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一般向けのエッセイ

「私的なおしゃべり」が全ての世界

 小島慶子というアナウンサーがいて、その人が家庭や仕事について語っているインタビューというものを最近読みました。ネットニュースで、今でも見れると思います。

 

 そのコメント欄を見ると、批判コメントが多く、(この人ってこんな嫌われていたんだ)と思いました。

 

 それ自体は別に取り上げるような内容でもないのですが、私はインタビューを見ていて(普通のおばさんの話ってこんな感じだよな)と思いました。最近、普通のおばちゃん、おじちゃん、お兄さん、お姉さんの話を聞く機会があります。私も日常生活は無法者ではないので、おとなしく聞いているんですが、内心退屈というか、どうでもいいなあ、という感想しかない。

 

 普通の人の話を聞いていて、面白くないと感じるのは、自己相対化がなされていないからです。相対化という言葉が難しければ、自己客観化という風に言い換えましょう。自分を他者の視点で眺める、そういう視座が欠けているので「そうなんだ~がんばってね~」という適当な雑談にしかなりません。

 

 もちろん、普通の人は、話の内容に普遍的価値があると思っているわけではないので、雑談レベルではそれで構わない。真面目に議論するわけでもないわけですから、適当に合わせていればいいわけです。

 

 しかし、件の小島慶子の話になると、そういう普通の雑談を、公共の場に持ち出す事になるので、問題が生じます。要するに、旦那が、子供が、親が、仕事が、と色々語るのですが、結局、自分の正当化にしか聞こえない。正当化しても構わないですが、そうであるならば、そこに他者の視点を持ち込まないと、一般的な論点として意味のあるものにはならない。「旦那は〇〇が問題だ」というのを友達に語る分には問題ないですが、それを公共の場で同じレベルでやる事に問題があります。

 

 小島慶子という人はそういう「普通の人」だと思っているので、私は嫌いでも好きでもありません。ただ、彼女は頭が良いといえば良いので、理屈やフェミニズムと結びつけて自己正当化をしてしまっている。そこに視聴者の反発を買う部分があったのだと思います。ただ、ここで大切な事があるとすれば、頭の良さと、自己を客観視する能力とは別だという事です。ここを分けて考える必要もあるかと思います。

 

 小島慶子の話に関してはそれで終わりですが、こうした事はもっと大きな場でも起こっていると感じています。つまりあらゆるもの、特に、ネットを中心に広がっていくコミュニケーションの世界ーーそれらがすべて、私的なおしゃべりになっているのではないか、という事です。小島慶子が、私的おしゃべりを公的な所に持ち込んで、そこに断絶を感じないと同様、この世界そのものが全て、私的おしゃべりと化している。私はここに気味悪いものを感じています。

 

 ※

 

 抽象論をしてもわかりにくいので、具体例を持ち出して考えてみましょう。

 

 私的なおしゃべりしかない世界、それが公的なものを侵食しているというのは、ユーチューバーという現象に顕著だと思います。特にユーチューブの動画に付けられるコメントは、私は前から気持ち悪いものを感じてきました。もちろん全て、というわけではありません。

 

 これは実際にあるコメントですが…某プロ野球選手のレジェンド二人が、野球ゲームをしている動画があります。レジェンド二人がはしゃいでゲームをしているのですが、それに対して次のようなコメントがあります。

 

 「二人共、少年みたい。かわいいおじさんがはしゃいでるのを見て、こちらも幸せな気持ちになりました」

 

 特定されたくないのでアレンジしましたが(個人攻撃は目的ではないので)、こんな感じのコメントがあります。まあ、よく見かけるタイプのコメントなので、説明の必要もないでしょう。

 

 このコメントを簡単に分析してみましょう。まず最初にあるのは「野球界のレジェンド二人」です。要は、彼らは雲の上の存在という事です。野球をしている限り、一線で活躍している彼らは雲の上の存在だった、というのが最初にあります。

 

 その二人が動画に出てきて、野球ゲームで少年のように遊ぶ。それは見慣れた光景であり「私達」がやっている事でもあります。つまり雲の上の存在、レジェンドが地上に降りてきて、我々と同じ「地平」に立ったという安心感があるわけです。

 

 更に、コメントでは、その二人に対して「共感」「同意」がされます。最初、レジェンドだった二人が、ユーチューブを通じて地上に降りてくる。それに対して「共感」「同意」がなされる。こうして、高い次元に見えていた二人が、「私達」と同じグループに属する。こうして…言ってみれば、「下々の」我々は、安心してほっとする。

 

 この水平化、内輪化が、公的なものを私的なおしゃべりに変化させていっているというのはわかりやすい所でしょう。物事には、高く上っていく方向と低く降りていく方向があります。現在、人々が好んでいるのは全てを引き下ろしていく事です。「レジェンド」が我々と同じ飯を食っていたり、同じような事をしていたら、我々は喜ぶわけです。こんな現象が至る所に起こっている。水平化の現象は顕著になっている。この水平化を満たすのは「私的なおしゃべり」です。公的な領域において偉いとされている人、立派な人が、私的なおしゃべりを自分達と同じようにしてくれれば大衆は喜びます。偉いとされている人も、大衆の承認が必要な社会ですから、率先してそういうパフォーマンスをします。

 

 ※

 

 こうした世界においては公的なものは暫時、私的なものへと変換されていきます。私的なおしゃべりで全てが決定されていく。小島慶子の話のようなもので、そこには客観性が欠けている。しかし、客観性の欠如は、「感覚的な同意」によって補われると信じられている。つまり、横にべっちゃりとくっついて、それぞれに慰め合う事によって、「他者性」や「普遍性」のような、実際にはないものがあるかのような見かけになる。

 

 こうした内輪の拡大だけが、メディアによって邁進されている。今は、メディアも批判される事が多いですが、メディアは大衆の先鋒でしかないと思います。科学で言う所のエントロピーの増大のように、放っておけば雑草が伸び放題になるように、人々の主観は規制される事もなく、制御される事もなく、それらを無際限に肯定する事が善とされており、その世界においてはくだらないおしゃべり、私的な好悪、つまらない主観が公共的な空間を占めてしまう、という事です。

 

 ユーチューバーがテレビにまで進出してきたというのは、そういう私的なおしゃべり、本来なら私的な部分で満足するべきはずのものが、世間というものにまで出てきた事を示していると思います。内輪で楽しんでいる分には問題ない、というものがあるのは当然としても、その内輪が全てになってきているという事です。そういう現象が顕著であると思います。

 

 専門家が素人受けのするあやふやな事を平気で言う、政治家が大衆受けのパフォーマンスをやってみせる。それらは専門領域と呼ばれるものが、現在では素人の領域に解消されていっている事を示している。こうした現象は偏在的です。私は世界がそうなってきていると感じます。この傾向はこれからも当分続くでしょう。人は楽な方向に流れるのが好きですから、中身のあるものを理解しようとするよりは、中身があるとされているものが自分達の側に降りてくれる方が嬉しいのです。テレビタレントというのは、そもそもそれほど高いものでもなかったのですが、その彼らすらもユーチューブを通じて、更に下方に降りてくるのが求められています。みんなでだらっと輪になって、楽しくボケているのがいい世界なのでしょうか。よくわかりませんが、こうした世界がそのまま進捗していくとは私には思われません。

 

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