を塚原進、弟の優次郎を守るために駆けつけた。
春はまだ来ない。山々では雪が積もる頃だろう。この江戸ですら肌寒い、夜はもっと冷え込んでくる。
そんな中、進は汗をだらだらと流し、凍てつく冷気を肺に取り込む。だが、その痛ささえも忘れるほどの事態がそこにはあった。
進のいない間に、見知らぬ男が優次郎を担ぎ去ろうとしていたのだ。男は黒の羽織を着ていて、その姿は高貴な武家を思わせる。
「兄さん!!」
優次郎は、兄である進の姿を見てはそう叫んだ。
その様子を見た男は、
「ああ、お前が兄か。家に居なかったのでなぁ、見逃してやろうと思っていたが、見つかってしまったのなら殺さねば。……運の無き者だ」
と言って、優次郎を足元に置き、ゆっくりと剣を抜いた。その眼光は獲物を前にした鷹の如く鋭かった。
その男の後ろには杖をついた老爺がいた。
「石楠花、すぐに済ませる。手足は縄で縛ってる故、大丈夫だとは思うが、こいつが逃げないよう見張っていてくれ」
男は老爺にそう告げる。
「兄さん逃げて!」
「――次喋ったら殺す」
優次郎は男の殺気ある言葉に黙りこむ。
「今回は影でコソコソ仕事をしているが、拙者は本来は名のある武士だ。小僧であれ、剣を持つ者には名を名乗ろう。……拙者の名は剛健」
「犯罪者に名乗る名は無い。……お前を倒す!」
剛健の威圧力は進とは段違いだった。
進はそれでも刀を抜く。
「行くぞォ!!」
進は剛健の懐を目掛けて走り出す。
(フン。小僧、実戦経験を積んでいないな。意図もなく敵に攻撃の合図を送るとは――)
――進の切っ先が剛健の喉元に迫る。
「笑止ッ!」
しかし、進の一撃は容易にいなされた。
そこからは剛健の疾風の如く激しい剣戟が始まった。
進も負けじと剣術を駆使するが、数年かけて学んできた剣道は、圧倒的な力の前には意味を成さなかった。
剛健は手を抜き、力任せの乱雑な攻撃をし始める。進はそんな攻撃にすら右へ左へ体を動かされてしまう。
「ふんッ!!」
剛健は大上段から、大きな弧を描きながら振り落とした。進は剣で受けるが、五歩ほど後方へ押されは立て膝をついた。
「弱すぎる……」
剛健は進に刃を向け、ゆっくりと距離を詰める。それにならって進も刀をグッと構え、全ての神経を研ぎすませて相手にのみ集中する。しかし、進は道場で何度も言われてきた“力まない”ことすらできなかった。それほど剛健の重圧は凄まじいものだった。
剛健は有能者の中でも実力者だ、無能者ならば殺気だけで戦意喪失してもおかしくはない。進は立っていられるだけでマシな方であった。
「来いよ、外道」
進は痛みと恐怖による手の震えを根性で抑える。相手との体格差はあまりないものの、単純な身体機能では遥かに劣ることを、進の体の防衛本能が恐ろしい程に感じとっていた。
「どうした、震えておるぞ。小僧、“無能”なのであろう? それにしては、拙者相手によくやったものだ」
有能者は主に“火を吐く”などの特異能力を一つ持ち、それだけではなく、個体差はあれど超人的な身体能力も持ち合わせている。故に、無能者の時点で素の身体能力に大きな差が存在することになるのだ。
そして剛健の特異能力は“体力上昇”。つまり、有能者特有の超人的身体能力と、その上に桁違いの体力が上乗せされているということになる。
よって無能者である進の攻撃がいくら当たろうが支障は無いに等しい。
とは言え、それ以前に進は攻撃の一つさえも当てることができていないのだが……。
「うるせェ!!」
進は大上段から力強く刀を振り下ろす。しかし簡単に右へ振り払われてしまう。
「――ッ!」
それでも進は退くことなく、体勢が悪くとも持ちこたえ何度も斬撃を繰り出すが、全ていなされる。それでもかかんに挑み続ける進。
そして渾身の一刀を繰り出すも相手の剣で受け止められ、つばぜり合いにもっていかれてしまう。
「躱されても退かずに進み続ける、か。その度胸、判断力は認めよう。鍛錬の証は見える。……が、経験不足だな――!」
剛健は進の刀を弾き返し、今度はこちらの番だと言わんばかりに、体勢を崩した進に強烈な無数の打ち込みを畳み掛ける。
「くそッ」
進は後方に押されながらも何とか相手の斬撃を剣で受け止めていく。だが進と剛健とでは、物理的力と技量において埋められない差が存在した。
このままでは直に身体が攻撃に追いつかなくなると察しながらも、進には反撃する余力もなかった。
(まずい。このままじゃ相手の勢いに体が持ってかれる! でも、もう立ってられねェ……)
ついに進は大きくよろめき、後ろへ倒れかけた。
その瞬間を見逃しまいと剛健は凄まじい袈裟斬りを繰り出し、その刃先は勢いよく風を切りながら進の喉元へ迫る。
(――死ぬ!)
――鋼がぶつかる音と共に火花が散った。
「まさか拙者の本気の一撃を止めるとはな」
進は低姿勢になりながらも、間一髪のところで刀で受け止めた。
「へッ、遅いし弱ぇな……あんたの本気は」
だがこれで終わりではない。剛健は刀への力を抜かず、進を叩き潰すほどの勢いでさらに力を加えていく。
「そうか。ならばそのまま潰れるがよい」
進は中腰より少し低いくらいの高さのまま、右手で柄を強く握り、左手を峰に添えながらなんとか全力で耐えていく。そこに余裕などは微塵もない。
有能者の特徴である怪力、その強さは進に上体を起こさせないばかりか、今にも体が折れるほどであった。
剛健は力を加え続けながら、突然に不気味な笑みを浮かべる。
「!?」
「無能にしては確かに強い。だが有能者からすれば微々たる力。無能がどんなに頑張ろうと」
その瞬間、剛健は刀への力を抜き、進は前方の剛健へよろめく――。
「悪足搔きでしかないッ――!!」
剛健は向ってきた進のみぞおちに強烈な膝蹴りを入れ、進はえずきながら後方へ吹っ飛んだ。
進は倒れこんだまま、右手の肘を地面に付き、左手で胸を叩く。進は先ほどの衝撃で息ができないままでいた。それでも右手の刀は決して離さない。
「どうした。弟を取り返すのであろう?」
剛健は一歩ずつ、ゆっくりと時間をかけて進へ迫る。しかし、進は浅い呼吸を整えることで精一杯だった。
「いいか、どれだけ頑張ったところで才能の壁は越えられないのだ。有能者ならば、ある程度の鍛錬があればそれぐらい、すぐさま立ち上がることができる」
その時、剛健の後方から老爺の声がする。
「早う殺しておくれ、大殿が待っておられる。この弟が先程から暴れてのぅ……早う済ませて運んでどくれ」
この時、進は剛健との戦闘で忘れていたが、優次郎は老爺の足元で抵抗していた。
老爺は優次郎を担ぐことも、引きずって連れていくことも出来そうにない佇まいだった。
「これでも、拙者は虎子の座へあと一歩のところまで昇りつめた男。“有能狩りの剛健”として、力無き者が出しゃばることは、非常に許し難い! 拙者は、無能が刀を握ることすら気に食わぬのです」
剛健は自慢げに話した。
虎子とは、幕府の階級のこと。現在二十八人のみの、武勇に優れる者達のことである。
(実力のみなら虎子と同等とは聞いていたが……。我が強すぎて殺し屋には向かぬな)
老爺は剛健を雇ったことを悔やんだ。
本来であれば本職の暗殺集団を雇うところだが、諸事情により期日までに雇えたのは剛健とその他数名の者だった。
「ほほぉ、そうかそうか。お主は武を極める者じゃ、譲れないものもあるのだろう」
老爺は強い武者ほど自己主張が強く、自尊心が高い傾向にあり、特にこの手の武者は激情的に語りだすと何を言っても焼け石に水だということを分かっていた。
(仕方ない。実力は確かであるし、ここは任せるか)
老爺は軽くため息をつく。
「弟や、大人しく儂について来てはくれぬかの? もしそうするのならば兄は殺さないと約束しよう」
老爺は優次郎にそう提案した。勿論、進を生かす気などは微塵もないが、殿直々に優次郎をお目にかかられるということで、待たせるわけにはいかなかったのだ。
「うッ……ッ」
進は老爺の声を聞き、地べたを這いずりながらも、優次郎がついて行かないように必死に叫ぼうとしたが、声は出ない。
優次郎は老爺の提案に頷いた。
「だっははは! 何たる無様、何という屈辱! 兄でありながら弟に助けてもらうとは、正に無能!」
剛健の高笑いに、進は睨むことしかできない。その姿は敗者そのものだった。
「では剛健よ、儂は先に殿の元へ向かうが――」
「拙者は少しだけ残りまする」
剛健は食い気味に答える。
「待って! 兄さんを殺さないのになぜ残るんだ!」
「殺しはしない! ちょっとした指導をするだけだ。……それとも何か文句でもあるというのか?」
剛健の殺気にまたも優次郎は黙る。
老爺は優次郎の足を縛った紐を解き、無抵抗の優次郎と共に荷馬車へ向かった。
優次郎は歩き出す直前に進の方を向いて恐怖に怯えながらも作り笑いを見せた。それは優次郎なりの別れの挨拶だった。
だが後に老爺は、進の死を見届けるべきだったと酷く悔やむことになる。
「ああ、行ってしまわれた。何と健気な弟だ! だが、従わなければならないのはあの子が弱いからだ。そして、お前には才能が無い。剣を握る資格も無い。ただの無能だからここで死ぬのだ!」
依頼人である老爺が居なくなり、何かのリミッターが外れたのか、剛健は半狂乱のような様子になっていた。
そして彼の暴言は進の記憶を呼び覚ます。
…………………………
剣道場に入ったばかりの頃。
「さあ、自己紹介だ」
「塚原進です!」
入門する前には両親を亡くしている進。
“両親がいない”、それは同情の対象になりやすく、武士道や仁義を重んじる者達には何かと気を遣われ、優遇された。
だが別に進が怠けていた訳でもない。むしろ誰よりも努力しただろう。ただ、無能力者であった。
「おい。お前、無能のくせになんで優遇されてんだよ」
親がいないことで優遇され、なおかつ無能という立場であれば非常に疎まれやすかった。縦社会の中での新人という立場と、相手が弱者という二つは、さらに虐めを加速させた。
兄弟子達からは稽古でも、それ以外でも虐めを受けた。複数の有能者達に何度も叩きのめされた。
それでも進は毎朝、誰よりも早く道場へ行く。
「二度と来るな。無能」
「弱者は剣を持つな」
「親も無能だから死んだのか?」
「弟は体が弱くて剣すら持てないらしいな。兄弟そろって駄目な奴らだ」
毎日罵声を浴びせられてきた。勝負の場である道場は嫌でも力の差が明確になる。そして進が有能者に勝ったことは一度もない。
「「無能は早く消えろよ」」
…………………………
(俺が何したってんだ。……やっぱ無能は生きちゃだめなのか)
進の心が崩れていく。それと同時に体も脱力し、死ぬを受け入れようとしていた。
「無能の兄よ。今頃弟も、お前の無力さを恨んでいるぞ」
(弟……)
優次郎はいつも夕食を食べずに、進の帰りを待っていた。彼だけは常に進の味方であった。
――兄さんは凄いよ。いつもお疲れさま。
(ああ……そうだったよな)
進の頭の中は嫌な記憶だけではなかった。
――僕には兄さんしかいないからさ。友達もいないし。剣も使えないし。体も弱いし。本を読むことしかできないし。……家族は兄さんだけだから。
(そうだ。お前だけはいつも……)
――家で一人待つのはやっぱり寂しいや。
優次郎はとても寂しがり屋だった。だが頭が良く、すぐ人に気を使い、遠慮をする。
進はそんな寂しがり屋の弟に、別れ際まで強がらせてしまった。
(……ここで俺が倒れてたら。あいつが、独りぼっちになっちまうだろうが!!)
「ゔぁあああ!!」
その雄叫びは、自身を鼓舞する声にしてはあまりに悲惨なものだった。そして思いとは裏腹に、体はまだ動かない。
「なんだぁ? 別れの挨拶がしたかったのか? 残念だったな……お前はここで死ぬんだよォ!!」
剛健の表情は、まるで殺害を楽しんでいるかのようだった。だが進が怯むことはない。
(声が出たんなら、体も動くよな……。何が何でも立ち上がるんだ……)
進は呼吸を乱しながらも、ゆっくりと立ち上がる。その間もしっかりと相手を睨みつけていた。
「なんだその立ち姿は、まるで生まれたての小鹿ではないか!」
剛健は笑った。
だが進の眼光は怒た虎のようだった。
「前へ進め……もっと……」
刀を構えた進は自身を鼓舞し続ける。
「弟の願いも無駄になる。本当に救えない奴だ! ほら、何か言い返してみせよ! この剛健に!!」
しかし剛健の声は、死地に立たされ深い集中に入った進には全く響かない。
進はただ一歩ずつ、一歩ずつ、前に進むのみ。
それでも剛健には余裕があり、自分に酔ったままだ。目的の遂行ではなく、痛めつけることを心から愉しんでいる。
(全ての力を注ぎ込む。今までの剣術を、俺の全てを!!)
進の集中の領域は今までで一番深いところに到達した。
「無様だ……無様なんだよ! 無能がァ――ッ!!」
「進めッ――!!」
二人は真っ向から突進する。どちらも袈裟斬り。
(このまま刃がぶつかり合えば力勝負になる。さすれば、負けるはずがない!)
剛健は自分の攻撃のリーチを完全に把握している。そして進との距離は、斬撃可能な範囲内に入った。
勝ちを確信した剛健は全力で剣を振るう。
――風が靡き、余波は空を揺らす。
その刃は大きな音を立てて一直線に空を斬った。
(何ッ!?)
剛健は刃が当たる音がせず、何も感触がなかったことに驚いた。右下に目をやると、低姿勢になり剛健の視界から隠れていた進がこちらを睨みつけていた。進の刃先は剛健の脇の一寸手前にまで迫っている。
(小僧ッ、あれを避けただとッ――!!)
両者とも袈裟斬りだった。袈裟斬りとは、斬られる相手からして、左肩から内側へ斜めに入る斬り方である。
端的に言えば右上から左下への斜め斬り。
進は袈裟斬りに見せかけ、剛健の袈裟斬りが当たる高さより下に、そして少し左へ体を動かした。
剛健の袈裟斬りを躱すと、そこから隙ができた剛健の右の脇へ斬り上げる。
――進、お前は異能力を持たない。……だからこそ、誰よりも壁にぶつかり、その度に乗り越えている。困難を打ち破る才能を、お前は持っている。
進の脳裏には、微かに亡き父の言葉が思い起こされた。
(俺は絶望に慣れている。だから、絶対に屈しないッ――!!)
――切っ先は想いを乗せ、確かに肉を斬り裂いた。
第一話終了!
初投稿ってワクワクしますね!
全身全霊全力の前進していく物語開幕です。
魂ある限り全力で進めッ!
――ひと休みの後日談ズ――
このコーナーは、全身全霊ではなく、ひと休みできる(読まなくても差し障りない)後日談コーナー!
『大江戸に住んでいる!』
進は江戸の城下町にほぼ毎日通い、道場で稽古をしたり、バイトをしている。
進の住んでいる家も「江戸」とは言っているが、実際は町から外れた自然豊かな場所にある。地理的にいえば本当は江戸じゃない!(多分)